君がいる明日 - main
Doubt 7


 数日振りに登校した俺は、放課後、一年生の教室がある棟に向かっていた。
 手に持った赤と白のストライプに視線を落とす。
 気は重いけど、いつまでも持っている訳にはいかない。
 いっそアルフレッドに渡せば済む話だが……礼は直接伝えるのが紳士だし、何よりアルフレッドとは今、ちょっと気まずい状態で。
 これを喧嘩中と言っていいのかは分からない。



 俺が学校を休んだ二日目、今度はフランシスに代わってアルフレッドが見舞いに来た。
「やあ」
 玄関先で出迎えた俺に向かって片手を軽く上げたアルフレッドは、制服姿のまま、ひとりだった。
 思い出すのは昨日聞いたフランシスの言葉と、夢か現実かも定かじゃない夜の出来事。
「簡単に食べられるもの買ってきたんだ。どうせ君の事だから碌に食べてないんだろう?」
 そう言って反対の手に提げていた袋をガサガサと鳴らすアイツに。
 ――エミリーはどうしたんだ?
 とは、訊けなくて。
「……まあ、入れよ」
 問い掛けを喉に張り付かせたまま、何も訊かずに招き入れた。
 別に、恋人の事ぐらい普通に訊けばいいじゃねえか。自分が何を躊躇ったのか分からなくて、何となく胸の中が気持ち悪い。
 スタスタと軽い足取りでダイニングへ向かう後を追い、テーブルの上に袋の中身、ヨーグルトだのシリアルだのを広げたアルフレッドがアイスを手にキッチンへ向かうのを見送って。
 俺はと言えば、夢か現実かも定かじゃないそれを確かめたくて、切り出すタイミングを窺っていた。
 つまりは、油断していた訳で。
「……、アーサー?」
 俺を呼ぶ、どこか不穏な空気を纏った声に首を傾げながらキッチンに向かえば、勝手知ったる何とやらとばかりに人んちの冷蔵庫を覗き込んでるアルフレッド。隣に並んで、一緒に冷蔵庫の中を見て――思い出した。
「これ、なに?」
 青い瞳が俺を映す。アルが俺と交互に視線を送る先、冷蔵庫の中には溢れんばかりの食料が詰め込まれていた。
 昨日フランシスが整理していたそこは、まるで育ち盛りの兄弟を息子に持つ専業主婦かと言わんばかりに、野菜や肉といった食材が整然と出番を待ち構えている。中に手を突っ込んだアルフレッドが取り出したのは、作ったものの昨日持って行き損ねた弁当箱で。中を見られたくなくて慌てて引っ手繰って後ろ手に隠した。
「あ! や、ええと、これはだな……」
「……、アーサー……君、まさかあの日」
「っち、ちが……!」
 違う。と、反射的に言い返しそうになった口が、アルフレッドのつり上がり気味な青と目が合った途端にしおしおと閉じた。
 違わない。アルフレッドが最後まで言わなくたって分かる。
 そりゃアルはフランシスより頻繁に来てるし、今日みたいに勝手に冷蔵庫を開けるなんてしょっちゅうだし。アルが飯を喰いに来る日よりも充実してる様変わりには、目を見張るものがあっただろう。
 理由は当然のようにあっさりと言い当てられた。
「一昨日、俺と別れた時は平気そうだったのに、どうしたんだろうって思ってたんだ。アーサー……まさかこれを買いに行って風邪を引いたなんて言わないだろうね」
 まさか、だなんて言いながら、その口調は実に断定的だ。
「いや……その、だな。あー、ほら、おまえの好きなコーラもあるぞ」
 俺が指を差した先、充実した冷蔵庫の中には、真新しい二リットルのコーラのボトルもある。買い物の最中にアルの顔を思い出して、気付いたらカゴに入れていた物だ。すげえ重かったんだからな、喜べよ。
「あのねえ……俺がせっかく傘に入れてあげたのに、何してるんだい君は」
 硬い口調を崩さないアルは、どうやら誤魔化されてはくれないらしい。
 目を逸らした視界の端に、猛禽類みたいに鋭い目をしたアルフレッドが映る。なんだよ、そんなに怒ることないだろ。
 自業自得だって馬鹿にされるのは構わない。実際その通りだ。
 けど――
「どうせ君なんか何作ったって黒焦げにしかならないんだから、適当にある物詰めて持って来ればよかったじゃないか」
「なんだよ、それ……」
 ――普通、そこまで言うか?
「こんなに買っちゃってさ、出来もしない見栄でも張りたかったのかい?」
 ああそうだよ、全部弁当のオカズだよ。何を買えばいいか分からなくて、適当に選んでたらこうなった。それで朝方まで練習して、寝て起きたら風邪を引いてたんだ。
 冷蔵庫を閉めたアルフレッドが俺に向き直って、腰の辺りに視線を送ってくる。正確には、後ろに隠した弁当箱に。
「女の子に見せるからって気合い入れたの? 俺が見てあげるから貸しなよ」
「いやだ」
「どうせ君は食べないんだろ? 俺が処理してあげるって言ってるんじゃないか」
 不機嫌を隠そうともしない表情で差し出されるでかい手の平、落とした視線に喉が震えた。
 何もそこまで言う事ねえだろ。
「うるせえ! おまえに捨てられるぐらいなら自分で捨てるっつーの!」
「ちょっとアーサー……!」
 振り被った長方形の箱をゴミ箱に投げ込もうとしたら、手を掴まれた弾みにその場へブチ撒けて。後はもう、引くに引けなくなって大喧嘩だ。夜の真相も何もかも忘れて全部どうでもよくなった。
「君、ほんと馬鹿じゃないのかい!」
「おまえにだけは言われたくねえよ!」
 アルフレッドを追い返してからも怒り心頭で不貞寝した俺は、風邪まで悪化して更にもう一日休む羽目になった訳だ。
 その日は戸締りをきちんとして、呼び鈴が鳴ろうと決して外へ出なかったのは言うまでもない。


 そんなこんなで俺は今日、朝からアルフレッドと目を合わせる事もなく、一人で一年生の教室が並ぶ廊下にいる。
 放課後で人がごった返している中、溜め息を堪えて近くにいた一年生に声を掛けた。
 振り返ったのは長い金髪のツインテールと赤縁眼鏡の小柄な女生徒。

「なあ、エミリーって子を知らないか?」
「エミリー……? あの子に何かご用でしょうか」
「これを返したいんだ」

 差し出した薄いナイロンの袋と俺の顔とを見比べた女生徒が、眼鏡の奥の緑を何度か瞬かせてから俺に視線を合わせる。

「……あの、カークランド先輩ですよね。生徒会長の……」
「ああ、そうだが」
「っ、すみません! 少しお話ししたい事が……!」

 真剣な声と表情。勢いに一瞬怯んで引きかけた足が止まる。
 アリスと名乗った女生徒と目を合わせ、気付いた時には頷いていた。



「くそっ、あいつら逃げやがったな……」

 場所を移そうにも他に宛がなく、生徒会室に来てみたら中はもぬけの殻だった。まあ今日ばかりは都合がいいけど。フランシスとセーシェルは明日シメる。
 不思議そうにするアリスに何でもないと言って椅子を勧めた。俺もその正面に腰を降ろして、話を切り出す。

「で、俺に話ってなんだ? エミリーの事か?」
「はい、エミリーと……ジョーンズ先輩の事です」

 一年生の知り合いなんてそうはいない。返される言葉にだろうなと思いつつも、一体何の話だと緊張に胸が騒ぐ。
 小さく頷いたアリスはひどく思い詰めた顔をして、膝に乗せた自分の手を軽く握り締めた。
 一呼吸置いてゆっくりと切り出された内容は、俺にとっても驚かされるもので。

「……は? ま、間違えてアルに手紙を渡した……?」
「はい。元々は罰ゲームで……」
「ま、待ってくれ。つまりエミリーは……アルの事を、好きじゃない……?」

 小さく、けれど確かに頷かれる動作に頭がくらりとする。

「なのに急に付き合う事になっただなんて言い出すし、何を訊いてもはぐらかすし……私……っ」

 アリスの話によると、罰ゲームで気になる相手にラブレターを出す事になったエミリーは、相手の名前を書かずに出したその手紙を間違えてアルフレッドの靴箱に入れてしまったらしい。しかもエミリーが当初手紙を出そうとした相手というのが。

「……お、俺……?」

 さっきよりもはっきりと縦に振られる首に、今度こそ一瞬意識が飛んで目の前が白くなった。

「私、心配で……っ何か知ってたら教えて下さいっ」
「いや、俺は、何も……」

 力の抜ける身体を椅子の背凭れに預けて、ゆるゆると最近の記憶を辿る。
 アルフレッド。
 俺が聞いたのは、告白されて、断って。けど話してみたら気が合ったから付き合う事にしたという話だけだ。罰ゲームなんて一言も聞いてないし、エミリーに関する相談も受けてない。
 いや、それよりも。
 エミリーが俺を好き……?
 はにかんだ笑みを思い出す。話したのは、あれが初めての筈だ。好かれるような心当たりは全くない。
『――が好きなのは、おまえだと思ってたんだけどね』
 ふ、と。つい数日前に聞いたフランシスの言葉を思い出した。
 まさか……あれはエミリーの事だったのか?
 違和感がカチリと符合すると同時に、それまで絵空事のようだった事態に現実味が追い付いて血の気が下がる。
 アルは――アルは、知ってるんだろうか。
 太陽みたいな笑顔が浮かんでは消える。
 思わず立ち上がって、そのまま部屋を飛び出しそうになった衝動を何とか思い留まった。
 唇を震わせて目に涙を溜めるアリスにハンカチを差し出す。

「あの子、後先考えない所があるから……何か調子のいい事を言われたり、騙されてるんじゃないかって……」
「それはない! あいつは、アルはそんな奴じゃない。絶対に」

 大きな声を出した事に気づいて息を詰める。顔を上げたアリスの、赤縁のレンズの奥に視線を合わせた。俺と同じ緑の瞳、濡れた虹彩を安心させるように、一言一言ゆっくりと紡ぐ。

「アルとは、昔からずっと一緒にいたんだ。アイツは悪い奴じゃない、それだけは約束する」
「はい……」

 アリスが肩の力を抜いた様子を見て、俺も何時の間にか強張っていた身体から力を抜いた。
 そうだ、アルフレッドは絶対にそんな奴じゃない。きっと、胸のでかい可愛い子に好かれてるんだと思ってて、それで、それで。

「私も……エミリーとは小さい頃からずっと一緒だったんです。もう一度、あの子に訊いてみます」
「ああ、俺の方でもアイツに訊いてみる。話してくれてありがとな」

 時計を見れば、そろそろアルフレッドが部活を終える時間だった。
 喧嘩中でも、偶々耳に入ったスケジュールはしっかり記憶している自分に、胸の内だけで小さく笑う。

「じゃあ、今日はこの辺で。また明日、ここで話せるか?」

 力強い首肯に今度こそ立ち上がった。
 アルフレッド。
 俺はおまえに、一体なんて言えばいいんだろう。



 校門で待ち伏せていると、程なくして部活を終えたアルフレッドが通りかかった。
 目が合って、俺が逸らさずにいると仲間達と離れて足早に駆けて来る。

「アーサー? 何してるんだい?」
「……おまえのこと、待ってた」

 自然に促すアルにつられて歩き出せば、まるで待ち合わせでもしてたみたいで。これが今朝まで無視し合ってたなんて嘘みたいだ。いや、無視したのも目が合えば逸らしたのも主に俺だけど。
 ゆっくりと歩いて人波から外れようとする俺に気付いたのか、アルが歩調を合わせてくれる。
 そのまま道を一本外れて、辺りに誰もいなくなるまで考えても、いざとなったら何て切り出していいのか、何を言えばいいのか頭の中は真っ白なままで。口の中の唾液を一旦全部飲み込んでから、一番無難だと思った問いを率直に尋ねた。

「なあ。なんでエミリーと付き合ったんだ? 好きなのか?」
「気が合ったって言ったじゃないか」
「それだけか?」
「……好きじゃないなら付き合ったりしないよ」
「そ、そうか……」

 続く言葉に迷う。ぐるぐると渦を巻く言葉の波に飲み込まれないよう、必死に平静を保とうと努めた。
 エミリーはおまえの事を好きじゃないかもしれない、罰ゲームだったんだ。……なんて、言えない。

「じゃ、じゃあ、もしエミリーじゃない、他の誰かが告白して来たらどうする? おまえ好みの絶世の美女とかさ」
「アーサー? 君なに言ってるんだい? まだ風邪治ってないんじゃ……」
「そんなんじゃねえよっ」
「それよりさ、映画のチケット貰ったんだ。次の休みに一緒に行こうよ」
「……エ、エミリーと行かなくていいのか……?」

 声が震えないように気をつける。アルフレッドはむっと顔を顰めた。
 どうすればいい。
 必死になってる時点で平静でも冷静でもないと気が付いた所で、いい案が浮かぶ訳でもない。
 アリスももう一度エミリーに訊くと言っていた。まずはその結果を待つか?
 アルフレッドが傷付く姿を見たくない。
 今までアルフレッドから好いた惚れたというような話は聞いた事がなかった。だとすれば、エミリーが初恋という事になる。それがこんな、ただの罰ゲームだったなんて結末、あんまりだ。
 いっそ、とっとと別れさせればいいのか?
 真実が露呈する前に、傷が浅い内に。でも、どうやって。
 そもそもエミリーの本命が俺だという情報が事実なら、二人を別れさせた所でそれは果たしてアルフレッドを傷付けない結果になるんだろうか。
 いやけど、こいつなら……例え今は本気で好きじゃないとしても、エミリーを振り向かせる事なんて、きっと簡単に──

「アーサー? さっきからぼーっとして、本当にどうしたんだい? 君が観たがってた映画だぞ」
「こ、恋人がいる奴とは遊ばないんだよっ!」
「えっ?」

 目を丸くしたアルフレッド。その虚を突かれた様子を無視して、仁王立ちで立ちはだかった。

「なあ、もし俺が……」

 俺が、エミリーを好きだって言ったらどうする?
 ってこれはダメだろ。アルが何て返して来たって、何の解決策にもなりゃしない。
 そうじゃなくて、そうななくて。

「俺が、おまえを……」

 ……そうだ。俺が、おまえを――

「な、なんだい?」
「――誰にも取られたくない。独り占めしたいから別れて欲しい、って言ったらどうする?」

 ――助けてやるからな……って。

「い……今のナシ!」
「ア、アーサー?」

 ぽかんと口を開けたアルは、もしこれが試合中だったらボールを取られても気が付かないんじゃってぐらい呆然と立ち尽くしていた。

「何も訊くな! ナシだっつってんだろ!」
「いやでも今すごい真顔で……」
「気の所為だ! いいか! 絶対嘘だからな!」
「ちょ、ちょっと……! アーサー!」

 アルの声を無視して、死に物狂いの全速力で家に向かった。
 また熱が出たような気がしてアルが買ってきてたアイスを取り出したら、カラフルな色をしていて何の味なのか分かったもんじゃなくて。
 その夜は、目を瞑る度に今日の出来事が駆け巡ってなかなか寝付けなかった。
 しにたい、しにたすぎる。もうしぬしかない。いっそ誰かころしてくれ。
 やっと眠りに就いた夢の中では、昔みたいなヒラヒラの白い服を着たアルフレッドが俺の隣で恋人として笑っていて。
 それに何の疑問も抱かない夢の中の俺が、最初からこうしていれば悩みなんてなかったのにと笑っていた。
 バカか俺は。

 

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