あの日の事を覚えてますか 後編
イギリスを乗せた馬車が走って行った先、森を切り開いて作られたような左右に木々が立ち並ぶ道をアメリカの小さな歩幅で暫く歩くと、ややあって町が見えて来た。
イギリスはきっとあそこに居る。
逸る気持ちを抑え切れず、アメリカは大地を蹴った。
「イギリ……あちゅっ……!」
勢い勇んだ足が石に躓いて転んでしまい、地面が間近に迫った拍子にずっと抱えていた茶封筒から手を離してしまう。大切に胸に抱いていた封筒が、アメリカの下敷きになってクシャリと潰れる音がした。
「あぁっ……! イギリちゅのたいせつな忘れものが…っ」
アメリカは地面にぺたりと座り込んで、封筒を拾い上げる。
ピンと張っていた封筒は紙がよれ、片面が砂で汚れてしまった其れを見てアメリカは泣きそうになった。
「……っ、ヒーローは、泣いちゃダメなんだぞっ」
アメリカは自分に言い聞かせ、グッと涙を堪えて立ち上がる。
もしかしたら、アメリカよりもすぐ泣いてしまうイギリスは、大切な書類が無くて今頃泣いているかも知れない。
そう思ったら、転んだ傷の痛みなんて無くなってしまった。
泣いているイギリスに、早く書類を届けてあげなくては。
「……でも……」
アメリカは汚れてしまった封筒に視線を落とす。
汚れてしまった時は、綺麗にしなくては。
アメリカは周囲を見回した。
◇◇◇
「あぁ? フランスの奴がまだ来てないだぁ?」
森を抜け、小さな町を4つほど走らせた先にある、国際会議にも使われる場が設けられた大きな街まで到着したイギリスは、フランスが到着していない事を聞いて舌を打つ。
しかし直ぐにまあいいかと思い直した。
今日の議題は急を要するだけで重要性は低い。フランスとも…同じ意見なんてイギリスとしては癪だが二人の意見が割れる事も無いだろう。
どちらかが訳も無く喰って掛かりさえしなければ。
イギリスは自分の顔を窺い見て若干青ざめているフランスの部下を顎でしゃくり、部屋へ入るよう促した。
先に会議を始めてしまおう。
◇◇◇
「お馬さん、ちょっとお水を貰うね」
アメリカは、町の外に繋がれた何頭かの馬の為にと用意されている、水飲み場の前に来ていた。
大切なイギリスの書類をそっと地面へ下ろして、ポケットの中からハンカチを取り出す。
そうしてハンカチを水飲み場の水に浸して絞り、汚れてしまった封筒を拭った。
「よいしょ……っと、やった!」
少し紙がふにゃふにゃとしてしまったが、砂はなくなって綺麗になる。
これでイギリスの元へ持って行く事が出来る。そう思って持ち上げた封筒からは、何故だかパラパラと砂が落ちて。
「あれ? ……あっ!」
不思議に思ったアメリカが裏を返すと、今度は先ほど砂地に置いてしまった反対側が汚れていた。
アメリカは再び汚れた面を上にして封筒を置く。
「早くしないと……イギリちゅが、泣いてるかもしれないんだぞっ」
泣いてるイギリスを慰めるのは、ヒーローである自分の役目だ。だから他の誰にも先を越されてはならないし、そんなのは嫌だった。
アメリカの手に力が籠もる。
余計な力が入ってしまった手がごしごしとハンカチを滑らせた封筒は、なんだか随分とくたびれてしまった。
それでも、今度こそとアメリカが地面から持ち上げた封筒は何故だか最初よりも重たくなっていて。
「……ああっ!!」
アメリカは泣き出しそうな悲鳴を上げる。
水に濡らした面を下に砂地へ置いた封筒には、先程よりももっともっと砂が付いてしまっていた。
慌てて掌で払っても、さっきはパラパラとした砂の粒だったものが、今は泥のように広がって封筒を黒く汚すばかりで。
「イギリちゅ……イギリちゅ、ごめんなさい……っ」
目の縁に涙を浮かべながら封筒を振って砂を落とそうと試みているアメリカの頭上に、不意に黒くて大きな影が掛かった。
◇◇◇
二人揃うと問題児になるイギリスとフランスのうち片方を欠いた会議は、滞りなく終了した。
遅れてやって来たフランスは、先に会議を始めた事にこそ文句は言ったが決定内容には異存ないようで。本来ならば此処でお開きになる、筈だった。
しかし、イギリスの部下達とフランスの部下達は困惑していた。……迷惑しているとも言う。
「このワイン野郎が! 喰らいやがれ!!」
「った! もうお兄さん本気で怒ったよー!」
◇◇◇
「それはイギリちゅの大事なものだからっ、ダメなんだぞ……っ!」
アメリカが繰り出した握り拳は、突然降ってきた黒い影の主、今は封筒を銜えてムシムシと咀嚼している馬の右頬にクリーンヒットした。
弾みで口から飛び出した封筒が宙を舞う。
「っ……ま、待って──!」
そして、べちゃりと音を立てて地面に落下した封筒の上を、運悪く通過して行った馬車を見送ってから、アメリカは瞬き一つで涙が溢れてしまいそうなほど水の膜が張った瞳で駆け寄った。
すっかりボロボロになってしまい、車輪の跡まで残る封筒をぎゅうと胸に抱き締める。
「イギリちゅの……イギリちゅの大切な……っ……ひっ…く、…ふぇぇぇ……」
とうとう流れてしまった涙を、懸命に袖口で拭う。
「……うぅ……、」
ひとしきり泣いた後、アメリカは拳を握り締めた。
「おれの仕事は、中身をとどける事なんだぞっ」
アメリカは封筒を抱き締め、力一杯駆け出した。
◇◇◇
「うぉぉぉぉお!!」
「でりゃぁぁぁあ!!」
会議を先に始める指示を出したイギリスと遅れてやってきたフランスの軽口の応酬は、途中からイギリスの部下が淹れた最高級の茶葉を使用した紅茶の話になり、フランスが連れて来たシェフの作ったデザートを彩るフルーツソースのかけ方の話へと転じ、紅茶を注がれたカップのデザインの話になる頃には険悪なムードが漂い始め、デザートが盛り付けられた皿の話が終わる頃にはその皿は割れていた。
そして今、掴み合いの殴り合いにまで発展した二人はこれまでの中で一番白熱している。
「世界一可愛いのは俺のアメリカに決まってんだろうが!!」
「いいやカナダだね!!」
イギリスの部下とフランスの部下は、壊れた食器を片付けながらそっと涙を拭った。
◇◇◇
「えっと……それと、これと……あ、あとあれもなんだぞっ!」
アメリカは色とりどりの甘い菓子類を並べた露天商の前で目を輝かせていた。
大事な書類を汚してしまったお詫びに、イギリスに美味しいお菓子をプレゼントするのだ。
『美味しいよ、アメリカ』
イギリスが優しく微笑う顔を思い浮かべて、アメリカは嬉しくなる。
金額を言い渡されると、アメリカは手にしていた封筒を一旦置いて、首から下げて服の中に入れていたイギリスお手製の財布を取り出した。
お金と引き換えに受け取ったお菓子を両手に抱えながら、アメリカはイギリスを捜して再び駆け出した。
(イギリちゅ! もうすぐなんだぞっ!)
◇◇◇
「なんだって!? アメリカがいない……? どういう事だ!!」
フランスとの勝負を一時休戦にしてアメリカの家へと帰ったイギリスは、使用人達が皆家の外へ出て右往左往している事に眉を寄せ、一番近くに居た者から事の顛末を聞いた。
アメリカが何処にもいない。
イギリスは今来た道を振り返り、弾かれるように駆け出した。
(……アメリカ……!)
どうか、どうか無事でいてくれ──。そう願いながら。
◇◇◇
もう少し、あと一つだけ、そうやって減っていたお菓子が片手で持てるだけになる頃、アメリカは漸くある事に気付いた。
「っ……あ……イギリちゅ…の、大事な…しょるい……ない……」
思わず手を離してしまったお菓子がパラパラと地面に落ちたけど、そんな事には構っていられない。
「…っ……! ……あれ、うそ……」
急いで戻ると、先程確かにこの場所でお菓子を売っていた露天商がいなくなっていた。
空はもうオレンジ色、家に帰ってしまったのかも知れない。
他に探す当てなどなく、アメリカは立ち尽くした。
「おれ……本当に…悪い子になっちゃった……」
言葉にするとより現実味を帯びて響いたその事に青くなる。
イギリスに怒られてしまう、それだけではない、きっと嫌われてしまうだろう。
けれどトボトボと歩く足は他に行き場なんてなくて、自然と家に向かって歩みを進める。
町を出て、風で木々がざわめく広い道を一人歩いていると、不意に涙が込み上げて来た。
「……イギリ……」
「アメリカ!!」
「……っ」
突然聞こえてきたイギリスの声に、アメリカは肩を跳ねさせる。
顔を上げると、視線の先には肩で息をしながら安堵に表情を綻ばせるイギリスがいて。
その姿に、いつものように駆け寄ってしまいそうになったけれど。
自分は心配して貰えるような良い子じゃない、アメリカは目を瞑ってイギリスの姿を視界から追い出した。
「良かった……、無事だったんだな」
「こ……こないでイギリちゅ!!」
近付く気配と優しげな声に思わずそう叫ぶと、声も気配もぴたりと止まった。
しまった、そう思って目を開けた時には、イギリスは手を差し伸べたまま目を見開いて固まっていた。
今イギリスが何を考えているかなんて、きっとヒーローじゃなくても分かってしまう。
アメリカも何度も泣いて酷い顔をしているけれど、今ここで先に涙を浮かべたのはイギリスだった。
目の端に浮かぶそれに、気付けばアメリカは走り出していた。
「イギリちゅ……!」
悪い子に、なってしまったけれど。
「──イギリちゅ……泣かないで」
ヒーローだけは、やめられない。
ぐいぐいと手を引いてイギリスをしゃがませ、その身体を抱き締めようと思ったのに、逆に優しく腕を回されてしまう。
アメリカは、絶対にイギリスより大きくなろうと心に誓った。
「アメリカ……? 俺の事が嫌いになったんじゃ……」
「ちがうんだぞっ! ……おれ、イギリちゅの大事なしょるいを……」
「書類? ……もしかして玄関にあった封筒の事か? …そうか、あれを届けようとしてくれたのか……ありがとな、アメリカ」
イギリスはアメリカの髪を梳いて撫でながら、涙の残る濡れた瞳で綺麗に微笑った。
「……? …で、その封筒は今どこに……」
「……ごめんなさい…、イギリちゅ……おれ、なくしちゃったんだ……」
「そうか……それでそんな、泥だらけになるまで探してくれてたんだな」
イギリスの大きな手に、アメリカの真っ白い服を汚す砂や泥が優しく払われる。
服の汚れは転んだり、汚れた封筒を抱き締めた所為で付いたものだ。
アメリカは何も言えずに黙って俯いた。
こんな悪い子では、本当に嫌われてしまう。そう思うと胸が痛んで、じわじわと涙がせり上がって来る。
「イギリちゅ……おれのこと、きらいになった……?」
「ばかだな……俺がお前を嫌う訳ないだろ? 愛してる、アメリカ……お前が無事で良かった」
「……イギリちゅ……でもおれ、イギリちゅの大事な……」
「お前の方が大切だよ。アメリカ」
「――……って、言ってたのに」
ソファの上に踏ん反り返りったアメリカは、俺の視線をものともせずにムスッと頬を膨らませてそっぽを向いた。
それが全く可愛くないと言えば嘘になる。
しかしテキサスの奥の瞳に反省の色はなく、普段は俺が昔話をしようものなら、やれ懐古趣味だなんだと馬鹿にするクセに、こんな時ばかり昔を持ち出すのも気に入らない。
俺は珍しくアメリカの口から語られた過去に馳せていた思考を、目の前の現実へと引き戻した。
「………」
明日の会議で必要な筈だったが、今は珈琲でびしゃびしゃになった机の上、その黒い海になみなみと浸っている重要書類を前に、俺はまだアメリカから謝罪の一つも聞いていない。
惨たらしい最期を遂げた書類を諦め目の前の男に視線を移すと、アメリカは運良く珈琲の難を逃れたスコーンが乗った皿を持って、相変わらずそっぽを向きながらムシムシと頬張っていた。
正直に言おう。
この書類と、あの日……結局手元に戻って来る事なく失ってしまった写真。
手元に戻るならどちらかと訊かれたら、写真だ。
そしてその写真よりアメリカが大切なのだから、この俺の目の前で随分と不味そうに俺手製のスコーンを次々と口へ運ぶ男の主張は間違ってはいない。
──が、我が儘で尊大な男に育ってしまったこの男に、それを教えてやる事は絶対にない。
「はー……やっと無くなったよ。相変わらず君のスコーンは不味いね!」
「なら喰うんじゃねえ!」
「HAHAHA! 食べてあげないと君、泣くじゃないか。そんなのヒーローのする事じゃないんだぞ! だから仕方なく食べてあげるのさ!」
「ヒーローならこの書類どうにかしろよばかぁ!!」
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翌日、ホスト国であるアメリカが「大切な書類を忘れてきたんだぞ!」と言った挙句、
「だから皆も書類は使わないべきだ!」とか言い出して全員の手から書類を奪おうとするのをイギリスが必死に止めたとかそうじゃないとか。
英<そうじゃねぇだろバカ!っこの…待ちやがれ!(大人しく昔みてぇに可愛く謝れよ!)
米<やーなこった☆(だから君のその丸見えの思考が嫌なんだってば!どうせ今の俺が謝っても許してなんてくれないくせに!)
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