君がいる明日 - main
Doubt 5


 ――雨が降っていてよかった。
 もし晴れていて、並んで歩いたりしたら。この面子で何を話せばいいか分からない。
 不自然に開く距離を、雨と傘の所為にして。
 ――そう思っていられたのは、校門を出てからほんの僅かの間だけだった。

「…………」

 俺は今、目の前を歩く二人の背中が気になって仕方ない。
 手を伸ばしても届かない距離。周囲の雑音を掻き消す程の強い雨は、少し先を行くアルフレッドとエミリーの声を完全に遮断していた。何かを話している様子は窺えるが、まるで音のないスクリーンに映る世界を見ているように、ただ見ている事しか叶わない。
 なんで雨なんか降ってるんだと、腹立たしくさえ思った。
 一転した思考の理由は単純明快。並んで歩く二人の間に空いた微妙な距離、エミリーの方により多く傘を差し出しているアルフレッドの肩が、雨に晒され遠目にも分かる程ぐっしょりと濡れているからだ。
 チリチリと刺すような痛みに、感情が乱される。

「……さん、アーサーさんっ! もう、聞いてるんですか!?」
「あ?」

 キンと鼓膜に響く声に横を向けば、セーシェルがポコポコと湯気を出していた。

「悪い。全く聞いてなかった」
「むきーっ!」
「ぎゃっ! おいバカ暴れるな! おまえは野生児か!」
「乙女になんてこと言うんですか! この眉毛!」
「てめえ! 眉毛バカにすると呪うぞ!」
「いーーやーー!」
「だから大人しくしろっつの! 濡れるだろが!」

 バシャッ、バシャンと足元で盛大な水飛沫が立つ。
 ああくそ、家に帰ったら直ぐに靴を乾かさねえと。
 ――アルフレッドは大丈夫だろうか……あいつは適当な所があるから、俺がちゃんと言ってやらなきゃな。そう思いながらまた見ていたのか、セーシェルが俺の視線の先に気付いて感嘆の声を上げた。

「わっ。ああいう所を見ると、アルフレッドさんもちゃんと男の人なんだなーって思いますね」
「……まあな」
「――……ってぇ!」

 さり気なくエミリーの方へ傘を傾けているアルフレッド。その道路側の肩を指して笑ったセーシェルが、俺を見てぎょっと目を見開く。
 つられて驚いた俺が一歩引くと、後ろ足が派手に水音を立てた。ああ、今のでズボンも完全に逝ったな。
 セーシェルは人差し指で示す先を改め、俺の、左肩を指した。

「アーサーさんも濡れてるじゃないですか! 私はいいからしっかり差して下さいよ!」
「はあ!? なんでだよ!」

 ぐいと傘ごと押しやられて負けじと押し返す。
 たった今アルフレッドを褒めた口で、何を言ってるんだコイツは。遠慮するような殊勝なタマじゃねえだろうが。
 そもそもこの雨の中、小さな折り畳み傘に二人で入ろうという時点で些か無理があったんだ。俺の左半身はぐっしょりと濡れていて、特に足が酷い。それでも無いよりはマシだったが、もうこの際こいつ一人に傘を持たせて走って帰ろうという気になって来る。

「何か裏がありそうで怖いです!」
「てめえ、言うに事欠いて!」
「だってアーサーさんさっきからピリピリしてるじゃないですか……!」
「っ……いいから大人しくしろ! さもなきゃ一人でこの傘使え! 俺は――」

「……何やってるんだい君達」

 気付けばアルフレッドとエミリーが立ち止まって振り返っていた。
 雨にけぶる視界で表情までは見えないが、呆れた声のアルフレッドと、隣のエミリーは驚いているのか声もない。
 寮へと続く別れ道。一緒に帰ろうと話していた終着地点。いっそ放っておいてくれればよかったのに。
 並んだ二人が一歩ずつ近付いて来る毎に、俺のプライドや生徒会長としての威厳が崩れて行くようだった。何やってんだ、本当。

「ちょっとアーサー、なんで君そんなに濡れてるの」
「こんなの、濡れた内に入らねえよ」
「そんなこと言って、また風邪引きたいの?」

 呆れよりも、徐々に苛立ちを多く含み始めるアルフレッドの声。
 そりゃあ折角彼女と帰ってるのに、ムードを壊された挙げ句、世話を焼かせたのは悪かったと思うけど。
 俯いた俺の耳に、我が意を得たとばかりに生き生きと傘を押し返して来るセーシェルの声が響く。
 なんだこの敗北感。

「ほら! アルフレッドさんもこう言ってますし、やっぱりアーサーさんが使って下さい!」
「ふざけんな! おいアル! 俺の前にこいつをどうにかしろ!」

 そうしたら、俺は一人で先に帰ったっていいから。
 最早悲鳴とも罵声ともつかない俺の声に逸早く反応したのは、それまで黙って見ていたもう一人の青い瞳だった。

「そうだ!」

 キラキラと輝く満面の笑みで手を打ったエミリーが、アルの傘から飛び出して。俺とセーシェルの間で圧力を受けていた傘をひょいと手に取ると、そのままセーシェルと二人で入ってしまった。
 俺はというと、腕を引かれて肩を押されて、アルフレッドの方へと押しやられる。訳も分からず促されるままにたたらを踏んだ。

「はい、こうやって……こう!」

 俺の上に雨が降っていたのは、ほんの僅かな間で。不意に遮られた雨粒に空を見上げれば、視界に映るのは雨を降らせる厚い雲の代わりに青い傘。

「あたしなら寮まで行っても友達の部屋に泊まれるし、このまま送って行くよ」

 見事なウィンクとぱたぱた振られる手は別れの挨拶を示している。
 セーシェルはと見れば、エミリーの隣、赤い傘の下にこぢんまりと収まっていた。
 折り畳み傘ではやはり狭そうだったが、遠慮も配慮も要らない同性間の距離はぴたりと肩を寄せ合う気さくさで。俺と入るより余程快適そうだ。

「きゅ、急に行ったりして大丈夫なのか?」
「うん! いつも泊まりに行ってるからね。家まで遠いからどうしようかなって思ってたんだ」
「そうか……その、色々すまない」
「ううん、生徒会長の意外な姿を見れて楽しかったよ、ですっ。ほら二人とも、行った行った!」

 はにかんで手を振り回す様子に、濡れるぞと笑ってやる。
 この明るい強引さはアルフレッドに似てると思った。青い瞳についつい目を奪われる。アルとエミリー、案外似合いの二人なのかもしれない。
 その背を見送っても尚ぼんやりと立ったままでいると、軽く腕を引かれた。

「俺達も行こう」
「ん、おう」

「……最初から、こうしてれば良かったんだ」

 呟かれた声はあまりにも小さくて、誰の耳にも届かなかった。





 ――き……気まずい。
 今朝はあれほど近かった家までの道のりが、遥か遠くに感じる。
 水溜まりを踏む足音もかき消されるような雨の中。俺達は距離だけは親密に、けれど不自然にぎこちない空気を滲ませながら歩いていた。
 一番訊きたい言葉が喉の奥に詰まって、どうにも上手く聞き出せない。

「……おい、アル」
「なんだい?」
「傘、俺が持つ」
「なに言ってるんだい、君が持ったら俺の頭に当たるじゃないか」
「はあ? ……おまえがなに言ってんだ! んなに小さくねえよっ!」

 一瞬遅れて、暗に身長差をネタにされたと理解する。
 いつもと変わらない些細なからかいが、妙にイライラした。

「ねえ」
「なんだよ」
「俺んちでいいだろ?」

 ――何が。そう訊く前に、アルフレッドは前を向いたまま、一度も俺を見ないで言った。

「傘はこれしかないんだ。一回どっちかの家に行かなきゃ。ここまで来て今更濡れるなんて、馬鹿みたいじゃないか」

 アルフレッドが言い終わると同時、おあつらえ向きのように強くなる雨。雨。雨。
 否やを伝えるタイミングを逃した俺は、そのままアルフレッドの家に向かった。
 見慣れていた筈の横顔。隣の温度が、近くて遠い。





「君、先にシャワー浴びなよ」
「は? おまえんちだろ、おまえが先に……」
「君の方が俺より濡れてるし、風邪を引きやすいのも君。それに俺の家だからこそ君がシャワーを浴びてる間に俺が着替えを用意する方が効率いいじゃないか」
「わかった、わかったよ!」

 追い立てられるように脱衣所に押し込まれて、バスタオルを投げ付けられたかと思ったらさっさと扉を閉められた。
 壁を隔てたアルの声。

「着替え、何が必要?」
「ぜんぶ」
「オーケー」

 遠ざかる足音に息を吐いて、備え付けの洗濯機の中に制服以外を纏めて突っ込む。勝手知ったるなんとやらで、俺の家にあるのよりデカい機械を動かした。
 子供の頃、泥だらけになったり水遊びをした後に帰る先は決まってアルの家だった。洗濯から乾燥まで全部やってくれる便利な機械は、遊び盛りな子供の強い味方で。
 外の興奮をそのまま持ち込んで騒ぎながら浴びたシャワー。衣服が乾くのを待って袖を通し、そのまま疲れて眠って泊まるなんて事もしょっちゅうだった。
 髪から滴る滴に頭を振り、感傷に浸りそうになる思考を払う。
 もやもやする気持ちごと流してしまおうと浴室に足を踏み入れて。熱いシャワーを頭から浴びた。



「泊まってく?」
「へっ? あ、いや……」

 ぶおお、と風の音に消されそうな声を何とか拾って顔を上げる。
 順番にシャワーを済ませてアルの部屋。寝転がって雑誌を読むアルフレッドと、借りたドライヤーの風を制服に当てて乾かしてる俺。
 アルフレッドがちらと雑誌から視線を移して、俺を見た。

「服が乾いたら帰る」
「……そう」

 乾いたら――の服は、今頃洗濯機の中で回っているであろうシャツやら靴下の事だ。
 今はアルに借りた中学のジャージを着てる。懐かしさと、アルの匂いがした。

「流石にちょっと小さそうだね」
「当たり前だろ。だから言ったじゃねーか」
「でも今の俺の服じゃ、ウエストも袖も余ると思うんだ」
「ダイエットしろ、ダイエット」
「スポーツマンになんてこと言うんだい、筋肉だぞ。自分の貧弱さを棚に上げないでくれよ」
「…………」
「…………」

 いつもの言い合いにも、どことなくキレがない。ような。
 気を抜けばピリピリと張り詰めそうな空気。こんなのは嫌だと、強く思って下唇を噛む。
 原因は分かってる。なんでアルから言い出さないんだという気持ちを飲み込んで、俺はドライヤーのスイッチを切った。

「おまえ、エミリーと付き合うって……急にどうしたんだよ」
「言ったじゃないか、話してみたら気が合ったんだ」
「そうか……」
「……何か他に言う事、ないの?」
「へ?」

 アルフレッドが雑誌を閉じて、のそのそと身体を起こす。俺を射る青い視線。
 何か、何か言いたい事……俺は必死に言葉を探した。

「あー……まあ、まさかおまえの方が先に彼女できるなんてな。絶対俺の方が早いと思ってたのによ。はは」

 嘘だけど。
 俺にも、アルにも。もし彼女が出来たら……なんて具体的な想像、した事あったっけ。今もまだ実感が沸かない。
 お互いに恋人ができたら、どう変わって行くんだろう。
 アルフレッドと離れるのは、性格の不一致や将来目指す道の違い、時が経つにつれて少しずつだと思っていた。――でも、もしかしたら、これが転機になるんだろうか。
 ――イヤだな。
 今のこのモヤモヤと納得しきれないような気持ちは、きっと子供の独占欲だ。この歳でそれはないだろう。
 生乾きの制服を畳みながら、わざと余裕を持ったトーンで言ってやる。

「これからはあんま遊べなくなっちまうなァ。彼女はちゃんと大事にしろよー。まあ、おまえなら大丈夫だと思うけど……おめでとう、アル」
「……なんで俺の保護者みたいな口振りなんだい」

 ぼそっとしたアルの言葉は無視した。それぐらいの八つ当たりは許して欲しい。
 仕事を終えた洗濯機が、さっきからピーピーと呼んでいる。俺は畳んだ制服を手に立ち上がった。

「制服乾かなかったな、このままジャージ借りていいか?」
「乾くまでいればいいのに」
「俺も忙しいんだよ。あ、アル。制服入れる袋くれ」
「靴も持って帰った方がいいんじゃない?」
「そうだな」

 干していた鞄も手に脱衣所へ向かう。洗濯機の中から乾いた衣服を取り出して、シャツだけ畳んで仕舞った。
 靴下を履いて、下着を履き替えたところではたと迷う。たった今脱いだアルフレッドから借りた下着と、脱衣籠の中に入ってるさっきアルが脱いだんだろう服の山を見比べて。
 扉の向こうに声を掛けた。

「アル」
「なに?」
「袋もう一枚」
「何に使うの?」
「下着も借りちまったろ、持って帰って洗って返す」
「え? 別に置いといていいよ。いつもそうしてたじゃないか」
「そ、そうか……そうだな」

 いつもとは言うが、最後がいつだったかなんてもう思い出せない。いっそ穿いて帰れば良かったと思うが、何せウエストがブカブカで心許ないし、後の祭りだ。
 今更ながら何でパンツまで借りたんだと妙に後ろめたいような後悔が沸く。

「……ふーん、アーサーは他の家で着るものを借りたら洗って返してるんだ?」
「もうガキじゃねえんだから。当たり前だろっ」

 その前に借りたりしないけど。
 大人とか子供とか、何でそんな言い訳が必要な関係になっちまったんだろう。
 俺が勝手に考えてるだけで、アルフレッドは何も考えちゃいないんだろうけど。
 頭の中がグルグルして、熱でも出そうだった。
 迷った末、借りた下着は小さく畳んで脱衣籠のシャツの間に突っ込んで。扉を開けた先は、既にアルフレッドの姿はなかった。
 何故かどっと疲れた身体を叱責して、玄関へ向かう。
 濡れた靴の代わりにと用意されていたアルフレッドの靴は、俺の足よりうんと大きかった。
 別に、俺の方が子供だと言われたような気になんかなってない。

「……アーサー」
「なんだよ」
「明日の昼さ、エミリーと屋上で食べようって話になったんだけど、君も一緒に食べようよ」
「二人で喰えばいいだろ」
「エミリーも友達連れて来るって言うからさ。君も来てくれよ。いいだろ?」
「……生徒会の仕事がなかったらな」

 踵が浮く靴を素知らぬ顔で突っかけながら振り返る。アルフレッドは青い傘を差し出しながら満足そうな顔をしていた。
 なんだよ、初々しいカップルは二人きりじゃ恥ずかしいってか。

「約束だぞっ」
「人の話はちゃんと聞け!」
「それでさ」
「まだ何かあるのかよっ」
「お弁当、作って持って来ようって話になったからさ、君も持って来てくれよ。ちゃんと手作りだからね」
「…………、は?」


 

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