Doubt 6
「……俺が一体何したってんだ……」
思わずそう嘆きたくなるような気分とは、打って変わって麗らかな朝。カーテンの隙間から差し込むのは明るい朝の光。
だと言うのに起床を拒否する身体の、なんと情け無い事か。
ずきずきと痛む頭を押さえて重たい身体をシーツに沈めた俺は、起き上がる事を放棄して枕の上に突っ伏した。
経験則から、分かる。風邪だ。どう繕っても、他の理由を探そうとしても。
悲しいかな原因も分かってる。
昨日、アルの家から帰って来てすぐに。雨の中を再び買い物へ出たりしたのが不味かった。そりゃそうだ。
一番近所のスーパーマーケットまで速歩で10分。風は、強い向かい風だった。行きがけに風に煽られて壊れた傘。何でか大量に買い込みすぎて、両手にビニール袋を下げながら雨に打たれて帰宅した昨日。
しかもだ。寝たのは、ついさっきと言っても過言ではない朝方だったりする。
これで風邪を引かなかったら、寧ろそちらの方が疑わしい。どこぞの体力バカはどうだか知らないが。
我ながら実に馬鹿だったと思う。しにたいという言葉さえ出て来ない。苦しい。頭痛い。やっぱりしにたい。
それもこれも、あれもどれも何もかも。悪いのはアルフレッドなんだからな。
「何が手作り弁当だ……くそっ……」
あの時、冗談だろと恐る恐る聞き返した俺に、アルフレッドはあっさり笑って頷いて見せた。
そりゃあ、料理は好きだ。食べて貰うのだって。腕もそんなに悪くないと思ってる。自分では。そりゃあ、偶に焦げたりするけど。9割ぐらい。
兎に角だ。あの、二人でいる時のノリで不味いだ何だと言われるのかと思うと、気鬱で仕方なかった。あのままでいたら、鬱病を発症していたかもしれないと言っても、全く以て過言ではない。
冷蔵庫を開けて、ふらふらと買い物に出て、そうして風邪を引いた訳だ。
これがアルフレッドの所為じゃないなんて、俺は絶対に認めないんだからな。
「………」
心なしか更に痛くなって来た頭を、枕の上からそろそろと持ち上げる。
ずきずき、ちくちく。
なんだか心細さのようなもので胸が痛む気がするのも、風邪の所為だろうか。
外は相変わらずの良い天気具合をカーテンの隙間から伝えていた。もし、今。晴れた空を見れば、少しは気分も良くなるだろうか。
「…………」
学校に連絡を入れて、寝直そう。一日寝てれば治る筈だ。
閉じた瞼の裏に浮かんだのは、俺の弁当が食べたいと笑うアルフレッドの顔だった。
分かってる、そんなの妄想だ。現実は、有無を言わさぬ笑顔で押し切られただけなんだから。
脚色された偽りの姿に鼻を鳴らして目を開ける。
アルフレッドの、ばーーか。
次に目が覚めたのは、階下から鳴り響く呼び鈴の音が原因だった。
居留守を決め込むか、一瞬悩んだ身体に力を入れて。のろのろとベッドの上に起き上がる。丁度喉も乾いていた事だしと、軋む身体を引きずるように玄関へ向かった。
相手を確認せずに扉を開けると、そこにいたのは見慣れた髭面。フランシス。
「おー、思ったより元気そうじゃない」
おまえが休むなんてどれ程かと思った、なんておどけて見せるフランシスに渋面を作るが、堪えた様子は勿論ない。
「何しに来た」
「お見舞い?」
「帰れ」
さっさと閉めてしまえと扉を引くが、爪先をねじ込まれて失敗する。更にフランシスは両手も使って無理矢理開けると、勝手に中まで入って来た。
俺が磁石の同極のようにじりじりと後退すれば、そのまま扉を閉めて招かれざる客が上がり込んで来る。
何すんだよ、蹴りの一発でも喰らわせてやれる元気があれば、とっくにそうしている所だ。
「これでも代表して来てやってるんだから、簡単には帰れないの! それに、お腹空いてるでしょ?」
「代表?」
「そうそ、最初はアルフレッドが来たがってたんだけど、アルフレッドの彼女? エミリーも行きたいって言い出して、そうしたらセーシェルまで自分の所為だから見舞いにって言うもんだからさ。代わりに俺が来てあげたってワケ」
「……ふうん」
「ホントに風邪だったら大勢で押し掛けても困るだろ?」
キッチンへ向かう背中を追って、廊下を歩く。
セーシェルには、昨日の件が原因で風邪を引いたと思われたのかもしれない。アルフレッドとエミリーは……、何故だか今日はあまり二人の顔を見たい気分じゃなかったから助かった。勿論フランシスだって、決して見たい顔という訳でもないが。
「え、おまえ何この冷蔵庫の中」
「あ?」
勝手に冷蔵庫の扉を開け、中を見ながら文句を言うフランシス。俺も横から覗き込んだ。……ああ。
「おまえんち、いつから自炊するようになったの?」
「……知らね」
「知らないじゃないでしょうが! あーもー、肉も野菜もみんな一緒くた!」
「……アルフレッドには言うなよ」
「は? なに? 冷蔵庫の中が整理整頓できない事?」
「ちげえよ」
「じゃあ何……もしかしてこれ全部、アルフレッドに喰わせる予定なの?」
「違う」
キッパリ告げると、フランシスは軽く肩を竦めて再び冷蔵庫に向き合った。
「ま、別にいいけど。何か作って持って行ってやるから、それまで寝てれば?」
「……そうする」
匂いが移るだの野菜の向きがどうのと文句を言いながら冷蔵庫を引っ掻き回している声に背を向けて、二階の寝室へ向かう。
これ以上小言を喰らったら、具合が悪くなるだけじゃなく、気分まで滅入りそうだ。
どうせおまえの飯は美味くて、俺の飯は不味いよ。まだ言われてもいない言葉に、心の中で悪態を返す。
美味い材料からは、必ず美味い料理が出来ればいいのに。
階段を登る足音に薄目を開ける。どうやら少し寝ていたらしい。
もうカーテンの向こうからは、光は差し込んでいなかった。
今更のように覚える空腹。思えば今日は朝から何も食べてない。
もそもそと毛布の中から身体を起こせば、扉の前で止まった足音とコンコンと響く儀礼的なノックの音。
分かり切った相手に返事は返さなかったが、相手も返事を待たずに扉を開けたからお相子だ。
「気分はどうよ?」
「たった今最悪になった」
「はいはい、元気そうで何よりだよホント」
渡された器は、ほかほかと白い湯気を立てていた。いい香りがするスープの中に、刻まれた野菜が入っている。
文句なしに美味そうな事に対して文句をつけたくなる。大人な俺は、勿論黙って食べたけど。
くそ、俺だってこれくらい練習すればだな。
「あれ?」
「あ?」
何を見つけたのか、フランシスの疑問符に顔を上げれば、どうやら俺の机の上に何か見つけたらしい。
「なに? コレ。どしたの?」
「――ああ……」
目敏く手に取られたのは、くたりと形を変えた薄いナイロンだ。忘れないようにと目に付く場所に置いていた赤と白のストライプ。
昨日、エミリーから借りた折り畳み傘が入っていた袋だ。返しそびれたまま持って帰って来てしまった。
俺の部屋に明らかに女性用の物があるのが可笑しいのか、それとも暇なのか。多分その両方で追求を止めないフランシスに昨日の経緯を掻い摘んで話してやれば、一つ頷いて質問の矛先を変えた。
「じゃあマジなの? アルフレッドの彼女って。てっきり冗談かと」
「俺が知るかよ」
「あのアルフレッドがねえ」
あのアルフレッドが、なんだよ。意外に感じてるのなら、俺だってそうだ。
けどそれは、きっと小さい時から知っている相手だから覚える違和感みたいなもんで。よくよく考えてみれば、アルフレッドは昔から元気で明るくて人気を集めるのが上手かった。そう思えば、寧ろ今まで彼女がいなかったのが不思議なくらいじゃないか。
俺達の中で一番小さかったアルフレッドは、もういないんだ。
無言でスプーンを口に運んでいると、反応の薄い俺に興味が失せたのか、部屋の中を見回していたフランシス――換気だとか言って勝手に窓も開けやがった――の視線が再び机の上で止まった。
「あれ?」
「なんだよ」
「机の上にあった写真は?」
「あ?」
「ほら、おまえがグラビア写真突っ込んださぁ」
それ以上は言わせずに、知らねえなとすげなく返す。大体あの写真は、俺が入れたくて入れた物じゃない。「おまえねえ」フランシスが言う。なんだよ、こっち見んな。
視界を遮るように、空になった器を押し付けた。
「張り合いないとつまんないんだけど」
「なら帰れよ」
「イライラしちゃってまあ」
「おまえと同じ空気を吸ってるからだろ」
「はいはい帰ります帰ります」
「フン」
フランシスが扉の傍で振り返る。「アーサー」なんだよ、優しい声、出すなよ。
「スープ、美味しかった?」
「……まずくはない」
「まだ下にあるからね」
「ん、」
「アルフレッドに彼女が出来て、寂しいね」
「――……うん」
聞こえない方がいいつもりで囁き返し、背中を向けて頭からブランケットを被った。なるべく壁際に寄って、小さくなる。
光も視線も遮った柔らかい布の中で、反芻するのはさっきの言葉。
別に。アルフレッドはどこか遠くへ行ってしまった訳でも、喧嘩して仲違いした訳でもないのに。明日にでも、学校へ行けばまたすぐ会えるのに。いつも通り――いや、もう休日を共に過ごしたり、学校の行き帰りを一緒に過ごしたりは出来ないのか。そこは普通、彼女優先だよな。
こんな事なら、もっと。俺からも誘って遊んだり話したりすれば良かった。そうしたら、そうしたら……なんて、詮無い考え。何をしていた所で、きっとこの、よく分からない気持ちのやり場がないのは変わらなかった。
寂しいと肯定する俺の言葉が、フランシスに聞こえたのか聞こえなかったのか、驚いたのか笑ったのかは、俺には分からなかった。
「おまえら、いっつもウザいくらい一緒だったしなぁ……けど、」
――けど?
ブランケットの布地が邪魔をして、フランシスの小さな声がどこか遠くに聞こえる。
瞼も下ろした真っ暗な視界。既に微睡みの中にいた俺は、フランシスの言葉をはっきりと聞く事が出来なくて。
「――――が好きなのは、おまえだと思ってたんだけどね」
好き? 誰が? 誰を? 俺?
うとうとと襲う眠気に、聞き返した筈の言葉は音になる前に消えてしまった。
カタン、と響いた音に意識がゆっくり浮上する。
布地が揺れる微かな音。恐らくカーテンだ。あの糞髭、窓閉めないで帰りやがったな。
続いて部屋の空気が動く気配。風、か?
窓、閉めねえと。風邪が悪化したら笑えない。そう思うのに、重たい身体はまだ寝ているみたいで。
瞼は開かないし、指一本動かせなかった。
微かな気配と物音が床を踏む音に変わり、人の気配がゆっくりとベッドに近づいて来る。焦らなきゃいけない場面なのに、俺の身体はやっぱり動かない。
足音を殺した人の息遣いに、遂にベッドのすぐ横にまで近付かれる。
「……アーサー?」
――アル?
「……寝てる……?」
聞こえたのは、アルフレッドの声だった。
小さく小さく潜められて、普段とは色を変えた声。
俺の口から漏れる吐息は寝息のリズムを保ったままで、声にならない。
頭まで被っていたブランケットを捲られて、顔を覗き込まれているような気配がする。
「心配で来ちゃった」
壁際を向いて寝たから、寝顔はそんなに見えない筈。部屋も暗いままだし。
なんとなく感じる視線がむず痒い。
アルフレッドはブランケットを俺の首の位置にかけ直すと、そっと手を離した。
――待って。
咄嗟の言葉も声にならなかったけど、ようやく唇が少しだけ動く。
「俺に彼女が出来て、アーサーはどう思った?」
「……さみしい」
「え?」
俺が完全に寝入ってると思ってたんだろう、アルフレッドは驚いた声を上げた。
けれど、俺の口から声が出たのはそれっきりで。相変わらず目も開かないし、正直これが夢か現実かも分からない。
何の反応も返さない俺にアルフレッドだって寝言だと思ったろうに、今度は焦ったような質問が飛んでくる。
「……それだけ? 他には?」
潜めた声音は、少し早口だ。
他に……って、寂しい以外に、って事か?
分からない。そもそもこの気持ちが寂しさなのかさえ曖昧だ。
もしかしたら、自分よりガキだと思っていた相手に先を越されて、焦っただけかもしれない。その方が、しっくり来る気がした。
そうであってくれた方が、きっといい。
よく分からない安堵に、再び眠気が襲って来た。
黙っている俺に痺れを切らしたのか、ギシリとベッドが軋む音に続いて近付くアルの気配。
「ねえ、もっとちゃんと、しっかり俺のこと見てくれよ。そうすれば君だって――」
どういう意味だよ、返した言葉は声にならなくて。
俺は結局、その夜から三日も学校を休んだ。
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