君がいる明日 - main
始まりは何処からか


「くそっ! なんだって俺がこんな……」

 普段は寮住まいな学生も帰省し、僅かな生徒と教師しか居ない元旦の学園。
 俺は今、不本意にも其の広い校舎内を一人の男から逃げ回っていた。

「アーサー! どこだい!? 今日こそ逃がさないよ……!」

 距離を詰めて来る足音に急かされながら、空き教室へと滑り込んで息を殺す。明るい廊下と対照的にカーテンを締め切った教室内は扉を閉めれば薄暗く、しんと静まり返っていた。
 外界から閉ざされた安堵に壁へ背を預け、ずるずると座り込んだのも束の間、男の声が間近まで迫って来て。

「約束はしっかり果たして貰うんだぞ!」

 距離を感じさせずに響く大声は、普段の脳天気さが嘘のように余裕の無い荒々しさが滲んでいた。
 掌で口を抑えて荒い息を押し込める。扉の隙間から差し込む一筋の光に人影が過ぎり、緊張に身を強ばらせたものの、俺と奴とを阻む扉が開かれる事はなかった。

(……行った……のか?)

 遠ざかって行く足音。少しばかり開けた扉の間から、慎重に視線を投じる。
 見えたのは、徐々に小さくなって行く校則違反のフライトジャケットを羽織った背中。その手には、ポッキーの箱が握られている。
 眉間に皺が寄ったのは、先程の出来事を思い出したから。突き当たりの角を曲がり、姿が完全に見えなくなった所で、俺は漸く肩の力を抜いた。

「ったく……、1年坊主が人の事おちょくりやがって……」

 どんなに歯噛みした所で、苦い気持ちが晴れる訳もない。
 俺は重い腰を上げ、舌打ちを一つ残して空き教室を後にした足を、彼奴……アルフレッド・F・ジョーンズとは反対の方角へ向けて歩き出した。
 広い校舎だ。一度見失った相手を再び見付ける事の難しさは、生徒会長として長年学園の秩序を取り締まっていた自分が一番よく知っている。

「……、にしても……」

 ついさっきまで、見知った連中を集めてささやかな新年会を開いていたと云うのに。何故こんな事になったのか。
 その企画進行を率先して楽しそうにこなしていたアルフレッドの様子が豹変したのは、本当に唐突だった。
 何が一体あそこまで彼奴のやる気と云うか情熱と云うか無駄な闘争心を刺激したのか、追いかけられている当人である筈の俺にはサッパリだ。
 ……否、まあ正確には一つ心当たりがあるものの……、やりたくない事を拒否して責められる謂われはない、筈だ。

 気付けば窓の外の景色も夕焼け色に染まっている。
 夜間使用の許可を取っていない新年会は、もうお開きになる頃だろう。真面目な本田がいるから既に片付けに入っている可能性もある。騒ぎの場となった生徒会室に置き去られた儘の荷物は、寮の隣室であり腐れ縁のフランシスが部屋まで届けてくれる事だろう。
 俺はスムーズに纏まった脳内シミュレーションに一人頷き、僅かに迷った足を再び帰途へと向けて進め始めた。

「……この校舎とも、もう直ぐお別れ……か」

 さっきまでの喧騒の反動だろうか。ちくりと痛んだ胸に手を当てたら、この1年間、ばかみたいに俺に纏わりついて来た蒼天の笑顔が思い浮かんできた。





 寮で宛がわれた一人部屋の扉が開けられたらのは、そろそろ日付も変わるかと云う頃だった。否、そもそも俺が何の疑いもなく扉を開けたのは、フランシスだと思ったからに他ならなくて。つまりは──油断した。

「お前な! 普通、3年の棟まで来るか!? どうやって入って来た!」

「ちゃんと許可は取ったぞ!」

「ああ!? 俺はンなもん……ちっ!」

 嗚呼、そうだ。卒業も間近に迫り、引継ぎも無事に済みこの学園で全権を掌握してきた生徒会長の任は退いたんだった。控え目な笑みと困ったような笑みを使い分ける黒髪で小柄な新生徒会長の顔を思い浮かべ、少々先行きが不安になる。
 しかし差し当たっての問題は、扉の隙間から足が入れられ、閉めようと扉を引く俺と開けようとするアルフレッドとの間で攻防が繰り広げられているこの状況だ。アルフレッドの手には、俺が生徒会室に忘れた鞄と、すっかり形がくびれてしまったポッキーの箱が握られている。

「アーサー……いい加減、観念してくれないと俺にも考えがあるぞ……!」

「いい加減にするのはどう見てもお前だろう!」

「俺とポッキーゲームする約束、したじゃないか!」

「だからっ、それは来年……」

 キッと睨む蒼い双眸は、今まで相手にして来た不良連中と比べれば憐憫すら醸していると云うのに、俺の胸を竦ませる。

「……留学するなんて話、俺は聞いてない!」

「うっ、あの野郎……喋りやがったな」

 ポッキーゲームをしようと、言われたのは去年の11月11日の事だ。のらりくらりと躱し、来年なら構わないと言って引かせた時のアルフレッドの笑みに、良心が痛まなかった訳ではない。
 それが何故今日になって又、1月1日だなんてこじ付けも良い所だと思っていたが、謎は全て解けた。犯人は……今も隣室で事の全てを承知しているであろう、フランシスだ。

「……君が卒業しても逢う口実が出来たって……嬉しかったのに……」

「そ、んな……こと……」

 何としてもこの扉を死守する。そこから意識が逸れた一瞬の隙を、アルフレッドは見逃さなかった。
 押し入って、後ろ手に扉を施錠して、俺の手首を拘束する一回り大きな手。代わりに床へ落下したのは俺の鞄だ。
 一歩、二歩と後退るも、逃がすまいとするように強引に引き寄せられる。片方の手には、相変わらずポッキーの箱が握り締められていた。

「なっ、なんで其処までしたいんだよ!」

「それは……っああ! もう!」

 アルフレッドは視線をちらと横へ送ると、焦りの滲んだ声で憤った。つられて俺も見遣れば、ラックに置かれたデジタル時計が後3秒で日付が変わる事を示している。
 グシャリ、と既に少し形を変えていたポッキーの箱が完全に握り潰されて床に放られるのを、俺は視界の端に映る光景と音で理解した。

「君の事が、好きだからだよ!」

 拘束が解かれるのと伸ばされた手が頬に触れたのはほぼ同時で、無理矢理上向かされてからも事態を把握し切れない俺の口からは、「えっ」と間抜けな声が漏れるのみ。

「……」

「…………」

 今が、何時何分で何日なのか確認する事は、俺には出来なかった。咄嗟に伏せてしまっていた瞼を開けた先には、この1年ですっかり見慣れた筈の男の顔。

(……ポッキーはどうしたよ……)

 深く重ねられる柔らかな唇が、目が、訊かずとも本来の目的を雄弁に語っている。カシャンと触れてくる眼鏡のフレームの温度を知るより先に、口の中に侵入して来た舌の熱に意識を攫われて。
 見据える蒼に耐え切れず、俺は再び目を瞑った。

「ンッ! んんっ!」

 振り解こうとすれば強く顎を捕らえられ、もがくほどに一層引き寄せられ身体を押し付けられる。力の抜けた四肢がゆっくりと床に崩れ落ちる間も、アルフレッドは肉厚な舌で躊躇いもなく俺の口内を貪り、奥へと逃がした舌を吸い出された。
 自分の口の中なのに、今まで知らなかったアルフレッドの味がする。

「っ……ふぁ……はっ……! げほっ……」

 解放され、慌てて酸素を取り込んだら唾液まで一瞬に咽を伝って噎せた。離れた唇から濡れた銀糸が伝う。強く吸われた舌の付け根が、まだジンジンと痺れる様に痛い。

「残念だよ、アーサー……」

 床に座り込む俺に合わせて膝を折っていたアルフレッドが、ゆっくりと言葉を紡いでいる。解放された頬の代わりに手を掴まれた。

「まだ暫くは君を慕う可愛い後輩のまま、君にも俺を好きになって貰いたかったのに……」

 漸くまともに顔を上げた俺の視界に、まるで知らない男の顔が映し出される。馬鹿力で戒められた事は、拒みきれなかった理由になるだろうか。

「俺の純情を踏み躙ってくれた責任の取り方を、これからじっくり教えてあげるよ」

 目が回りそうなほど身体が熱くて、熱くて。
 心臓が口から飛び出しそうなぐらいバクバクしているのが怖いのか苦しいのかも分からないまま、俺は何も考えられず、気付けばただ首肯していた。





* * *





「アーサーってさ、どんな子が好みなんだい?」

「胸がおっきー子」

 さり気なく、あくまでさり気なくスマートに、緊張を押し隠して訊ねた質問に返ってきた答えは、アルフレッドにとって無情なものだった。

「他には!」

 ついつい大きくなる声に、ソファで寛いでいたフランシスが顔を上げる。今この生徒会室には、アルフレッドとフランシスの二人しかいない。

「……へえ、なにアルフレッド。お前アーサーのこと好きなの? いや知ってたけどさ」

「っ……君には関係ないだろ」

 によによ、と嫌な笑みがアルフレッドを見透かそうとする。
 フランシスの事は、自分よりもアーサーをよく知る人物であると同時に、油断ならぬ恋敵であるとアルフレッドは思っていた。

「なるほどねえ。けどま、今のままじゃあ精々、ペットか弟止まりが良いとこだろうなぁ」

 アルフレッドはぐっと言葉に詰まる。言われた言葉は、アルフレッド自身も危機感を募らせていた事だからだ。
 アーサーの警戒心を解かせ、彼の視界に入る事を許されるまでは良かった。だがどうしても、同じ場所から抜け出せずにいる。

「彼奴はな、普段あんなツンケンしちゃいるが、恋愛に関しては強引な奴が好きなんだよ。なんつーの? 所謂マゾヒズム?」

 アルフレッドは黙って耳を傾けた。

「幾ら逃げても、本心と裏腹に嫌がって見せても、全部攫って行っちまうような奴。彼奴を落としたいなら、まずは逃げ道を塞いで、捕まえて離さない事だな」

「……そんなの……」

 気分が急降下して行くアルフレッドとは裏腹に、フランシスは愉しそうに笑っている。

「ま、純粋なお子ちゃまには出来ないだろうよ。悪い事は言わないから彼奴は止めとけって」

「出来ないとは言ってないだろ。やらないだけさ。俺は……アーサーの微笑った顔が好きなんだ」

 それに、とアルフレッドは想いを馳せる。1ヵ月ほど前にアーサーと交わした約束を思い出すだけで、荒んだ心が解れていくのを感じた。
 アーサーが卒業した後だって、時間はまだある。

「ふーん……じゃあお前さ、これ知ってる? アーサーの留学の話」

「……えっ……?」




 それは穏やかに凪いだ湖面に落ちる、一滴の雫のようなものだったのかもしれない。
 しかし水面に広がる波紋とは、水本来が持っている性質に他ならないのだ。




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