君がいる明日 - main
仕置きの時間 中編


「んんッ、…ふぅ……っ」

 突然の事態に全く思考が追い付かない。くぐもった声は無骨な掌に吸い込まれ、拒絶の意思表示すら碌に出来てはいないだろう。
 片手で口を塞がれ、もう一方の手が先程自ら寛げたズボンの前から侵入して来る。かっと羞恥に頬が熱くなったのは一瞬で、背後から圧し掛かかられて腕を巻き付けられた体勢に、アーサーはざあと血の気が下がる音が聞こえた気がした。
 これが望んだ展開だと思えるような余裕なんて、ない。

「っ、…や! ……んむ…ッ」

 男に払い除けられたまま用も無く宙に垂れていた両手を動かして、下肢を探る男の手を剥がしにかかる。しかし男の腕力は喧嘩は強い方だと自負していたアーサーの比ではなく、ビクともしない所か口を覆う手の脇が反抗を窘めるように締まって肘が胸を圧迫した。
 闇雲に掴んだ男の人差し指と中指を、力任せに引っ張る手から力が抜ける。暴れる子供を容易く押さえ込む手慣れた動作に、力では敵わないと悟ってしまって。縋れる当てを探すように目の前のポールを掴んだ。
 緊張か恐怖か、もしくは其の両方が齎す息苦しさに荒ぐ呼気が、男の掌を濡らす。

「ふっ、……ぐ、うう……」

 不意に、車内に影が差した。それまで途切れていた、ガタンゴトンと線路上を走る車両の音が再び鼓膜を震わす。
 薄暗い車内から更に明かりを奪うかのよう、窓の外一面に連なるコンクリートの壁で光を遮られた空間。
 真っ黒に染まった窓に映し出された男の、燃えるような熱を孕んだ双眸と目が合ったような気が、した。



 背後で微かに嗤う気配。男の指が辿る先に、ばか其れはお前が触ったからじゃなくて昨日観たAVの所為なんだからな何て言葉は、勿論アーサーの口から出て来る事はない。
 貧血のような立ち眩みを覚えた身体が傾き、男に凭れる格好になる。強く瞑った目尻が震え、涙が滲む気配がした。

 ふっと、漸く外された拘束に、口の中に溜まっていた唾液がぱたぱたと床へ糸を引いて落ちる。
 そのまま下衣の乱れも直され周囲へ意識を向けると、丁度電車が減速し始める所だった。

(助かった──)

 踏み出したつもりの一歩は、よた、と体勢を前に傾げるだけで。それでも振り払い逃れようとする腕を捕まれた。

「何処に行く気だい?」

 恥も外聞もなく飛び出そうとするアーサーを、その場に縫い止めようとする男。
 どうやら逃がしてくれる気はないらしい。耳元でカチッと鳴った軽い音に、アーサーは視線を向けた。

『…なか、触らないのか……?』

「……っ!?」

 聞こえた台詞に目を見開く。男を振り仰ぐと、其処に在るのは冷めたようにアーサーを見下ろす蒼。
 一見ボールペンにしか見えない其れは、しかし本来ペン先を出す為のノックしても見た目に変化が起こる事はなく、ペン型のレコーダーなのだと知る。

「君が何か言っても、誰も、何も信じやしないさ」

「そんな――」

「お金が欲しいんだろう?」

「えっ……?」

「なに、悪いようにはしないさ。俺と一緒に来るといいよ」

 男は愕然とするアーサーの手を引いて、丁度開いた扉から駅のホームへ出る。
 にこっと人懐っこく笑った男は驚く程の好青年で、アーサーもまた、手を引かれる侭ふらふらと歩き出した。

「……うん、良い子だ。大人しく付いておいで」




   * * *




「アーサー・カークランド≠ヒ。これは一応預かっておくよ」

 駅を出た二人は、アーサーが男の少し斜め後ろを歩いて10分程が経過していた。知らない街並み。知らない男。
 制服のポケットに入れていた筈の生徒手帳は、何時の間にか勝手に抜き取っていたらしい男の手に渡り、今は男が肩から下げたスポーツバッグの中に捕らわれてしまった。
 先程耳元で再生された自分の音声が脳裏に蘇ると、羞恥に顔が熱くなると同時に背筋が冷える。
 今すぐ回れ右をして逃げ出したい気持ちもあったが、証拠を押さえられている今、まずは其れを奪取する事が先決だった。

「……。え、…ここ……?」

 人々の喧騒から離れて連れられた先は、宿泊料金と休憩料金が大きく書かれた看板が入り口の脇に立つ、所謂ラブホテル。
 周囲に人はいない。夕闇色に包まれた辺りはきっとまだ眠っていて、これから徐々に輝き始めるのだ。
 見上げれば、煌びやかなネオンサインに彩られたホテル名と思しき文字が踊っている。男の視線の先は、決してその隣のバーに向いている訳ではないだろう。
 当然のようにホテルへ入って行こうとする男の後を、素直に付いて行く事は出来なかった。

「お、お、おい……」

「……なに?」

 ――それでも、男の手にある自身のバッグや、人質にされた生徒手帳をこのまま無視する事は出来なくて。
 何よりアーサーを射る男の燃えるような蒼い眸が、アーサーに有無を言う事を許さなかった。





 内側からバクバクと胸を叩く後悔の警鐘を無視して足を踏み入れたホテルの一室は、出入り口から続く細くて短い廊下と床面積の殆どを占める大きなベッド、シャワールームらしき別室が備えられた簡素な作りだった。
 ベッドの上に二人分の荷物が放られる。
 今からでも遅くない。早く逃げなければ。早く、早く――。

「……――み、ねえ君。……アーサー、」

「――っ!」

 男に名を呼ばれてビクンと身体が跳ねる。
 室内を物色していた男がアーサーの反応に目を丸めたのは一瞬で、直ぐに呆れたような溜め息を吐くと、室内に足を踏み入れたまま微動だに出来ないでいるアーサーの頭をぽんと撫でた。

「自分がどれほど愚かな事をしたのか、其処で反省してるといいよ」

 引き攣ったように身体を跳ねさせて自らの頭を押さえたアーサーの反応に小さく笑った男が、シャワールームへと消える。
 アーサーは改めて室内を見渡した。彩度を落とした照明の中、ベッドの上に並ぶ二つのバッグが目に入る。

「……っ!」

 迷う必要なんて何処にもない。アーサーは先ず男のバッグを開けて中を漁った。

「くそっ! 無ぇ……たしかこの中に入れてた筈なのに……」

 見当たらない学生証。男のバッグの中身は雑多に物が詰め込まれていて、掻き回すだけでは埒が明かない。徐々に増す焦燥感。アーサーは舌を打つと、二つのバッグを抱えて駆け出した。

 短い距離の廊下を得も云えぬ恐怖に背を押されて走りぬけ、扉に手をかける。ガチャガチャとノブを回しても、押しても、引いても、扉は一向に開かなかった。フロントで鍵を渡された記憶はない。ちゃんと見ていたのだ。

「なんでだよ……っ!」

「この部屋は、先に料金を支払わないとドアが開かないんだ。見れば分かるだろう?」

「――――ッ!!」

 声にならなかった悲鳴に、男は気付いただろうか。咄嗟に振り向いた身体が腰を引いて思い切り背中に固い扉が当たる。
 どさどさと続けざまに落ちるバッグは、あっさりと拾い上た男の手に戻り。横の壁に備えられたアーサーが見た事の無い機器を、男の指の背がコンコンと叩いて見せる。其処には確かに指定された金額を投入する表示があった。

「こんなシステムも知らないのかい?」

「知らねえよ!」

「へえ、意外と純情なんだ。慣れてるのかと思った」

 徐に腕を取られる。揶揄の言葉でひょいと眉を上げた憎たらしい笑みに手を振るも、アーサーが渾身の力を込めた所で状況は一向に打開出来そうにない。

「離せよ! 馬鹿力! この変態がっ!」

「……泣いて怯えていたら許してあげようと思ったのに、まだまだ余裕そうだね」

 ――打開出来ない所か、男はまるでアーサーが悪いかのように溜め息を漏らし、ぐいと腕を引っ張ると同時に抱え上げてしまう。

「はな……ッ離せ! 痛っ!」

 扉の前から易々部屋の中央まで戻されると、ベッドの上に投げ出された。ドサドサとバッグが落下した音に続いてベッドへ乗って来た男が、横たわるアーサーの身体を仰向けに倒して膝の上に座る。
 体重を掛けられたアーサーは身動きが取れない。

「なっ、なに……」

 男が星条旗のステッカーが貼られた携帯電話を取り出して、アーサーへと向け。ピロリン、と電子音がして写真を撮られたのだと知る。

「どけよ……っ!」

 アーサーが振り翳した腕は赤子のようにいなされて。男は再び携帯電話を操作すると、携帯電話持った手を宙に固定したまま反対の手をアーサーの制服へと伸ばした。

「おい……やっ、やめ……!」

 ブレザーのボタンを全て外され、中に着ていたワイシャツのボタンも上から順に外される。
 止めさせようと両手で男の腕を掴むのに、服越しでも分かるほど筋肉の隆起に覆われた男との力の差は歴然で。アーサーの抵抗を意に介する様子もない。
 今度は鳴らないカメラのシャッター音に、動画を撮られているのだと気付くのはそう遅くなかった。

「知ってるかい? こういうの、案外高く売れるんだぞ」

「知るかっ……う、訴えてやるからな!」

「身体を触らせてお金を受け取るのは有りなのに? こういう目に遭うかもって、一度も想像しなかった?」

「想像なんか、する訳ねえだろ……っ!」

 男である自分が、男にホテルへ連れ込まれてこんな目に遭うだなんて、誰が想像するものか。
 アーサーは男の下から逃げ出そうと下半身を捩って暴れたが、案の定ビクともしなかった。
 同じ性を持つ筈の男に、大人と子供という差を抜きにしても恐怖を覚える。

「そう、なら……俺がじっくり教えてあげるよ。世の中には、こんな悪い男もいるんだって事をね」



 





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