君がいる明日 - off

俺に残った最後の愛と優しさを A R18





 結局あれからもギルベルトは何度か茶々を入れてきて、その度に追求を避けて応対するのは酷く疲れた。
 今夜はそろそろ休むと引き上げたのは夜も更けた頃。 宿になっている酒場の二階、割り当てられた一番手前の部屋は、ベッドが二つと机が一つ置かれた簡素なものだった。
 二人分の酒を入れた身体を、片方のベッドに投げる。
「おい、ドアは閉めろ」
 後に続いて入ってきた相手は、言われた通り扉を閉めるときょろきょろと室内を見渡した後、再び扉に手をかけた。向けられる背中に慌てて声をかける。
「待て、どこへ行く気だ?」
「ちょっと遊びに?」
 肩越しに横目で視線を流して来る悪魔は、ズボンのポケットから小さな長方形の紙を取り出した。ひらひらと遊ばせるそれは、どこかの店の名刺のようで。いつのまに、さっき貰っていたのかと歯噛みする。
「ダメだ」
 一言に力を込めて言ってやるが、気分を害した様子もなくまるで面白がるように不躾な視線が送られて。
 服の布目を縫って肌の上を這うようなそれに、身を引いたのは無意識だ。
「なら、君が相手してくれるのかい?」
「は?」
 ……今、なんて言った?
 見開いた両目の中心に据えたそいつは、たちの悪い冗談だと訂正する様子もなく、俺を見返していた。僅かに身を引いたままの身体が、ベッドの上で固まる。
「可愛い弟の身体が不能になってもいいの?」
 一拍、二拍。怒りに湧いた熱が、かっと勢いよく頬まで昇った。
「てめえ、こんな時だけ……!」
 よくもいけしゃあしゃあとアルフレッドを引き合いに出せるものだ。
「あはは。で、どうする? するの、しないの」
 嘲るような、値踏みするような笑みに、恐怖にも似た気持ちがちりりと胸を焦がした。
 信じられない。何を言ってるのか、分かりたくもないのに、早く、分からなきゃいけなくて。
「じ、自分で、すればいいだろ……俺、その間は部屋出てやるし……」
「病気とか貰って来ちゃうかも」
「ま、待て!」
 視線の先を俺に置きながら、片手でゆっくり扉を開けようとする相手を呼び止めた。
 コイツは、アルフレッドじゃない。まやかしだ。悪魔なんだ。今日一日で何度も繰り返した言葉を自分に言い聞かせる。
 でも、それでも、アルフレッドなんだ。
 深く息を吸って、ゆっくりと吐き出した。
 鼻腔に感じるアルコールの香り。
 ああそうだな、今なら酒の勢いだって借りられる。
 アルフレッドの為なら何だって、どんな事だってやってやると。禁忌に手を染める時、俺はそう決めたじゃないか。
「──いいぜ、やってやるよ……ただし、他の人間には手を出すな」
「約束するよ」
 ようやく扉から離れた手にほっとする俺を、バカにするようにせせら笑う自分の幻影。放って置いてくれと一蹴して、覚悟を決める。
「そこ座れ」
 椅子を指して言うと、存外素直に腰を下ろした。
 躊躇う足を進ませて、鈍い痛みを訴える胸は無視をして、震える唇を引き結ぶ。ゆっくりと近付いて、膝頭に手を置いた。邪魔だと言葉で告げる代わりに、大きく左右へ開かせて、足の間に膝をつく。
 鼻先だって寄せられる位置にある下衣の膨らみ。こんなに間近で見た事があっただろうか。
 なるべく意識しないように指を伸ばして、触れて、躊躇いながらズボンの前を開いた。
「……っ……」
 こんな、まだ布越しで、俺に触れられたぐらいじゃそそりもしないだろうに増した気がする体積に、泣きたくなる。『アーサー、俺、』聞こえた声は、過去がみせる幻だ。頭を振り、意を決してズボンの前を寛げる。
 窮屈そうなそこから恐る恐る取り出した熱量を。親指と人差し指で輪を作るように握り込み、そのまま手の平全体を添えて包んだ。ぎこちなく力加減を調節しながら上下に砲身を扱く。
 別に、成長したアルフレッドのだって、今まで見た事がない訳じゃない。ただ、こういう状態のものを目にするのは、当然初めてだった。
 ──俺より、でかい。
 くそ、なにも、考えるな。
 最初はおっかなびっくり触れていたのが、手の中で素直に上向く様子に少し気を良くする。自分でする時をなぞりながら輪を狭め、先端から溢れる先走りの蜜を時折掬っては塗り付けて速度を上げた。
「んっ……、ッく……」
 頭上から降る声に耳を塞ぐには、手が足りない。
 さほど苦もなく高める事に成功したのは、身体が若いからだろうか。欲を膨らす袋を反対の手で転がし、先端を刺激してやろうとほんの少し人差し指の腹で撫でてやった時だった。呆気なく、唐突に白濁を吐いたのは。
「──ッ!」
 驚いて反応が遅れ、思い切り顔に被った。慌てて両手を傘のように被せるも、どろりとした粘液は瞼を滑り、鼻筋を伝って唇の上まで垂れてくる。
「んぷっ、テメエ……っ!」
 何しやがる。目に入らないよう片目を伏せて、手の中に受け止める熱。ぬるついた白濁が、手のひらに当たって床へ落ち、どろりと手首を伝う。
 顔を流れる他人の精液が気持ち悪くて、服で拭おうと首を下げたら伸びてきた指に阻まれた。頬に付着した体液を、肌の上へ伸ばすように撫でる指先。遠慮なく唇に触れて尚止まらない動きに意図を察した時は既に遅く、人差し指と中指を口の中へ突っ込まれていた。舌に広がる知らない味。頭の上で何か言った声が聞こえなかったが、どうせ碌なものじゃないだろう。
「んやっ! やめろバカっ!」
 睨み上げた視線の先で、目が、合ってしまった。
 興奮状態を隠しもしない相貌に薄い笑みを乗せて、ランプの仄明かりが映り込んだ空の色。瞳の奥で欲望が渦を巻いている。
「ねえ、まだ足りないんだけど」
「……っ!」
 さっきまでの、少し得意気になった気持ちなんか、もうどこにもない。恐怖を溶いた焦りに引いた腰が充分な距離を取る前に、背中の後ろで組まれた脚に捕らわれる。
 指で舌を引っ張り出されて、ぬるぬると触られるのが苦しくて自分から顔を近付けた。
「ンぅっ……ッふ」
 足の間に顔を埋めると、早くも角度を持ち始めている濡れた熱が鼻梁に触れて。すぐに口元へ擦り付けられる先端は、予想出来ていた事だった。やるしかない、のか。
 引っ張られたままの舌を自分の意思で動かして、側面でぬるりと屹立を撫でる。やっと離された指に、じんと痺れる舌を一度口の中へ戻して。唾液で濡らしてから、そっと伸ばした。ぺちゃり、触れて。手を添えて。恐る恐る、先端を口に含み込んで行く。
「君の口の中、あっつい……」
 それは酒の所為だ。言葉は当然声にならない。
 それ以上、目を、鼓膜に届く言葉と連動して動く唇を、見たくなくて強く瞼を下ろした。
 咥内に溜まるばかりの唾液を、掻き混ぜられて軽くえずく。唾液と精液が混ざり合う耳障りな水音が響く。
 ここまでするなんて、聞いてない。最初から知っていたら、知っていたら……俺はどうしただろう。
「アーサー」
 名前を呼ばれて、濡れた指に瞼を擦られた。
 ──アルフレッドの声で、俺の名前を口にするな……胸の内だけで吐露した願いを踏みにじって尚、有り余る酷い言葉が降る。
「目、開けて。俺を見ながらしてよ」
「……ッ!」
 びくりと肩が震えて、弱々しく左右に首を振りながら焦ったように舌を這わせた。添えた手も動かして、でも、ダメだったみたいで。
「弟が甘えてるのに、聞いてくれないんだ」
「うンっ!」
 背中に当たるふくらはぎに引き寄せられて、体勢が前のめりになる。弱々しく振った首が左右か上下かも分からないまま、次に降って来る言葉が怖くて、結局俺は自分から瞼を開けた。
 すぐに涙で滲んだ視界の先に、弟だった男の姿を捉えて。後はただ、何も考えるなと自分に言い聞かせ続けた。
「んッ、ンぅ……」
「くっ……」
 二度目の吐精は、一度目よりも時間がかかって。手の中で膨れた兆しに急いで離れようとしたのに、頭に添えられた手に邪魔をされた。
 喉の奥で受け止める熱に、震えながら息を止めて。さっきは余裕がなくて頭に入って来なかった、欲を吐く声が。今度はしっかり鼓膜を震わせて脳にまで届く。
 低い、熱を孕んだ男の声。知りたくなんかなかった。
「っは……」
 満足したんだろう、そのまま動く気配を見せない頭の後ろの手を払い退けて、零さないよう口を窄めながら萎えた性器から顔を離す。俯いて、ずるりと抜け出たそれをなるべく視界に入れないように取り出したハンカチ。 広げた布地に口の中のものを吐き出して、ひっくり返して畳んだ裏地を使って、結局視界の真ん中に据えてしまったくたりと萎えた竿を綺麗に拭った。
 ずっと開けっ放しで酷使した顎が、ジンと痺れるように痛い。
「……ごほっ」
 口の中が粘着いて気持ち悪かった。涙が出そうなくらい。
 立ち上がり、ふらつく足を、弱味は見せまいと力強く踏み出して部屋の出入り口に向かう。
「先に寝てろ」
 言葉は吐き捨てて廊下へ出た。君は? そんな問いかけが聞こえたような気がするが、そんなの知るか。
 扉を閉めて、壁に手を着きながら階下を目指す。明かりを落としてシンと静まり返った宿、辺りに人の気配はない。
 一歩、二歩、まるで怯えて逃げるようなつたない足取りはすぐに止まって、胃の中から込み上げるものを手で押さえ付けたら鼻につく匂いで余計に吐き気を催した。
「っぐ……」
 堪えた代わりのように流れる涙。荒れ狂う胸中の衝動を、ただただ一言に込めて呟いた。
「……アル……っ」
 今更のように襲い来る背徳感に、ガタガタと震える身体を抱き締める。
 こんな事になってしまって。アルフレッド。
 増えて行くばかりの罪を、俺はどう償えばいい。
 今、この瞬間も、人として赦されざる罪を犯している。

 すぐ戻る気にはなれなくて、暫く水場でぼんやりしてから重い足取りで開けた扉の先。
「──……」
 朝の微かな光が窓から差し込む中、しんと静まり返った空間にほっと息を吐く。
 二つ並んだベッドの片方に大人しく潜る金の頭を確認してから、俺ももう一方のベッドへ潜り込んだ。



 そうして泥のように眠りに就いて、翌朝。
 起きたのは俺の方が早かった。
 どうやら廊下を行き交う物音と人の気配に目が覚めたらしい。
「おい、起きろ」
 丸く膨らんだ山を作る毛布に声をかけながら、マントのリボンを顎の下で結ぶ。黒の皮手袋を填め終えても動かない山に、両手で毛布を引っ剥がした。
 アルフレッドはここまで朝が弱くなかったような気がする。悪魔はみんな低血圧なのか?
「いつまで寝てんだ」
「んん、眠いよ……アーサー」
「……甘えた声出してんじゃねえ。早く準備し──」
 眠たげに目を擦る塊にぎょっと目を見開く。
「お、おい!」
「ん?」
 毛布の中から出て来たのは、夜の空より深い闇色の髪の毛だった。重力に従ってさらりと流れる毛先。瞼の奥から現れた同じ色の瞳と目が合って、金縛りが解けた所で部屋の扉がノックされた。
「朝食を持って来た、開けても構わないだろうか」
「まっ、待て!」
 首根っこを掴んでガクガク揺さぶりながら、自分の頭を指差して唇の動きで伝える。
 おい! てめえ! 髪! 頭! あと目! なんとかしろ!
 翼こそ生えていないし魔力の気配もないが、昨日との違いは明らかだ。
「……うん?」
 だというのに、未だ目を擦っている悪魔に覚醒の様子はない。
「おーいルッツ、まだ終わらねえのか?」
「ああ、兄さん。待てと言うものだから……」
 扉の外から聞こえる会話にぎくりと肩が強張る。
 大丈夫、だよな。こっちは金を払って泊まっている客人だ。
「ばっか、後がつかえてるんだっつの! 開けんぞ!」
「だあぁぁぁぁあ!」
 面倒臭いヤツが来やがったと構えていられたのは僅かの時間で、無遠慮に開扉を告げる蝶番の音。
「……何やってんだ?」
 間一髪、一度は剥がした毛布ごとベッドにダイブした俺は、二人の視界から目の前の異常を隠す事に成功した。
「なんでもねえよ!」
 毛布の中に手を入れて、鷲掴むように触れた髪。
 人化に足りていない魔力を補うべく、少しずつ、少しずつ、手の平から熱を移すようにゆっくりと触れる範囲を広げて行く。
「なんだい煩いなぁ……もう朝なのかい?」
 布団の下からもそもそと這い出た姿は、俺が愛するアルフレッドのものだった。


◇ ◇ ◇


 人の気配もまばらな朝の風景を、街の出入り口に向かって歩く。
 食事を摂って少しは目が覚めたのか、後ろを付いてくる足取りは、欠伸こそしているもののしっかりとしていた。
 目的地は、街の中を通る何本もの道筋を集約した出入り口付近の広場。ぐるりと見渡せば、街から街へと荷や人を運ぶ馬車と人とが賑やかな活気を作っていた。
「おい、はぐれるなよ」
「はいはい」
 ざっと辺りを見繕い、数ある馬車の中から積み荷の少ない幌馬車を選んで近付く。
「ちょっといいか」
 声を掛けると手を止めて振り返ったのは、軽装の短い袖から日に焼けた肌を覗かせて癖毛の茶髪を風に遊ばせる男だった。
「この馬車はどこへ向かう?」
「北の街までや。なんやお客さんかいな」
「途中まで乗せてくれないか。もちろん金は払う」
「乗るって自分らが?」
「ああ」
 出来る限り余所行きの笑みを作って言えば、御者の男はそれならと後方を振り返って指を差した。
 大きな馬車と人だかりが見える。
「それやったら、ほれ。あそこにおる、赤い服着た王の馬車が同じ街まで人運んどるで」
「いや、人混みは苦手なんだ」
「せやけど、この馬車は積荷用やから乗り心地めっちゃ悪いっちゅーか……」
「構わない。途中まででいいんだ」
 人混みが苦手なのは本当だが、それよりも危険視しなければいけない連れがいる事が問題だ。
 斜め後ろに立つ相手を見上げれば、どこ吹く風と言った態度で辺りを見回している。
 今は比較的大人しくしているが、油断をすれば何をしでかすか……。
 何人もの人間とコイツを同じ馬車に乗せる訳にはいかない。
「んー……そない言うならええで。元々荷もそんなあらへんし、丁度話し相手が欲しい思っとってん」
「すまない、助かる」
「ええてええて、困った時はお互い様や」
 からりと笑う御者の男は、荷積みの作業に戻るつもりか振り返る間際、真顔を作って続けざまにこう言った。
「ただし、奥の荷には触らんといてな」
 見れば幌の屋根で覆われた木製の荷台の奥には、布で包まれた小さな四角いものが置いてあった。他の荷物とは明らかに違う、何か個人的に寄せる思いがあると分かるもの。
 俺達を乗せるのを少し渋っていたのも、盗人を警戒しての事かもしれない。わざわざ小さな荷馬車を選んだのは確かに怪しんでしかるべきかもしれないが、その荷馬車に金を出してまで乗る盗人もいないだろう。
 俺は男の緑の目を見て頷いた。
「承知した。──おい、お前も聞いてたか」
「ん?」
 振り返り、街行く人間を眺めていた服を掴んで注意を引く。
「お前だ、お前。ちゃんと聞いてたのか、あれには触るなだとよ」
 荷台の先を指し、一歩踏み出しながらそう念を押した所で、突然馬が暴れ出した。持ち上げていた積み荷を下ろした御者が、慌てた様子で馬の傍へと駆け寄る。
「ちょお、どないしたん? ……なんや怯えとるみたいや、普段は気の強いヤツなんやけど」
 どうどうと馬の首筋の辺りを撫でてやっている御者の男は、そう言って困り顔で笑った。
 ──まさか、何かしたんじゃないだろうな。
 ちらと見やった隣の男は、素知らぬ顔で今度は空を飛ぶ鳥なんか見上げている。
「奥の荷以外なら触れても構わないなら、荷の整理を手伝うぞ」
「悪いなあ、めっちゃ助かるわ」
 途中だった荷の整理を手伝い、幌の屋根で覆われた木製の荷台へと箱や樽を積み込んだ。
 率先して荷台の上での作業を引き受け、ついでに自分達が乗る場所の確保も忘れない。
「おい、それをこっちに寄越せ」
 額に浮いた汗を拭い、手前の樽を指す。
「これかい?」
「ああ……ってうおッ!」
 涼しい顔をした男が持ち上げて手渡すそれを受け取ると、大きさの割に重い樽に腰から上がガクリと下がった。
 たぷんと揺れる中身は水か酒か、なんとか落とさずに体勢を立て直して口端を引き攣らせる。
 随分軽々と手渡されたように感じたが、気の所為だったか。ちらと見やれば、そんな俺を不思議がるように首を傾げる相手。沸くのは当然対抗心だ。
「おっ……も、くねえ、重くねえよこれぐらい!」
 ぐっと両足で踏み留まって一息に積み込む。
 ふと、アルフレッドに重い荷物を運ばせた事なんてなかったと思い出した。
 ──アルフレッド……。
 ずきりと痛む胸に気付かない振りをして、ただ黙って作業を続けた。
「おおきに! 助かったわ。俺はアントーニョ。アントーニョ・ヘルナンデス・カリエド。二人は兄弟かなんかか?」
「ああ……俺はアーサー。こっちは……──弟の、アルフレッドだ」
「アルフレッドだぞ、よろしく」
 口端の片方を上げた得意気な目配せには気付かない振りをして、俺はさっさと荷台に乗り込んだ。



 昔は他と同じく草が茂っていたのが、馬車や人に踏みならされて地面が剥き出しになった平坦な道程。小気味良い蹄の音と頬を撫でる乾いた風に大きく息を吐き出すと、ああ、あの森を出たんだなと改めて実感する。
 アルフレッドと二人、骨を埋めるつもりでさえいた筈なのに。終わるのは、いつだってあっけないぐらい一瞬だ。
「途中までなんて言わんと、街まで送ってくで?」
「いや、構わない」
「……もしかして自分ら、森を抜ける気なん?」
「ああ、急いでるんだ」
 ガタガタと響く振動を尻に感じながら小さく座って後ろの木箱に背中を預ける。大人しく隣に座っている悪魔が欠伸をするのを横目で見ながら、俺は御者が投げる言葉にぽつりぽつりと返していた。
「人がぎょうさんおるとこ通ってかんと、魔を引き付けてもうて危ないで」
「どこにいたって同じさ」
「んなことあるかいな」
 眉間を潜める姿に肩を竦める。
「心配しなくても腕は立つつもりだ。寝覚めの悪い思いはさせねえよ」
 魔ならもう連れて歩いてるしな、とは当然言う必要のない言葉。それに腕が立つのは本当だ。
「ならええけど」
 まだ納得していない様子の男に、話を変えようと後ろの荷を指した。
「それより、よくこんな少ない荷で仕事が成り立つな」
「あー、本業はちゃうねん。さっきの街で仕入れとる薬を買うついでに荷物も運んでんのや」
「薬?」
「これや、これ」
 御者が振り向きながら親指で差したのは、さっき触るなと言い含められた包みだった。
「俺にもな、弟やないけど可愛がっとる子分がおって、あの街の魔法道具屋の薬が一番よお効くんや」
「そうか……なら、次からは別の店を探した方がいい」
「なんでや」
 訝しむ緑の目から視線を逸らす。
「あの店に薬を卸していた魔術師は引っ越したと聞く」
「ほんまかいな! あのおっちゃん何も言ってへんかったで」
「残念ながら確かな情報筋だ」
 はっきり言い切ると、御者は片手を手綱から離して頭を抱えた。
「あかーんっ! 今すぐ戻って買うた方がええやろか」
「いや……待て」
 伸ばす手に躊躇いはなかった。もう、必要のないものだ。それに、今から街に戻ったら日が暮れてしまう。
 家から少ない荷物を纏めて出て来た袋の中を探り、取り出した薬を男の目線の高さに掲げた。
「──それ……ええんか、安いもんやないやろ。誰か病気なん?」
「ああ……弟がな」
「弟? 弟って、そこにおるやつか?」
「ああ。長く臥せっていたが……治ったんだ」
 御者の視線の先、横にいる男を見る。ずいぶん大人しいと思っていたら、どうやら眠いのかいいタイミングで人目もはばからない大きな欠伸をしてくれた。思わず肘で小突く。眠りを誘う揺り篭とは訳が違う、悪魔ってのは随分と神経が太いらしい。
「人は見かけに寄らんなあ、どっちかゆうたら自分の方がベッドの上が似合いそうやで」
 けらけらと笑って言う言葉には全面同意で頷いた。
「よく言われる」
「臥せってたって、普段は何して過ごしてたん?」
「そうだな……少し前までは、よく本を読んでいた」
「本なあ、あいつも読むやろか……。代われるもんなら代わったりたいわ」
「そうだな……俺も、ずっとそう思っていた」
「しけた声だしなや、治ったんならええやないの」
「ああ」
 前に向き直って鞭を振る御者。
 ふと横を向けば、手で覆いもせずに大口を開けて長い欠伸をする相手に自然と眉根が寄った。
「おい……さっきから何度目だ。しゃんとしろ、だらしねえ」
「んー?」
「ったく……しょうがねぇな」
 眠たげに目を擦る姿に俺の知るアルフレッドの面影が重なって、心臓がひとつ跳ねた。それを誤魔化すように急いでマントを脱ぐと、丸くなった背中に投げてやる。
「──……っ……」
 その時、気の所為だろうか……金の髪からじわりと染み出るような黒が、見えたような。
 さっきとは別の意味で胸を叩く心音を落ち着ける間も惜しみ、瞬きをして目を凝らす。
 黒い液体を垂らしたようにそこからじわりと滲み広がろうとする色が、確かに、見えた。
「っ……お、起きろっ、寝てんじゃねえっ」
 小声で呼びかけながらちらと見やった御者は、幸いにも今は前を向いている。ひとまずはほっとしながら、バクバク煩い心臓よりも早く揺さぶった。
「目ぇ覚ませっ、この……っ」
「んー……」
「お、おい!」
 ぐらりと傾いた身体。反対側に倒れる前に引き寄せると、肩に凭れて重みがかかった。
「ふざけんじゃねえぞっ、夜行性かよっ」
「仲ええ兄弟やんなぁ」
 声を潜めて小突いていると、流石に気がついたのか御者が笑いながら横目で視線を向けて来る。
「いや、これは……」
 視界から隠すように両手で頭を抱き込んで、さっき投げたマントを広げながら手繰り寄せた。
「自分ら見とったら早よ帰りたなって来たわ」
「ああ……早く帰って、傍にいてやるといい」
「──なあ、病気の弟と接するってどないするのがええん? 時々な、たまらなくなるんや」
「っ……」
 自分でもよく分からない何事かを言いかけた口が、ひくりと引き攣った。作った笑みはひどく苦々しいもので、それでもなんとか唇を動かす。
「……あまり、家の中にばかり閉じ込めないで……話はよく聞いて、自由を、感じさせてやればいい。俺達がどんなに不自由をさせないようにと思っても、本当の望みは、本人にしか分からない」
 乾いた舌の上を滑る言葉をどうにか返した。
 歪な笑みはとてもじゃないが見せられなくて、顔を伏せれば映るのは、腕の中にいるアルフレッドの寝顔。
 違う、アルフレッドじゃ、ないのに。
 それでも傍らの身体は、温もりこそ違えどアルフレッドに違いなくて。
「せやな……」
 視線を上げて確かめた御者は既に前を向いていた。
 遠くを見つめるように静かな声。「次の休みは……」そう話し始めた御者は、きっともう俺の返事を期待しちゃいない。
 そっと視線を落とす。伏せられた瞼に開く気配はない。
「──……ある、あるふれっど……」
 密やかにその名を呼んで。
 今だけ、今だけだからと自分に言い聞かせ、胸に抱えた頭。微かに震える両腕で包み込んで、そっと額を擦り合わせた。
 零れた涙の意味さえ、きっと罪なんだろう。



「──起きろ。おい、おい」
「ん……もう着いたのかい?」
「とっくにな」
 揺さぶっていた身体が身じろいで、凭れていた木箱からゆっくりと背を起こす。
「くそ、ぐうすか寝やがって……」
 先に幌の外へ出ると、太陽は真昼の位置から少し傾きかけていた。
「ほんまに、ここでええんか?」
「ああ、世話になったな」
 馬上から声をかける御者に頷き返し、でかい図体をマントで隠すようにして荷台から引きずり下ろす。恐る恐る布地の下から見た髪は、今は金に染まっていた。
「ほなな。街に寄った時は顔出してやー」
 鞭を振るって馬を走らせる馬車を見送り、袋の中から地図を取り出しながら舌を打つ。
「ったく……てめえ、ふざけんじゃねーぞ」
 北の街へと向かう街道を外れた左手側に、鬱蒼と広がる森。目的地へはここを突っ切る方が早い。
「何の話だい?」
「もういい。この森をまっすぐ西へ向かう」
「はいはい」
 何より、人目に触れる心配が著しく減る。
 例え何が起っても、誰にも知られずに済む。
「ついてこい」
 大きな伸びをして後に続く相手を何度も振り返って確認しながら、草木を分け入って森の中を進む。
 早く、日が暮れる前にと気ばかり急いていた所為か、早足で歩いていると蔓に躓いて足が縺れた。
 前につんのめった身体を咄嗟に近くの木に手を付いて支える。背後から、呑気な声が聞こえた。
「連れて行ってあげようか」
「は?」
「飛べばすぐだろう?」
 ばさりと、風を切るような、布地よりも重い質量を伴った音に続いて背筋が粟立つ魔の気配。振り返れば、大きく翼を広げた黒い悪魔の姿が目に入った。
「や、やめろっ!」
 ふわりと宙に浮く足元に、身体の芯まで冷える思いを奮い立たせて飛び付く。
「バレたらどうする気だ……!」
 悪魔に取り憑かれているのだと。
 あるいは、悪魔そのものであるなどと思われた日には。
 顔が知れ渡り、追われ、迫害されたりしたら。
 その身体が、一体誰のものだと思っているのか。
 アルフレッドが、アルフレッドが、人の里で暮らせなくなったらどうしてくれる。
 震えて滲む視界の先で、黒の髪がじわりと金に戻った。
「はあ……分かったよ」
 そのまま元の、アルフレッドに酷似した容姿になった悪魔は、背を向けてどこかへ行こうとして。服を掴んだままの手がくんと引っ張られた。
「ど、どこに行く気だ」
「用を足すにも君の許可がいるのかい? それとも見たい? 昨日散々近くで見たと思うけど」
「なっ……!」
「君の目の前でして欲しかった?」
 愉しそうに笑う声、笑う顔。アルフレッド。
 違う、こんなの知らない。アルフレッドじゃない。
 俺の弟はこんな顔をしない、こんな事を言わない。
 掴んでいたままの手を取られそうになり、慌てて振り解いた。
「い、いいっ! 早く行って来い!」
「あははっ」
 笑みを残して遠ざかる背中。ガサガサと草を掻き分ける音が遠のいて行く。アルフレッド。無意識に一歩踏み出した足を思い留めた。
 ひとり残された空間を、ざあと風が通り過ぎる。
 ──魔術は、成功した筈だったんだ。
 生命の灯火が消えた身体から抜け出た魂と、未だ細い糸で繋がっていた空っぽの肉体。そのふたつを依り代に悪魔を喚び寄せて肉体に新しい命を吹き込み、悪魔の魂だけを弾いてゆっくりと糸を手繰り寄せる筈だった。降霊術と召喚術の応用。成功した筈だった。
 確かな手応えを感じていたし、俺はあの時、間違いなくアルフレッドの声を聞いたんだ。
 けれども現実は、悪魔の存在ばかりを否応なく突きつけてくる。
 失敗したのか。悪魔の爪痕だけを残して。
 魔術師が決して犯してはならない禁忌のうち、群を抜いて危険な術。呪いにも似たこんな邪法、成功していたところでアルフレッドは喜ばなかったかもしれない。
 それでも。
 アルフレッド。どうしても、俺はお前を諦めきれない。
 お前は俺の生きる意味、そのものだったんだ──




戻る
 
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -