君に出逢えた幸福論 サンプル@
プロローグ
アルとはじめて会った日のことは、今でも覚えてる。
やさしい声が聞こえたんだ。
オレが生まれた場所には、見上げてると首が痛くなるぐらい大きな木がたくさんあった。
歩くとサクサク音がする草、花の匂いを届けてくれる風に、歌ったり喧嘩したりおいしい木の実を教えてくれる鳥のさえずり。明るい時は空の青と白い雲を、暗くなったら黄色い月と星を映してゆらゆら揺れた湖。
やさしくてあったかい母さんと、いじわるな兄さんたち。ときどき聞こえる不思議な声。
それが、オレの世界だった。
その日もオレは、大きな木の穴の中に隠れて、ひとりで泣いてたんだ。
もう帰れない、帰らない、帰りたく、ない。
兄さんたちは、オレのことがきらいだから……そう思ったら、目のおくがじわじわ熱くなった。
今日からは、本当にひとりぼっち。
ぽたぽた落ちてくるあったかい水は、オレの悲しい気持ちを外に出してくれてるんだ。からだを丸くして止まるのを待ってると、だんだんうとうとしてきて。明るくなって目が覚める頃には、悲しくないオレに戻ってる。
だから、今だけ。
穴の中はあったかくて、少し暗いのが今のオレにはちょうどよかった。外の光に背中を向けて、ぎゅうって小さくなる。
今日からは、ここに住むんだ。オレだけが知ってるヒミツの場所。朝になったら、ふかふかの草を集めて、あまい木の実もたくさん取ってくるんだ。
それから、それから。
「…………」
楽しいことをたくさん考えようとしたのに、すぐに思いつかなくなった。
本当は、帰りたい。どこか、ちがうところに――
そう、思った時だった。
「――ほら、出ておいで」
とつぜん夜みたいに暗くなったことにビックリするより先に、背中にふってきた誰かの声で飛び上がる。
どうして。ここはオレだけが知ってる、ヒミツの場所なのに。
知らない声は、やさしい声だった。
ドキドキうるさい胸を押さえて、ゆっくり、ゆっくり振り返る。穴の中はせまくて、逃げる場所なんてない。
最初に見えたのは、大きな手のひらと、太い指だった。
「…………」
手首、うで、かた、順番に見上げた先は、穴の外まで繋がって。
うんと高い位置で止まったそこには、あおい、晴れたお昼の空みたいな色の目があった。ぼやけて見える景色の中で、空を映した湖よりも、うんとキラキラ光って見えて――
「俺の名前は、アルフレッド」
すごく、きれいだと思った。
オレに向かってゆっくり近付いてくる、それまで見たことない大きないきもの。上の方にあった青い目が、穴の入り口までおりてきてオレの目の前で止まった。
ぱちぱち、まばたきをしたら、もう新しい水はあふれてこなくて。景色がよく見えるようになった。
しらない誰かと、目が合う。
あるふれっど
それは、はじめて聞く名前で、はじめて見る姿だった。
まず、耳がない。母さんや兄さんたち、オレにもある長くてふわふわの耳がなかった。伸ばされる手も、からだも。みんなとちがう。
ちがう、のに。
こわくない。
あるふれっどは、湖に映ったオレの姿によく似てた。
長い耳はなくても、その下の小さい耳はある。母さんや兄さんたちにはある、ふわふわの毛皮……オレにあるのは耳と尻尾だけで、あとはあるふれっどと同じ。
オレが毛皮の代わりに着てるのは、ニンゲンが着る服だって母さんが言ってた。足まで隠してくれる緑のそれを、ぎゅって掴む。あるふれっども、白くて長い服を着てた。
兄さんたちは、オレだけちがうから仲間じゃないって言ってたんだ。じゃあ……あるふれっどは?
ちょっと笑ったやさしそうな口。きらきらしてる、オレより明るい色のよく似たあたま。きれいな空の色。あるふれっどの顔から、どうしてだろう、目が離せなくなる。
「今日から君の……家族だ」
やさしいこの声が、すきだと思った。
ちょっとだけ下を向くと見える、ずっと差し出されたままの大きな手は。
「…………」
触ると、すごくあったかかった。
最初は指先でちょっとだけ。そのまま動かして手のひらの上に乗せてみたら、あるふれっどは大きな手を丸くして、オレの手をやわらかく包んだ。
気づいたら、ぽかっと開けてた口を閉じるのも忘れてあるふれっどを見てた。あるふれっどは、きゅって口を閉じたまま、なにかを待ってるみたいにオレを見てる。
――アルフレッド。
「あ……る……?」
教えてもらったばかりの名前を呼んで、そっと指を掴んでみる。一番ふとくて短い指。すぐに、その指も一緒にぎゅって握り返された。
「一緒に行こう、アーサー」
くしゃくしゃに笑った顔は、なんだか泣いてるみたいで。それをふしぎに思ったのに、気が付いたらオレも泣いてた。
「……あっ」
あるふれっどの大きな手が、オレの背中に回って引き寄せられる。穴の外まで引っぱられて、からだが、ぎゅうってくっ付いた。
カシャンって音が鳴って、あるふれっどの顔の、ちょうど目のとこにあったなにかが落ちる。
きっと今なら、あのきれいな青がよく見えるのに。あるふれっどの顔はオレの肩のところにあって、たしかめられなかった。
ひとりぼっちで泣いてたオレを見つけてくれた、あるふれっど。
まばたきをしたら、また目からあったかい水がこぼれてきた。今はちっとも悲しくないのに、なんでだ?
胸とお腹の中が、どきどき、ざわざわ、むずむずって、うるさいぐらい騒いでる。この気持ちはなんだろう。
あのな、ある。
ほんとはな、あのままずっとひとりぼっちでいたら、溶けて消えそうだったんだ。
それが寂しいって気持ちだと教えてくれたのも、アルだった。
オレが見つけた一番きれいな色。
手に入れたのは、新しい家族と帰る場所。
アルがくれた、たくさんのシアワセ。
あの日からオレはひとりぼっちじゃなくなって、ちょっぴりワガママになった。
1‐1
「アルのウソつき! 今日はずっと一緒だって言ったじゃんか!」
「ごめんよアーサー、一区切り付いたと思ってたんだけど、一つミスがあってね……」
言いながら、アルは扉に向かってじりじり後退して行く。アルのばか。最初からオレとの約束を守ってくれる気なんか、ちっともないんだ。
ちかちか光る緑のランプに気づいた時から、いやな予感はしてた。あと五秒早く部屋を出てたら、誰かがアルを呼び出そうとする声に気づかないまま遊びに行けたのに。
「っていうかアーサー、君また通信機の呼び出し音を消しただろう」
「…………」
オレはぷいっと横を向いた。さっきアルがあわてて着た白衣のボタンがかけ間違えてて、一個あまってるけど教えてなんかやらないんだからな。だからこれは、アルのかっこわるい姿を気づかないフリするためであって、別に、わるいことしたかな……とか、バレてどきっとしたりなんか、してないんだからな。
それにオレはあの音、びっくりするからすきじゃないんだ。
「もう。今日は早く帰ってくるから、いい子で待ってるんだぞ」
「……あっ!」
ピッて聞こえた音にあわてて前を向いたけど、オレが見たのは誰もいない通路と、プシュンって音を立てて閉まる扉だけだった。
「…………」
オレの拳はぷるぷる震えて、うつむいたら頭の横から垂れた耳もぷるぷる震えてた。さっきアルにくしゃくしゃにされた髪の毛も、きっとぷるぷるしてる。オレの身体は今、怒りに全身がぷるぷると震えていた。
ここで言っても、アルには聞こえないって分かってるけど。
言わなきゃ気がすまない。
「ア、ア……アルの、ばかああ!」
◇◇◇
オレの名前はアーサー。
この名前は、アルがつけてくれたんだ。かつて世界に希望の光をもたらした、偉大な魔法使いの名前。ちょっと違った気もするけど、だいたいこんな感じ。かっこいいだろ。たまに変な呼び方をするヤツもいるけど、オレはこの名前がすごく気に入ってる。
特技はうまい紅茶を淹れることと、妖精さんと話すこと、耳を澄まして遠くの音を聞くことだ。
アルたち普通の人間と違って、オレには頭の横、右と左から髪の毛と同じ色の長い耳と、お尻んとこから丸い尻尾が生えてる。これはロップイヤーってウサギの耳と尻尾なんだってアルが教えてくれた。母さんも兄さんも普通のウサギで、オレだけが違ったんだ。なにも分からなかった頃は、兄さんたちから仲間ハズレにされてずっと悲しかったけど……今は、この耳と尻尾のお陰でアルたちと会えたし、普通のウサギじゃ人間と話せないから、この身体でよかったと思ってる。
アルたちっていうのは、アルとオレが住んでるこの研究所にいるみんなのことだ。アルたちは、オレみたいな人間と動物のキ、キ、キメラ? を、元の人間と動物に戻したり、病気を治す研究をしてるんだって。その研究のお仕事ってヤツですごく忙しくて、アルは朝早く起きて、昼はずっといない。前は、夜も帰ってこない時があった。
今日はひさしぶりに、アルと森へピクニックに行く予定だったんだ。ずっと楽しみにしてたのに。
「アルのばか……」
けど、そんなオレにも仕事はある。
アルに「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」を言うことだ。紅茶も淹れるぞ。……今日は言えなかったけど。オレのばか。
「なあフェアリー……」
それともう一つ、最近オレが密かに追加した新しい仕事。
「今日も付き合ってくれるか? どこって、決まってるだろ」
研究所のパトロール。
アルたちががんばってる間、この研究所の平和はオレが守るんだ。
オレは今日も、アルがさっき脱ぎ散らかした服を片付けてから、こっそり部屋を抜け出した。
アルたち人間の住む場所ってのは、オレが住んでた森の中とはぜんぜん違ってて。
最初はすごく戸惑った。
白い壁に挟まれた細くて長い通路を歩くと、靴と床がぶつかる固い音がする。壁も床も、きっと天井も、触るとツルツルしててひんやり冷たい。こんな場所、森にはなかった。
ここには太陽も月ないのに、見上げると壁と同じ色した天井にピカピカ光る電気ってヤツがあって、こいつを消さない限りいつでも明るいんだ。けど、静かすぎて。靴の音だけがいつまでも後を付けてくるみたいに響くのが怖くて、初めの頃は一人じゃ歩けなかった。最近はそんなこと、ないんだからな。
通路はあちこち道が枝分かれしてて、森の中はどんなに歩いても迷ったりしなかったのに。もし目隠しされてどこかに連れて行かれたら、一人じゃアルの部屋にたどり着ける気がしない。今は妖精さんがいてくれるから大丈夫だけど。
妖精さんはオレの母さんより、アルより研究所ができるよりも前からうんと長生きで、物知りなんだ。
窓がないから、外も見えなくて。アルが読んでくれた絵本の家には窓があるのに、どうしてオレたちの家には窓がないんだって聞いたら、ここが地下だからだよって教えてくれた。
『いいところに気がついたねアーサー。この居住区は、地面の中に作ってあるんだ』
『オレたち、土の中に住んでるのか?』
『うん、そうなるかな』
『なんでだ? オレはこっちの方がいい』
こっちとオレが指したのは、絵本のページに描かれた森の中の小さな木の家。外に出る扉の横には花が植えてあって、住むならこっちの家がいい。オレは部屋の中に飾ってある花を見た。
『アルの好きな花も、たくさん植えられるぞ』
そうしたらオレが、アルの代わりにちゃんと世話をするから。
じっと見上げるオレに視線を合わせたアルは、ダメって言う時の顔をしてた。
『そうだね……でも、地下の方が安全なんだ。シェルターも兼ねているから、ちょっとやそっとじゃビクともしないし。水も電気も食糧も、ライフラインは確保してある』
『地面の上にいると危ないのか?』
『色々とね。……ごめんよ、不安にさせたかい? 俺がいるから何も心配はいらないよ』
話はこれでおしまいって言うみたいに、オレの頭をくしゃくしゃ撫でてアルは絵本を閉じた。なにが危ないのか聞きたかったけど、聞いたらきっと、もっとアルを困らせるから。
だからせめて、みんなが暮らす地下が安全なように、俺がパトロールするんだ。
気合いは充分、ぐっと両手を握ったその時。
「おや、アーサーさん」
聞こえた穏やかな声に振り返る。角を曲がったとこからオレの方に歩いてくる、黒髪黒眼でオレより大きくてアルより小さいのは――
「キク!」
名前を呼ぶと、キクは目を細くして笑った。
研究所にいるみんなは、キクもアルも白衣っていう白い服を一番上に着てる。もちろんオレも持ってるぞ。まだ大きいから着れないけど。
キクの白衣はいつも布がぴんってまっすぐ伸びてて、中に着てるシャツのボタンも全部留めてあるんだ。アルは「窮屈だよ」って言って、ボタンがあるシャツを着る時はいつも一番上と二番目を外してる。
「お散歩ですか?」
アルの太陽みたいな笑顔とは違う、優しそうに笑う顔がキクにはよく似合ってた。ちょっと屈んでオレを見下ろすキクに向かって、胸を反らす。
「違うぞ、パトロールだ」
「それはすみませんでした。走って転ばないように、気を付けて下さいね」
「おう!」
キクは怒らせると怖いけど、すごくいいヤツだ。
一度だけ、キクが怒ったところを見たことがある。
前にアルが何日も部屋に帰ってこなくて、きてもオレのご飯だけ用意してすぐに出て行ったり、オレが寝てる間に帰ってきて、「おかえりなさい」も「いってらっしゃい」も言えない日が続いた時。オレは悲しくて寂しくて、仕事をやめた事がある。
アルからもらった、オレの大切な仕事。「おかえりなさい」も「いってらっしゃい」も、言う相手がいなきゃ意味がない。お腹が空いても寒くても我慢してヒミツの場所に隠れてたら、アルが慌てて探しにきてくれて。その時一緒にいたキクがこう言ったんだ。
『アルフレッドさん。今日からあなたの仕事に、アーサーさんとご飯を食べる事を追加致します。いいですね?もし出来ないとおっしゃるならば、仕方ありません。アーサーさんは私の部屋でお預かりします。当然、毎日一緒に食事を摂りますので、アルフレッドさん? 私が抜けた分の穴は、あなたが埋めて下さいね?』
にっこり。キクはいつもと変わらない顔で笑ってたけど、アルは半分泣いてるみたいな顔で、オレもちょっぴり涙目だった。
アル、もうアルの部屋で一緒にいられないのか?
そんな気持ちでアルの服をぎゅって掴んだら、アルはオレの身体を軽々抱き上げて、こう言ったんだ。
『アーサーは渡さないぞ』
まっすぐにキクを見るアルの青い目は、かっこよかった。うれしくなって首に抱きついたら、アルはオレを見て少し苦しそうに笑った。
それからも、アルは時々遅くまで働いてることがあるけど、ちゃんと帰ってくるって信じてるから。もう隠れたりしないで待ってるって決めたんだ。
「あっ」
「坊ちゃん、こんなところで何してんの?」
キクと別れてからも迷路みたいな居住区の通路を歩いてたら、今度は正面から、肩まで長い金髪でキクより大きくてアルより小さいヒゲがやってきた。
アルと同じ金色の髪。でもオレは、遠くから見たって二人を間違えたりしない。だってコイツが着てる白衣は、特注っていうらしくて、みんなのと全然ちがうんだ。見た目が派手で色が付いてる。もう白衣じゃない。アルも白衣の中に赤とかオレンジのシャツを着てる時があって、派手だって言われてるけど……アルの方がかっこいいんだからな。
「パトロールだ!」
ぷいっと横を向いて答えても、オレを叱ろうとしないコイツの名前はフランシス。
アルとキクがオレを甘やかしすぎるから、オレがダメな大人になる……なんて言われるけど、一番甘いのはコイツだと思ってる。たまには叱ったりすればいいのに。そうすれば、オレだって――……オレはなんでか、このヒゲにだけは素直になれなかった。
「ふぅん。いいの?」
「なにがだよっ!」
思わせぶりに唇の端を持ち上げるフランシスを、キッと睨む。オレがもしウサギじゃなくてネコだったら、今頃引っかいてるんだからな。それぐらいの勢いで睨んでも、フランシスは気にした風もなく笑うだけで。
フランシスが怒ってるところを、オレはまだ見たことがない。だからオレがダメな大人になったら、フランのせいなんだ。フランって呼ぶと溶けそうな顔で笑うから、たまに呼んでやることにしてる。
ちなみに、さっきアルを呼び出したのはコイツだ。
通信機の向こう側にいたって、オレの耳はごまかせないんだからな。
〈アルフレッド、今ちょっと平気?〉
『ああ、うん、どうしたんだい?』
〈昨日のとこ、うまく行かないんだけど何か心当たりある?〉
『えっ、あー……まって、今行く』
〈言ってくれればこっちで修正しておくよ〉
『いや、すぐ行くよ』
〈でもおまえ今日……〉
『行くからね!』
アルは、誰の力を借りなくても全部ひとりでできなきゃヒーローになれないって言う。だから行かなきゃいけないって。けどヒーローなら、オレとの約束も守れよな。
…………あれ?
フランがここにいるって事は――もしかして。
「今日は早く片付いてね、アルフレッドもさっき終わった筈だから、今頃は部屋に戻ってると思うよ?」
「なっ……!」
「ずいぶん慌ててたみたいだけど……」
「それを早く言えよ! ばかあ!」
オレはすぐに走り出した。「はいはい」なんて肩を竦めるフランシスに背中を向けて、今きた道を急いで戻る。
この道は右、ここはまっすぐ、次は左。
景色はさっきからずっと同じで、白くて所々つぎはぎのある壁に、同じ色の扉がぽつぽつ続いてるだけ。だから油断するとすぐに迷うんだ。急いでる時は、改めてこの迷路みたいな居住区がいやになる。図鑑で見たアリの巣って、きっとこんな感じ。
アリの巣にはたくさんのアリたちが住んでるけど、この研究所に住んでる人は少ないんだ。ホントはもっと仲間がいたけど、少しずつ他に移って行ったってアルが言ってた。アルたちはまだ、ここでやる事があるんだって。今住んでるのは、オレとアルとキクとフランとギルと……やっぱり多いかも。
オレたちも、そのうち引っ越すらしい。この研究所があるのは、オレが生まれた森の中だった。そうしたら、母さんや兄さんたちとも、離れて住むのかな。
そんなことを考えて、あんまり気を付けないで走ってたら。
「わっ!」
急に壁から出てきた誰かとぶつかった。
跳ね返った身体が後ろに傾いて、そのまま床の上に転がる。
「アーサーさん!?」
聞こえたのはキクの声だった。床の上に半分身体を起こして見上げたら、まん丸に見開いた黒い瞳と目が合う。
「大丈夫ですか? どこかに怪我など……」
「平気だっ」
「すみません、私としたことが」
そんなに心配しなくてもいいのに。キクが慌てて手を伸ばしてくれたから、オレは掴まって立ち上がった。ちゃんと、ひとりでだって立てたんだからな。
「キクこそ大丈夫か?」
「ええ、この通り」
オレの手や足に怪我がないか確認してくれたキクが、にっこり笑って言う。オレも後ろを向いて転んだ時にぶつけた背中と尻を見てみたけど、尻尾も元気だ。
キクにもケガがなくてほっとする。
「それより、そんなに急いでどうされたのですか?」
「あっ、そうだアル! 急がないと……! またなキク!」
首を傾げるキクの言葉に、オレは急いでたことを思い出した。
目をぱちぱちさせたキクに手を振って床を蹴る。走り出したオレは、もう振り返らなかった。
早く早く。
アルに「おかえりなさい」って言うんだ。
……それにしても。
とつぜん白い壁が開いて、中から出てきたキク。
あんな場所にも部屋があったのか、他の部屋みたいに扉がないから、今まで気づかなかった。
アルたちの住む研究所は、いつだって不思議がいっぱいだ。
「はあ、はぁ……っ!」
ようやくたどり着いた扉の前。他の扉と形は同じでも、ここだけは特別で。
耳をぴくぴく澄ましたら、中から音がした。きっとアルだ、もう帰ってきてるんだ。
扉の左側にある、黒くて小さな画面に手を伸ばす。長方形を横に倒した形のこれが、部屋の鍵になってるんだ。ここだけじゃない、全部の扉に似たようなのがついてる。機械の扉は、外に行く時は簡単に出してくれるのに、中に入る時はなかなか入れてくれない。前は背伸びしなきゃ届かなかったけど、今は手を伸ばすだけで届くようになった。
人差し指を押し当てるとピピッて高い音がして、画面の右上の赤い丸が緑に変わる。まっ黒だった画面の中に出てくるのは「アーサー」の白い文字。アルがくれた俺の名前。空気が抜けるみたいなパシュッて音と一緒に、扉が開いた。
「アル!」
呼べば顔だけ振り返った広い背中に向かって飛びつく。すぐにアルの腕が伸びて来て、頭をぽんって撫でてくれた。
「アル、おかえりなさい!」
「君もおかえり」
髪を撫でる手に、嬉しくなってぐりぐり頭を押しつけたのに。アルは途中で撫でるのを止めると、ワザとらしくコホンと咳払いを一つした。
「いい子にしてたら、今夜はローストビーフにしようと思ってたんだけどな?」
「オ……オレ、いい子にしてた……っ」
「本当かい?」
ちらっと目だけでオレを見るアルに、必死にうなずき返す。こんなに早いなら、ちゃんと留守番してるんだった。でも、えっと、ひとりで勝手に森まで行ったりしなかったし、ここの平和を守るためにパトロールしてたし、そうだ、アルが脱ぎ散らかしたよそ行きの服も、オレが片付けたんだぞ。
「本当だ! ローストビーフも手伝うから!」
「君が言うなら信じるよ。でも、帰って来たらいなくて吃驚したんだぞ」
「ご、ごめんなさい……」
アルはちゃんと早く帰って来てくれたのに、待ってなかったオレが悪いよな。下を向いたら、アルは大きい手を広げてよしよしって頭を撫でてくれた。
「ううん、俺があまり一緒にいられないから……本当は、いつも傍にいてあげられたらいいんだけど」
寂しかったのはオレなのに、なんだかアルの方が寂しそうな声で。
「アル?」
でもオレが顔を上げた時には、もうアルはいつもの笑顔だった。アルが「アーサー」って呼ぶ時よりも、きゅうって唇の端を持ち上げてにこにこ笑う顔は、いつもオレに元気をくれる。
「よし! ローストビーフ作ろうか!」
「やった!」
「食べ終わったら、ちゃんと薬を飲むんだぞ? 忘れないようにね」
「わかってるって!」
アルはすごく心配性だ。
オレがどんなに「大丈夫だ」って言っても、「君の大丈夫は当てにならない」なんて言ってくる。
オレ、何かしたか?
その日の夜は、ひさしぶりにアルと一緒にベッドに入った。
アルの腕を枕にして、ぴったりくっつく。ここはオレの特等席なんだ。アルの匂いと温度に安心して、身体全部からほっと力が抜ける。
ひとりで寝ると、たまに変な夢を見るから……最近それが増えてきて、ちょっとこわい。
アル、アル。
疲れてるのかな。もう寝てるアルの胸に鼻と額をくっつけてぎゅって服を掴んだら、なんでか涙が出てきた。
アル、アル……明日も明後日も、ずっとずっと、一緒にいられるよな?
オレとアルがはじめて会ってから、二年が経ってた。
戻る