君がいる明日 - main
仕置きの時間 後編


 強い視線に見下ろされ、アーサーは堪らず震える身体を後ろへ退こうと身じろいだ。糊の利いた冷たいシーツへ手を着いて、体重を乗せる。
 しかし、どんなにもがけど抜け出せる気配はない。
 室内灯の明かりを背にした男が覆い被さると、途端に陰が出来た。その愉しげな相貌は昏い翳りを帯びていて、知らず血の気が下がる。
 ひく、と引き攣った喉は、上手く言葉を発してはくれなくて。

「……やっ……――」

 目の奥からじわりと迫り出す涙が、水の膜を張って視界を利かなくする。小さく開けた唇は震えるばかりで、アーサーが思う通りには動かない。
 そんなアーサーの顔を見て男が満足そうに嗤った――その時だ。

 プルルル、と味気ない着信音が響き渡る。アーサーは一瞬自分の物かと思ったが、どうやら男の腰のホルダーから発せられているようで。
 先程写真を撮られた物とは別の携帯電話を、男が取り出して二つ折りのボディを開く。当たり障りの無い黒いカラーと、一目で古い機種と知れるシンプルで厚めのデザインに、勤め先から支給される仕事用と当たりを付ける。
 窺い見るアーサーの視線の先、男は発信相手を確認するや否や、何の躊躇もせずにボタンを押した。着信を切ったかに思った其れを、事もあろうか耳に押し当てる。

「やあフランシス。丁度良かった。例の子を捕まえたんだけどさ、俺一人じゃどうにもネタが無くてね。君はそういうの、得意だろう?」

 見下ろす蒼い視線が、アーサーを値踏みするようにすぅと細められた。大声を出して助けを――だなんてとんでもない。このままでは仲間を呼ばれる――……得意って、なにを。

「や…やだ……」

 消え入りそうな声は男の耳には届かなかったのか、目の色一つ変わらない。

 ――……終わった。
 色々な事が一遍に起こった思考は焼き切れ、脳が下した絶望の二文字をぼんやりと受け入れる。身体から力を抜くと、目尻から一筋の涙が溢れてこめかみを伝った。
 濡れて歪んだ視界に映る男の影が、勢い良く身体を起こしてアーサーから離れる。

「――……な、なんだって!?」

(……?)

 鼓膜を震わす大声。ぱちぱちと瞬いて水滴を払った視界はクリアになり、呆然と此方を見ている男と目が合う。

「……被疑者確保……? え、現場を押さえたって……」

 初めて正面からぱちりとかち合う眼差しは、澄んだ空の蒼をしていた。

「じゃあ、君は……」

 状況に置いてきぼりのアーサーは、男の言葉に何も答えられない。
 たっぷりの疑問を含んだ蒼が、丸々と見開かれてただ真っ直ぐにアーサーを見下ろしていた。




   ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇




「また被害者が出たらしいな」

「これで何人目だい、注意は呼び掛けてるんだろ? いい加減情けなくなってくるよ」

 その日の午後、アルフレッドは休憩室で珈琲を飲みながら、同僚のフランシスと最近署内を騒がせているある事件について話していた。

「はは、まあそう言いなさんなって。男は幾つになっても浪漫を追い求めるモンなのよ」

「俺には理解出来ないね。相手は未成年の、しかも男なんだろう?」

 痴漢をさせてお金を受け取る――あるいは、お金を渡す代わりに痴漢プレイをさせて貰う。
 マニアックではあるが、ある意味で立派なギブアンドテイクの契約は、どこか一カ所でも綻びて仕舞えば只の犯罪行為に他ならない。
 例えばそう、相手が未成年であったり。

 痴漢行為を働く側に問題があるなら検挙のし甲斐もあると云うものだが、今回は逆。本来法に守られて健やかに育まれる筈の未成年の側に、事件のミソはあった。

「……『インターネットで相手を募集し、痴漢された証拠を抑えて最初に提示した以上の金銭を要求。呑まない場合は痴漢として駅員に突き出す』か……。そもそも痴漢したがる側さえ居なければ、起こりようのない問題だと思うけど」

 涙ながらに「こんな筈じゃなかった」と経緯を話す彼等を見て胸が痛まない訳では無かったが、如何せん相手はいたいけな子供に買春を働く痴漢である。

「だからって、子供の方もこのまま黙って見過ごす訳にはいかないでしょ。あと少し、もう少し、まだ大丈夫。そうした甘えが何人地獄に落とした様を見てきた。止めるのは今なんだよ」

「分かってるさ……」

 何かあってからでは遅い。アルフレッドは少年課の警察官として、是が非でも止めさせなければならないのだ。

「お前なら捕まえてどうする?」

「そりゃあ、もうこんな事はしないように説得するぞ!」

「かーっ! だからお前は若いんだ。いいか? 今時のガキが口で言って訊く訳ないでしょ」

「……なら君ならどうするんだい」

 フランシスは待ってましたと言わんばかりに鼻を鳴らしてアルフレッドを見た。

「簡単よ。ビビらせて、もうやる気を起こさせなくすりゃいいんだ。今キミがしてるのは、こんなにこわーい事なんだぞー……ってな」

「……どうやって」

「目には目を、痴漢には痴漢だろ」

「なっ……俺にやれって言ってるのかい!? そんなの出来る訳ないだろう! 俺は痴漢じゃない!」

「そう、痴漢じゃない。だからこそ俺達がやらなくちゃいけないんだ。本物の犯罪者がどれほど恐ろしいか、俺達が一番よく知ってるだろ。今は遊びや小遣いのつもりでも、一歩間違えばどれほど恐ろしい事になるか……。本物はこんなもんじゃねぇんだぞって、分からせてやりゃあいい。そうすりゃ二度と馬鹿な真似をしようなんて思わなくなる。一回味をしめちまった奴はなかなか抜け出せないモンだぜ? そんな奴等いっくらでも見て来ただろ。……俺達にしか出来ないんだ」

「でも……」

「いいかアルフレッド、そんなお前にありがたーい言葉を授けてやろう。……勝てば正義、だ。中途半端は許されないぜ、これは犯罪すれすれの荒療治……敗北は以ての外だ。徹底的にやれ。そうすれば、お前の正義の前に、相手は必ず救われるだろう……――」

 真面目な顔で語り終えたフランシスの肩からふっと力が抜け、何かをやり遂げたしたり顔で顎髭を撫でる。

「――……っつー設定のAVを観てよぉ。いやァなかなか良かったが、そんな警官マジでいたら堪ったモンじゃねぇよなあ。なぁアル……アルフレッド?」

 フランシスは辺りを見回す。誰もいない。

「いない……っまさかアイツ!? ……いや、正義感の塊みたいなアイツに限ってまさかな! まさかまさか。はは、はははは。ははははは……――俺も現場に戻るか」



   ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


「ほんっっっとうにすまない!!!」

 アーサーは自分と同じベッドの上、目の前で深く頭を下げて土下座の姿勢を取る男を見た。

『君は……どうしてあの場所にいたんだい?』

 通話を終えた携帯電話を呆然と放り、恐る恐る訊ねて来た男に痴漢を捕まえる為だと答えた後の展開は早かった。
『リセットボタンは何処だい!』と叫んだ男は乱れたままのアーサーの衣服を慌てて整え、目尻の涙を拭われびくっと肩の跳ねたアーサーを見るや後ろに跳び退さって距離を置いた。

 アーサーの手には今、男から名刺の如く差し出された警察手帳がある。男の名はアルフレッド・F・ジョーンズ、正真正銘の警察官だ。
 男の証言を全て信じるとしたら、男……アルフレッドもまた、事件の犯人を捕まえようとしていたらしい。向かった先の現場には先客……つまりはアーサーがいた訳で。それで、それで――。
 アーサーは頭を抱えた。

「俺の事を訴えてくれて構わない。言い訳は一切しない、君の証言が全てだ。俺は君の意向に従おう。約束するよ」

 真剣な表情の男と目が合う。
 男は言い訳は一切しないとの明言通り、何故こんな事をしたのかと問うアーサーにただただ「すまない」と頭を下げるばかりだった。本当に、悪い男ではないのだろう。……今は未だ、心から信用する気にはなれないが。

「俺は警察官として、一人の人間として、何としてもこの罪を償わなきゃいけないんだ。迷う必要なんかない、どうか断罪して欲しい。君には其の権利がある」

「――訴える……って、それはつまり警察やらに……お前にされた事を言うって事か?」

「ああ。有りの儘……君が見て、感じたままの全てを証言してくれていい。詳細を求められるだろうから、これも証拠に使ってくれ」

 差し出されたのは、男のプライベート用と思しき星条旗のステッカーが貼られた携帯電話。恐る恐る手に取って、操作し、アーサーは動画の再生ボタンを押した。

『……やっ……』

 慌てて動画を止めた小さな画面の中には、紛れもなく自分の、肌蹴た衣服から半裸を晒し肩を震わせながら呼吸を乱して涙目で見上げる姿が映っていて。
 アーサーはすうと息を吸い込んだ。

「出来るかばかああああああああ!!」

「Ouch!」

 力任せに投げた携帯電話は見事、持ち主の額にクリーンヒットした。
 アルフレッドがじり、と距離を詰める。慌ててアーサーも同じだけ距離を取るも、先程は感じられた猛禽類のような蒼は、今はもうない。

「俺の気が済まないんだ! 責任を取らせてくれ!」

「よっ寄るな触るな近付くな!」

「アーサー、俺は本当に申し訳無い事をしてしまったと思ってるんだ!」

「名前も呼ぶな! 忘れろ! 忘れちまえ! 俺も忘れるから!!」

 頼むからと、アーサーの方が乞いたい気持ちになる。シーツの上をずりずり移動していたら何時の間にかもう後がなく、ベッドから落ちる寸前で動きを止めた。
 なんだ、俺は助かったんじゃなかったのか?アーサーの目には新しい涙が浮かぶ。

「忘れられる訳……ないじゃないか……っ」

 男の視線の先をつい目で追ってしまった事を、アーサーは盛大に後悔した。
 膝を折って縮こめていた脚を伸ばして、思い切り蹴り上げる。

「ばかああああ!」

 ベッドから転がるように降りたアーサーは鞄を拾い上げた。
 もう二度と逢う事もないだろう男は振り返らず、先ほど聞いた通りに機械の投入口へ紙幣を入れて部屋を後にする。
 お釣りを知らせる自動音声が聞こえたが、惜しむ気持ちはない。


 ――……この時、アーサーが自分の財布から室料を支払った所為で余計に男の正義感を刺激した事、自身が奪取し忘れた学生証が二度目の出逢いを齎す事を、アーサーはまだ知らなかった。








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