君がいる明日 - main
仕置きの時間 前編


 ガタン、ゴトンと毎日のように耳にして慣れた筈の音が、全く知らないものの様に感じられる。

 ──緊張しているのだろうか。
 アーサーは、学校ではきっちりと正している制服を、ネクタイのノットに指を掛けて少し緩めた。密度ではない圧迫感に息が詰まる。
 神経を研ぎ澄まし、揺れる車両に身を任せる事なく肩幅まで開いた両足で床を踏み締めて。窓の外の景色を眺める素振りを装い、チラと細めた視線を背後に凝らす。
 灯りのない夕暮れ時の仄暗い車内には、自分の他に、男がもう一人いた。


 座席が設えられた通常の電車内とは、扉を隔ててスペースを区切られた狭い空間。他車両へ移動する時に使う扉、両側開きの外へと通ずる出入り口、そしてトイレを有する此処は、以前は喫煙所も兼ねていたそうだ。
 しかし時代は変わり、公共の車内は禁煙が実施され、駅が増えて一駅間の距離も短くなり。わざわざこのような勝手の悪い場所へ用を足しに来る人間など、偶に訪れる深夜の酔っ払いぐらいなものとなった。──つまり、何か悪さをするには絶好のスポットという訳だ。

(ご丁寧に、清掃中の札まで掛けやがったからな……)

 アーサーが此処──絶好のスポットへと来て程なく現れた男は、ガタガタと煩い手動扉を閉めた後、近くにあった「清掃中」と書かれたプレートを扉に掛けていた。実際に普段は掃除をしている間に使用する物なのだろうが、男が扉付近から動く様子は見受けられない。
 隣の車両を窺える窓になった箇所に内側からプレートを掛けてしまえば、まるで外界から隔離された別空間の完成だ。
 アーサーは、男に悟られぬよう気を配り、僅かに送っていた視線の先を外の景色へと戻した。

 ──見られている。

 不思議な高揚感に、知らず両手で拳を握る。鞄1つしかない荷物は床の上だ。
 片手で出入り口脇の銀の細いポールを掴み、反対の手は指先を窓に触れさせ、アーサーはひっそりと息を吐きながら肩の力を抜いた。目的は一つ。

(さァ、来いよ……。ぜってー捕まえてやる……!)

 視線を眇めた先に、──ラフな服装に眼鏡を掛けて、金髪で、想像よりも随分と若いが恐らく社会人であろう年上の男と……窓越しに視線が合ったような気が、した。




 何故アーサーがこのような事をしているのかというと、少し時間を遡って説明する必要がある。
 自身が生徒会長を務める学園内に、不穏な噂がある事は知っていた。
『うちの制服を着た生徒が、電車で痴漢をさせて金を受け取っている』
 最初こそ事実であれ噂であれ好きにしたら良いと思っていたものだが、その嫌疑が自分に掛けられたとしたら話は別だ。

(冗談じゃねえぞ……)

 そのような売春行為に心当たりなど露ほどもないが、残念な事に人から怨みを買った心当たりならばごまんとある。
 誰かが自分の名を語っているのか、あるいは単なる嫌がらせで立てられた噂に過ぎないのか。アーサーが考えた末に出た結論は、『そもそも痴漢行為を働く奴がいるのが悪い』だった。
 買う奴さえ居なければ、触らせて金を受け取ろうとする輩も、自分が嫌疑をかけられる事も始めからなかったのだ。

 捕まえてやる──そう意気込んだは良いものの、まさか本当に遭遇するとは思わなかった。


 ────それが、今の状況だ。


(丁度イイ……とっ捕まえて、警察に突き出してやる)

 手慣れた仕草から見ても、常習犯に違いないだろう。警察に突き出して見せしめにでもなれば、身の潔白を証明出来る上に同様の犯罪者へ牽制になり万々歳だ。
 チリリと胸を焦がす緊張を抑え込み、アーサーは気配で背後を窺った。

(捕まえるなら現行犯、か――)

 幾ら怪しいとは云え、まだ相手は何もしていない。今のところ、近付いて来る素振りも見られなかった。

(……警戒されてる……?)

 何か、互いがターゲットであると示し合わせるような合図でもあるのだろうか。時間だけが過ぎる空間に、焦りと苛立たしさが沸く。
 何か出来る事はないか──そう考えたのは、ひとえに相手に負けまいとするアーサーが元来持つ気性からだった。

(……くそっ!)

 アーサーは身を捩る素振りで腰を軽く、二度、三度と振ってみる。痴漢の誘い方など知るものか。半ばやけくそな心境ではあったが、それまで清掃中の札を掛ける以外に動きを見せなかった相手のシルエットがゆらりと揺らいだ。

(──来た……)

 すぐ背後に感じる気配にざわりと背筋が粟立つ。途端に沸く早まった気持ちの滲む後悔は無理矢理押し殺し、相手に隠れて下唇を噛んだアーサーはもう一度だけ、僅かに腰を引いて元に戻す動きで前後に振る動作を見せた。

「──……!」

 自身の目論見が叶った歓びなど、束の間ですらなく霧散して。とうとうアーサーの尻に触れた男の大きな手は、そのまま右の尻たぶを捉えて太股の付け根から上の膨らみをやわやわと揉んだ。
 袖の下で、腕が鳥肌を立てているのが分かる。

 そのまま暫し身を固くして耐えていたアーサーは、ふとある事に気付いた。

(……この後、どうやって捕まえれば良いんだ……?)

 元より周囲に人は居ない。このまま誰かが偶然入って来るのを待てば良いのだろうか?否、人の出入りが少ないからこそ此処で事に及んでいる訳で、清掃中の札を掛けている今は尚更だ。では駅に着いてから──否、扉が開いてまで犯人が触っている事も無いだろう。
 それに、どんなにアーサーが「この人は痴漢です」と言った所で証拠がない。相手が何もしていないと言ってしまえば、他に目撃者もいない上に男同士では信憑性も薄いというものだ。

(くそっ、何か決定的な証拠を掴む方法はないのか──)

 アーサーは自身が見た事のある痴漢関連のニュースを思い浮かべ、知り得る限りの情報から作戦を打ち出すべく思考を巡らせた。
 男の手は、未だゆるゆると尻を撫で回している。その動きは、何処か気乗りしないように感じた。

(大体、男の尻なんて触って何が愉しいんだ。こんなん、一人で右手とヨロシクやってる方がよっぽど──)

 自身ならエロ本やグラビア誌を嗜んだりするが、男の性など出してなんぼのものではないのだろうか。そう考えて、アーサーはある決定的証拠に思い当たる。

(……体液……そうだ、ニュースでもよくやってるじゃねえか)

 相手に体液が付着しているとなれば、最早どんな言い訳も通用しまい。
 背に腹は変えられない……アーサーが覚悟を決めるも、男の手は相変わらず興が乗らないようだった。さして強くもない力で、同じ動きを繰り返している。

(……俺の反応が薄いからか……?)

 なるべく意識しないようにと感触から気を散らすアーサーの身体は、固く強張っていた。
 相手が何を望んでいるのか、どうすれば確実に捕まえられるのか、考えてみても明確な答えは出てくれない。次の駅までは後どれくらいだろう、アーサーは気ばかりが焦り始める。

(何が何でも絶対捕まえてやる……触られ損なんか御免だ)

「――……」
「…………っ」

 アーサーは反応を示すように自ら身体を揺らし、臀部を男の手に押し当てた。男もそれが分かったのか、単調だった動きがピク、と不自然に固まる。僅かだが息を呑む気配がした。
 あと、もう一押し──。
 そう自分に言い聞かせ、アーサーは震える唇を開いた。

「……っ、……ん……あっ……ぁ……」
「……ッ」

(だあああああああ! くそったれ!)

 何が何でも捕まえなければ、コイツを駅のホームから突き落として、自分も飛び降りるしかない。
 懸命に絞り出して漸く出たのは消え入りそうに小さな声で。羞恥に上擦る声は思いのほか上手く喘ぎを演出してくれたような気はするが、これでは小さ過ぎて聞こえなかったかもしれない──。そんな思いは、男の手に力が籠もったと同時に杞憂に終わった。

「……っ……」

 息を呑んだのは、果たして相手か自分か。
 引きも切らずにじわじわと増す羞恥はアーサーの体温を上げ、制服の中が汗ばみ始める。きっと、耳まで赤いに違いない。

 一層近付いた距離と耳の後ろに感じる吐息は、既に嫌悪よりも緊張と確かな手応えをアーサーに与えた。アーサーは、自分の事で一杯一杯だった。

 男は興奮しているようだが、相変わらず手付きはズボンの布地越しに尻を撫で回すばかりで。
 アーサーは意を決すると、緊張で乾いた唇を内側に丸めて舌で湿らせ、言葉を絞り出すべく咽を震わせた。

 ――なにも、必要な体液が背後の男のモノでなければならないとは限らない。

「……なぁ……なか、触らないのか……?」

 ――相手に触らせ、自分が出したっていい筈だ。

 それまでゆるゆると撫で回しては軽く揉むだけだった掌が、ピタリと止まる。

「君は……怖くないのかい?」

 初めて鼓膜を震わす男の声は、やはり若い男だった。まだ先の長い未来に陰を落とす事を一瞬気の毒に思うが、同情は出来ない。仕置きにしては痛い経験だろうが、悪く思うなよと内心独りごちる。

「ば、ばかにすんな」

 痴漢の、しかも男の手で体液が滲むだけの快感が得られるのかは心配であったが、昨日見たばかりのAVを思い浮かべれば、背後の男よりも更に若い身体は上手く火が付いてくれたようだった。
 腹の奥に燻ぶる火種には、この極度の緊張状態も作用しているのかもしれない……とは、あまり考えたくない。

「怖くなんかねぇ……」

 アーサーはのろのろと両手を下げ、ズボンの前を寛げ始める。ガタン、ゴトンと絶えず響く音の中、チャックを下ろす金具が立てる音がやけに耳についた。

「……は…、早く……さわれよ……」

 こんな会話を用いてしまい、もしお縄についた相手が此方が誘って来たのだと言ったら。その時は、そんな事はしていないと貫き通せばいい。演技は得意な方だ。
 そう、証拠さえあれば──。

「────そう、」

 背後の男が呟き落としたのは、冷たい響きを伴った、やけに鋭利な一言だった。

 次の瞬間、突如男の手が両側から伸びて来たかと思うと、片手で口を塞がれ、もう一方の手はアーサーの両手を払い退けると同時、既に露わになっていた下着の前を割り開いた。ひやりと触れる外気に、漸く意識が追い付く。

(……え……?)

「──……君みたいな怖いもの知らずな子には、お仕置きが必要だね」



 ────どうして俺は。

 いったい何を根拠に、全て自分の計画通り事が進むと信じていられたんだろうか──。








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