君がいる明日 - main
Doubt 3


 翌朝、アルフレッドとの待ち合わせ場所。互いの家に向かって別れるT字路の角できっかり5分待った俺は、アルフレッドを家まで迎えに行った。
 この広い世界で、まあそんな長くも生きてないけれど、自分の家の次ぐらいには馴染んだアルの家。
 モニターが付いたインターホンのボタンを押し込めば、折角の機能は生かされる事なくすぐに扉の向こうからドタバタと走る派手な音が近づいて。それを聞いた俺は扉の前から二歩下がる。

「おー、起きてたか」

 中から飛び出して来たのは、言わずもがなアルフレッドだ。このままじゃ外を歩けたもんじゃない格好と口の端にはソースまで付けて於いて、髪だけはきっちり整えられているのがまた可笑しい。
 シャツは半分以上ウエストからはみ出し、ネクタイは首に引っ掛けられただけの状態に手を伸ばす。シャツのボタンを上まで留め、襟を立ててやった所で途端に不満気な顔をするのは当然無視だ。これが中学の時は部屋まで起こしに行っていたのだから、少しは成長したのかもしれない。アルがやるより綺麗なノットを作ってネクタイを締めてやれば、呆れたように名前を呼ばれた。
 俺はやっぱり可笑しくて、少し笑った。

「なんだ、嫌ならもっと早く起きろよ」
「待ち合わせ時間が早すぎるんだぞ」
「部活の朝練がある日の方が早いだろうが」
「朝練の時は朝練の時さ」
「それより口んとこ、ソース付いてる」
「もっと早く言ってくれよ!」

 軽口を叩き合い、口許を乱暴に手の甲で拭ったアルフレッドが屈んで靴を履き直すと、いつもは見えない旋毛が見えた。随分と広くなってしまった背中には、およそ通学には似つかわしくない小さなメッセンジャーバッグ。その身軽な軽装に気付いて、俺の口から「あ」と声が漏れる。アルフレッドが何だと問うように顔を上げた。

「傘。今日は午後から雨だぞ、ちゃんと傘持ってけ」
「君は持ってないみたいだけど?」
「俺は紳士だからいいんだよ……と言いたい所だが、折り畳み傘を持って来てある」

 手にした鞄を軽く叩きながら言ってやると、アルフレッドも大人しく玄関の中に引っ込んで大きな青い傘を手に取った。扉に鍵を掛けて振り返るのは、やけににこやかな顔。その笑みが何を思い出しているのか検討がつく俺は、気付かない振りで背を向ける。
 空気を読まない事に定評のあるアルフレッドは、勿論そんな事はお構いなしに俺の背中に声をかけた。

「忘れっぽい君でも一応覚えてるんだね」
「おら、早く行かねえと遅刻するぞ」
「前にそう言ってさ、風邪引いて熱出して寝込んだ事」
「うるせえっ!」

 紳士は雨が降っても傘を差さない――と、最初に言ったのは一体誰なのか。傘を持つよりステッキを手にした方が紳士であり、傘は女性が持つ物と言われた時代、毎日のように霧雨が降る国で生まれた言葉らしいが、すっかり感化された俺は雨が降っても傘を差さないのが真の男らしさだと言わんばかりに濡れて帰っていた日々があった。
 そうしてある土砂降りの日、心配する周囲の言葉を余所に後に引けなくなった俺はとうとう風邪を引いた訳だ。一緒にいたアルフレッドは全く平気そうにしていたのにと理不尽さに唸った事もまだ覚えてる。

「なのに君ってば、それからも懲りずに傘を差そうとしないし」
「昔の話だろがっ!」
「そうだっけ?」

 そうだよバカ。
 懲りずに傘を差そうとしなかった俺に、おまえが半分泣きながら「なら俺がアーサーの代わりに紳士になるから、アーサーは傘を差してよ」と今では考えられないような可愛げのある台詞を言えた頃の話だ。その後、おまえが紳士になれるかと言った俺に、「じゃあヒーローになるんだぞ!」と返した事までしっかり覚えてる。ヒーローになりたいのはおまえじゃねーかと言って、二人で笑った。

「ったく。おまえ、昔話嫌いなクセにこんな時ばっか言いやがって……」
「それは君が――」
「俺が?」
「……君の情けない話なら大歓迎に決まってるじゃないか!」
「てめえ!」

 人の少ない朝の匂いの中、逃げるアルを追いかけ、鬼ごっこのように学校へ向かった。
 慣れた会話、慣れた光景。
 目の前を走る背中は、いつだって見てきたものだ。振り上げた拳はもう、決してアルには届かないけど。
 縮まらない距離は、広がりすぎる事もない。もしアルが全力で走ったら、目の前の背中なんてあっと言う間に豆粒程の大きさになるだろう。
 昔はまだ、走る速さだけなら同じぐらいの時があった。体力勝負と力比べは昔から勝った試しがないけれど。
 早起きは昔から俺の方が得意で、夜更かしは未だに気付けば先に寝てしまう。
 夜一人でトイレに行けるようになったのは俺の方が早くて、エロい事に興味持ったのも俺の方が早かった。アルフレッドのホラー嫌い、もとい怖がりは一生治りそうにない。
 変わらない事と変わった事、本質と成長。
 大人ぶってガキの延長は終わりだと嘯きながら、誰より自分が一番懐かしがってる事を知っている。
 だから時々、考えるんだ。アルフレッドがいない未来を。少しずつ剥離して行く俺達の関係が、いつ道を違えてもいいように。笑ってその背を見送って、同じ空の下、どこかで元気にしてればそれでいいと思えるように。
 ――なんて。こんな事を考えたりするから、アルに「君は実にネガティブだな」なんて馬鹿にされたりするんだ。前にそう言われたから、もう絶対悟らせたりしない。
 踏み出す足に力を込め、緩めていた速度を上げた。

「アーサー! 遅いぞ!」
「うる、せっ! 加減っ、しろっつの!」

 学校は既に見えていて、校門前で立ち止まったアルが「加減ならしてるよ」とムカつく事をほざいている。ちくしょう、嫌味か。
 大体、なんで走って学校まで来る羽目になってるんだ。
 半ば突っ込む勢いで適当に速度を殺しただけの気安い拳が、ぽすんとアルの肩を打つ。――あ、届いた。
 なんとなく、続けざまに二度、三度と繰り出した拳も避ける事なく受け止められて。
 立ち止まるとどっと全身を襲う疲労感に負け、膝に手を着いて肩で息をした。

「くそっ……朝から無駄に疲れた……」
「アーサー」
「んだよ……」
「君、どこか具合でも悪いのかい?」
「はぁ?」

 よろよろと顔を上げれば、疲れひとつ見せず早くも呼吸が整いつつあるアルの顔。
 あ、くそ、コイツ、俺が折角締めてやったネクタイ緩めてやがる。
 思いのほか真面目な色に怯んだ気持ちをそんなムカつきで誤魔化して、俺も自分のネクタイに指を掛けて緩めた。
 アルは時々、妙に心配性な時がある。世話焼き具合で言えば断然俺の方が上だろうから、敢えて指摘はしないけど。

「別に、どこも悪かねぇよ」
「そうかい?」
「ああ。具合悪かったら、こんな無駄な体力使ってないっつの」
「ならいいけど。……いつもはもっと顔を真っ赤にして喚きながら追いかけて来るからさ、調子でも悪いのかと思ってねっ」
「んだと!」

 いっそ怒ってるようにさえ見えた心配そうな顔が、一瞬でからりとした笑みに変わる。その爽やかな印象とは対照的に、口から出る言葉は実に腹立たしい事この上ない。
 さっと俺との距離を取って逃げの体勢に入っているアルに舌打ちをひとつ。俺は進行方向を変えて、アルが向かう先にある昇降口を横目に歩き出した。

「アーサー?」
「先行ってろ。俺は花壇の様子を見てくる」
「じゃあ俺も――……」

 付いて来て何すんだよ。言おうと思った台詞は、アルフレッドが不自然に言葉を切った事で出口を失う。ちらりと振り返って見ればアルの視線は昇降口を向いていた。

「分かった、先に行ってるよ」
「おう」

 言うなり駆けていく背中を一瞥して、俺も校舎裏にある花壇へ向かう。
 生徒達の喧騒から外れた場所にひっそりと咲く花は、誰かに踏み荒らされる心配も、突然飛んでくるボールに襲われる事もない。小さいながらも愛着を持って育てている花達だ。折角の彩りを誰にも省みられないのは寂しくも思うが、こうして丹精込めて大事にしてやれるのは嬉しい。
 軽く雑草を抜いて、水をやって、午後からの天気を見越して風除けを立てる。
 簡単な作業を終え、よしと立ち上がって見上げた先。校舎の反対側に設置されたプールには、こんな時間だからかフェンスの向こうに生徒の姿は見えなかった。
 誓って言うがこの場所に来るのは人のいない時間帯が主で、疚しい気持ちは一切ない。何より俺はどちらかと言うと年上が好みだ。幼く見えると、どうしても庇護する対象を邪な目で見ているような罪悪感に駆られてしまう。
 ……アルフレッドは、どうなんだろうか。告白されたのは校舎裏と言っていた。なら場所はここだったかもしれない。想像してみようとして、面倒臭くなってやめた。
 何となく物寂しいような気持ち持て余しながら昇降口に向かうと、ずらりと並んだ靴箱の前。丁度俺の向かう先に、誰かがいた。

「……アル?」

 一瞬分からなかったのは、ついさっき迄はその元気で人を散々振り回してくれた姿が、ぼんやりと立ち尽くしていたからだ。俺とアルの靴箱は隣り合っていて、その場所まで来てようやくアルフレッドだと確信を持つ。

「なんだ、まだいたのか」
「うん……ちょっとね」
「ラブレターでも入ってたか?」

 わざとらしく覗き込んだ靴箱、それにアルの手にも何もなかった。
 アルは俺の頭上に呆れた声を降らせて、さっさと先に行ってしまう。

「はは、君の頭はそんな事しか考えられないのかい?」

 軽い冗談のつもりが、どうやらお気に召さなかったらしい。この短期間に二度も告白を受けるなんて、ネタでもすごい事だと思うけど。これが髭ならウザいほど乗って来ただろうに。アルがこと恋愛に関して真面目だという事を忘れていた。一途で、断らなければいけない告白を受ける事をよしとしないんだろう、きっと。恋人にするなら、こんな奴がいいんだろうな。俺の幼馴染はいい男に成長した。まったくどこかの髭とは大違いだ。
 俺は何やら誇らしい気持ちになって、先を行くアルフレッドの背中を追いかけた。

「おい、待てよ。アル!」



 俺とアルフレッドは同じクラスで、大概のグループ分けも同じ班として行動を共にしているが、選択授業だけはことごとく違うものを選んでいる。選択する時にさり気なくお互いリサーチしたりするものの、いかんせん得意分野や苦手分野、学びたい科目が違いすぎるのだ。互いの好みを擦り合わせて興味のない授業を取ったり、無理に取らせたりするのは中学で懲りた。
 アルが居たり居なかったりする午前の授業を終え、昼食は生徒会室に用があった俺と部活動の顧問に呼び止められたアルは別々に摂った。
 そうして午後の授業は居眠りするアルを小突きながらあっという間に過ぎ、待ちに待った放課後……とはいかない訳で。

「アーサー、俺今日は早く終わるんだけど、そっちは?」
「悪い、今日は無理だ。先に帰っててくれ。くっそあの髭……どこ行きやがった」
「忙しそうだね、何か手伝おうか?」
「いや、天気もこれから本格的に崩れるだろうし……いいから早く帰れ」

 きょろきょろと辺りを見渡しフランシスの姿を逃すまいとする俺の視界の隅で、アルフレッドがむうと表情を歪めたような気がした。あえて気付かない振りで背を向ける。
 気持ちは有り難かったが、今は生徒会役員じゃない人間に任せられるような仕事が無いし、暗い色をした雲が増えてきた空がいつ雨を降らすとも知れない。待たせるのは気が引ける。
 今日はセーシェルも早く帰らせるつもりだった。……だった。

「フランシスのヤツ……覚えてろよ……」

 結局フランシスは見つからず、生徒会室では俺とセーシェルだけが仕事をしていた。
 大方、昨日の始末を任せて残らせた分、勝手に今日を休みとしたに違いない。生徒会を舐めるなと言いたい。授業が終わって直ぐ首に縄を巻いて置かなかった自らの甘さも腹立たしい。
 気付けば陽はすっかり落ち、窓の外を見ればまるで夜みたいに辺りは既に暗く、厚い雲に覆われた空が雨を降らせている。
 俺は一旦ペンを置くと、目頭をぐりぐりと揉み解しながら溜息を吐いた。

「おいセーシェル、今日はもう帰っていいぞ」
「えっ、本当ですか!? やった……って、あーー!!」

 ぱっと顔を上げたセーシェルが急に大声を出す。一体なんだとその視線を追えば、さっきまで俺が見ていた窓。透明なガラスの向こうを、水の筋が幾本も流れて外の景色を霞ませていた。

「雨! 傘持って来てねえです!」
「バカか、天気予報で午後から雨っつってただろうが」
「朝は晴れてたじゃないですかーっ!」

 大袈裟に嘆く声にガシガシと頭を掻く。窓の外を見たまま大きく口を開け、まだ濡れてもないのに雨に打たれたように肩を震わせるセーシェルを外に放り出せるほど俺も鬼じゃない。

「ったく、仕方ないから俺のを貸してやる」
「アーサーさんどうするんですか?」
「俺は……」

 ない。と正直に言うより、適当にもう一本ある事にしてさっさと帰してしまおう。そう思って俺が口を開いた時、バタンと空気を震わせて扉が開いた。
 突然の物音に肩が跳ねる。こんな事をする奴はひとりしか思い当たらないが、今日は来ないと思っていたから不意打ちだ。視線を向けた先にいるのは勿論。

「アル? おまえ、帰ったんじゃなかったのか?」
「うん、ちょっとね……ところでフランシスは?」
「いねえ、逃げられた」

 扉を開けたまま生徒会室をきょろきょろと見渡すアルフレッド。「どうした」と訊いてやりたい気持ちが沸かないでもなかったが、それよりも先に妙案が浮かんだ。

「丁度良かった。もう帰るだろ? 一緒に帰ろうぜ」
「あ、うん」

 さっさと机の上を片付けながらセーシェルも急かして促す。
 もう一仕事してから濡れて帰る事に抵抗はないが、この雨では明日までに制服が乾きそうにない。窓を叩く雨粒は、また少し強くなった気がする。
 それにアルも、どうせこんな雨でジメジメした日に仕事が進むわけがないだのと文句を付けに来たんだろう。今日ばかりはそんな強引さに感謝してやってもいい。
 俺はすっかりアルの傘に入る気で立ち上がり、何か宛てが外れたような顔をしているアルの背を押して生徒会室を後にした。


 

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