君がいる明日 - off

俺に残った最後の愛と優しさを @




 ひゅーひゅーと、喉に穴でも空いているような呼吸が漏れる。そんな訳ある筈ないのに、酸素が途中で漏れて、肺まで、脳まで、届いてないんじゃないかなんて。
 いつもは心地良い森の澄んだ空気も、今だけは俺に安らぎのひとかけらも与えてくれやしない。

「はッ……はぁ……っ!」
 必死に呼吸を整えようとして、でもダメで、息苦しさにブレる視界を懸命に凝らす。
 そこには、何度見ても変わらない現実が横たわっていた。
「あ、あぁ、あああ……っ」
 意味を成さない音が自分の喉から漏れている。心臓が、音を立てて暴れている。
「……ァ、……っあ……ッ」
 ──ここは、どこだ。
 傷のひとつひとつが思い出深い床板。窓が少なく、光源から離れるとどこか薄暗かった木目の壁面。少しずつ追い付かれ、いつの間にか追い越された身長を刻んだ太い柱。時折雨漏りのする屋根を、そろそろ修理しないとな、なんて話したのは昨日の事だった。間取りも何もあったもんじゃない簡素で素朴な、けれどいつだって相手の存在を感じられる、そんな俺たちの家。
 机の上には、今朝採って来たばかりの新鮮な果物が、カゴいっぱいに置かれている。この家で一番日当たりのいい、外が見える場所にあるベッドの傍ではカーテンが風に揺れていて、毛布は乱雑に捲られたまま。皺の寄ったシーツは触れたら多分、まだ人の温もりを残している筈で。
 その全てを視界のどこか遠くで捉えながら、ただひとりに手を伸ばした。
 視界を凝らすまでもなく、受け入れがたい現実はひとつしかない。
 この家を俺の居場所たらしめる最も重要で、大切な。
「アル、ア……アルフレッド……っ、そんな嘘だろ……っああ──ッ!」
 ガタガタとみっともないほど震える指で触れた、服越しの身体。ぺたぺたと指先で確かめながら辿り、赤みを失った頬を汚す土を払う。
「っ……!」
 ひやりと肌触りさえ硬く感じる温度に、吐き出す筈だった息を呑んで咄嗟に手を引いた。
 目から止まない雫がボロボロとこぼれ落ちる。
 ぽたり、水が跳ねたアルフレッドの顔はまるで眠っているようで、また新しい涙が溢れた。
 汗みずくになった服が身体に張り付いて、ひどく寒気がする。くらくらと頭が傾くような目眩まで。
 息が、息が、いきが、できなくなりそうだ。
 どうやってアルを連れて、ここまで戻って来たのか分からない。
 ただ、どうしたってこのまま何もしないでなんかいられなくて、耐えられなくて、理性なんてとっくにどっか行っちまって、禁忌と知りつつ手を伸ばした時、既に覚悟は出来ていた。
 愛用している呪具の入った袋から、石灰の粉末を魔力で練り固めて作った白墨を取り出す。
「大丈夫だ、大丈夫……俺なら」
 引き攣る喉から絞り出した声はまるで自分に言い聞かせているようで。その声に、自分で応える。
 ああそうだ。出来る、俺なら出来るさ。
 やってやる、絶対に。
 俺以外の、誰がアルを助けてやれるって言うんだ。
 止める声も、今はもうない。
 静寂の中で聞こえるのは、周囲に広がる深い森のささやきと、荒い呼吸を繰り返す嗚咽だけ。
 擦り剥いた膝は痛みを訴えていたが、構わず這い蹲って、床へ魔法陣を描いて行く。手が震えないよう力を込めた所為で折れて砕ける白墨を、惜しいとは少しも思わなかった。

 ──この手段を用いる事を、今まで一度も考えた事がないと言えば嘘になる。
 それでも。俺は、俺はちゃんと現実を受け入れる気でいたんだ。神に与えられた抗えない運命を。
 こんな事にさえならなければ。
 受け入れるつもりでいたんだ。
 それなのに──
 一度覚悟を決めてしまえば、最初から俺はこうするつもりだったのかもしれないとさえ思えてくる。
 許せない、許せない許せない、許せる訳がない。どうしても。
 喩え悪魔に魂を売ってでも、こんな結末、受け入れられる筈がなかった。
 こいつの最期が、こんなものであっていい筈がない。
 アルフレッド、どうか俺を恨んで、そして生きてくれ。

 ──手順は、完璧だった筈なんだ。

「    、     」

 アルフレッドの、声が、声が、声が。
 優しい声が、聞こえた気がした。




   1



 大きな爆発音と爆風と、どちらが先にこの身を襲っただろう。吹き飛ばされた身体と鼓膜が破れるような痛み。
「ぐっ……!」
 大きな岩に当たって止まった身体が地に落ちて、打った背中の衝撃にゲホ、と息を吐いた。
 地面に手をついて、痛む身体を必死に起こす。
「う、うぅ……」
 揺れる視界の焦点を幾度かの瞬きで合わせて、もはや家の形を成していない瓦礫の下、さっき描いた魔法陣の中央に、アルフレッドの姿を探した。
 もうもうと立ち込める砂煙、もっと近付かなければと爪を立てて這う。
「っ……アル……ッ!」
 名前を呼んで、痛みに呻いて、引きずる身体が近づくにつれて少しずつ晴れていく砂煙。
 目の前で、ゆらりと立ち上がる影が見えた。
 その瞬間、ほうと力の抜けかけた肩が、嫌な予感と共に再び強張る。
 強い耳鳴りがして、心臓が、軋むような音を立てた。
「ア、アルフレッド……だよな……?」
 立ち上がった影は、黒い、大きな翼を広げて風を起こした。視界を閉ざしていた砂煙が、瞬く間に晴れて行く。
 反射的に腕を翳して目を瞑った。
 そうして次に目を開けた時、視界を塞ぐものは何もなくて。一際目を引いたのは。
「あ、あぁ……」
 全身が、嘘だと、喉が裂け血の滲むような痛みを伴った思いで叫んでいた。この時胸に染みた絶望がいかほどか、きっと誰にも分からない。
 きょろきょろと辺りを見回していた黒い双つの瞳が、俺を見つけた途端ひたりと視線を合わせて、距離を寄せた。細い金の虹彩に囲まれた黒々とした瞳孔がきゅうと収縮して焦点を絞るのが見える。
 ぶるぶると、握った拳が震えた。
「あるふれっど≠サれが俺の名前?」
「ちがう!」
 飄々とした声に、アルフレッドの声に、喉が灼けるほど痛む声量で叫ぶ。
「その身体から出て行け……ッ!」
 一瞬の判断で臨戦態勢に転じた身体が這い蹲る地面に膝を立たせ、手の平に魔力を集中させた。
 空気と摩擦してパチパチと弾けるような音が鳴る。手の中に生まれた風のうねりを捕まえようとして、指の間からすり抜けられた。何度も、何度試しても。
 ──うまく、いかない。
 さっき、魔力のほとんどを使っちまったから。
 アルフレッドの形をした悪魔は、ひょいと肩を竦めて首を傾斜させた。
 黒々とした髪から生えている、先端に向かって渦を巻く尖った角が、一緒に揺れて角度を変える。耳殻の上の位置から生えたそれは、まっとうな人間が持つものじゃない。
「喚んだのは君じゃないか」
「ちがうっ!」
 嗄れた声が途中でつかえ、激しく咳き込んだ。
 違う、俺は、俺がしたかったのは。
「……まあいいや。それより俺、探しものをしてるんだけど──」
 俺の傍まで来た悪魔は、宙に浮いたまま腰を曲げて、地べたに這いつくばる俺を見下ろした。
 伸ばされる指先には細く尖った爪が伸び、本能的な恐怖に背筋が泡立つ。
「その前に、ちょっと味見しておこうかな」
「なにを……」
 爪が食い込んで血の滲む拳を地面に立てて、全身の憎悪をそこへ集めるように、睨んだ。
 少しも怯む様子を見せない悪魔は、ひやりと冷たい指先で俺の頬をひと撫でした後、金の虹彩を細めて薄く笑う。
「君の、魂」
「──っんぅ……ッ!?」
 アルフレッドの瞳は、晴れた空の青だった。
 アルフレッドの髪は、綺麗に光る金の色だった。
 アルフレッドの指は、いつだって俺より温かかった。
 アルフレッドの笑みは、俺にとって太陽そのものだった。
 アルフレッドの脣を自分の同じ場所で受け止める感触を、俺は知らなかった。




「行くぞ」
 吐き捨てるように言って歩き出す。
「どこに?」
 返ってきた言葉は、実に捕らえ所のない、暢気なものだった。
「いいから行くんだよ、ここにいても……仕方ないだろ」
「ここに、いいものは何もないのかい?」
 視線だけで振り返った家は、俺とアルフレッドが暮らした家は、魔術が発動した影響で崩れ、とても暮らして行ける状態じゃない。そんな事、見れば分かるだろうがと睨み据えれば、悪魔は肩を竦めて背中の翼を羽ばたかせた。
 瓦礫の上に立っていたアルフレッドの身体が、ふわりと宙に浮かぶ。
 もう二度と戻って来る事のないだろう壊れた家を見ていると、この僅かな時間で全てを失ってしまった空洞が実感となって胸中を軋ませ、魔術を行使した影響の残る手の甲がじんと痺れた。
 背負った鞄に詰めたのは、捨てては置けない呪具と、必要最低限な僅かな物。
 元々、大事な物なんて多くはなかった。
 瞼の裏に焼き付けるようゆっくりと目を伏せて、再び歩き出す。同じ速度で揺らめく影がふらりと離れる気配に、舌打ちを堪えて横目を流した。
「おい、ちゃんと付いてこい。あとその羽根、なんとかならねぇのかよ」
 バサ、とご立派な翼を羽ばたかせて空中に浮かんだまま止まるアルフレッドの身体。黒い髪、黒い翼と黒い角、黒い瞳の、アルフレッドの身体。
 目の奥が熱くなって、慌てて視線を逸らした。
「いいよ」
 短い返事を返した相手が、浮遊した身体を地面に下ろして足を着ける。風が、不自然に揺らいだ。
「そのお願い、聞いてあげる」
 視界の隅に捉えた姿。その髪が、まるで夜半に明かりを灯して偽りの昼をつくるように、零したインクを吸い上げる魔術のように、色を違えて行く。
「……ッ……あぁ……」
 俺の喉から漏れた声は、呻きともつかない微かなものだった。
 じわり、じわりと黒が金に取って代わり、なるべく逸らしていた筈の視線は釘付で、目が、離せない。
 霞のように空気に溶けて消えた翼。開いた瞼の奥から現れたのは、泣きたくなるほど覚えのある空の色。金の睫毛が瞬いて、近づいて来る。
「──ひッ、っあ……うぁっ!」
 二歩、三歩、後ろに下がると木の根に躓いて尻餅を着いた。
 俺に向かって伸ばされる腕が目の前に迫る。さっきまではまるで凶器のようだった爪は、赤子にだって触れられるほど綺麗に丸みを帯びていた。
 ひどい耳鳴りから掬い上げるように鼓膜を擽る声。
「これで満足かい?」
「あ……ァ……ッ」
 顎を取られて見上げる姿は、紛れもない。
 生い茂った枝葉の空隙から差し込む光に照らされて輝く金の髪、限りない自由を映した空色の瞳、撓む口唇に笑みを刷く、それは確かに俺の知るアルフレッドの造形だった。




 黙々と足を急がせ、後ろの相手がきちんとついて来ているか気を配りながら到着した街。辺りは昼に来る時とは姿を違え、宵の色を滲ませていた。明かりはぽつりぽつりと疎らに灯り、通りに連なる店は客引きで賑わう時分とは打って変わって人を寄せ付けない。
 最後にこの街へ訪れたのはいつだったか。月に二、三度の買い付けぐらいしか用はなく、知り合いは行きつけの魔術用品を扱う店の店主と酒場で出会った顔見知りしかいないが、それなりに馴染みのある街だ。酒場と言っても家にアルフレッドを残して来ていたから、当然朝までには家に帰り着ける計算で街を後にしていた。どんなに酔っていても歩いている間に酔いが醒める距離。
 街の中央にある広場には時折旅芸人の一座が来ていたりして、いつか、アルフレッドを連れて来たいと思っていた。いつか……。
 指先を握り込んで、後ろを振り向く。
 アルフレッドの形をした悪魔は、きょろきょろと物珍しそうに辺りを見回していた。
「はぐれるなよ」
 肩を竦めて見せる仕草に、キツい一瞥をくれてやる。
 気にした風もない相手は、何が楽しいのか少し笑って距離を詰めた。
 今夜はこの街で宿を取り、明日の朝には準備を整えて出発したい。
「ハイ、お兄さん。今夜どう?」
 甘い声と甘い匂いに視線をやれば、若い女性の柔らかそうな金の巻き毛が揺れて、綺麗に片目を瞑られる。
 いわゆる娼館の客引きだろう。一目でそれと分かる素肌を多く露出した服装。
「いや、すまない……」
「連れのお兄さんは乗り気みたいよ?」
「は?」
 思わずぐるんと勢いづけて振り向くと、赤い塗料を爪に塗った指が、アルフレッドの肩に触れていた。
「遊びに来てね」
「それって愉しい事なのかい?」
「もちろんよ。うんとサービスしちゃう」
「へえ……」
 アルフレッドの耳元に赤い脣を寄せて、甘ったるい声。
 空を映していた虹彩が、鈍く金の光を帯びた気がした。
「アルフレッド!」
 名前を呼んで、強く手を引く。
 触れた手は、ひやりと冷たかった。一瞬で自分の身体まで同じ温度に冷えたように、ぞくりと肌が泡立つ。
「すまない、こいつはまだ子供なんだ。あまりからかってやらないでくれ」
 申し訳程度に取り繕いながら、力任せに引いた手を背中側に回して、アルフレッドの身体を後ろ背にじりじりと後ずさった。
 誘うように目配せする女性陣、後ろから伝わる興味津々の気配。焦る気持ちに後押しされるように掴んだ手を引いて、徐々に闇が濃くなる夜の街並みを駆けた。
 後ろ髪引かれるように振り返っては建物が並ぶ周囲の景色に視線を奪われ歩みの鈍る手を引いて、強く注意を促す。
「名前、やっと呼んでくれたね」
「いいからこい!」
「……さっきの子たち、美味しそうだったな」
「バカ言え! 喰うなよ……あれだ、えーっと、病気を持ってるかもしれないだろうが。ああいう手合いは客を大勢取ってるから、他人の手垢で不味いに決まってる」
 唇を舐める舌先が、心なしか尖って見えた。気の所為だと判断を下して、前に向き直る。
「とっ、とにかく、その身体で何か悪さしてみろ、許さねえからな」
「でも俺、お腹ぺこぺこなんだぞ」
 口先を尖らせて腹をさする仕草は、アルフレッドもよくしていたものだった。
「……朝に、食べたきりだったからな」
 いつもと同じように朝起きて、今日はいい天気だな、なんて話をしながら窓を開けて。朝食の卵はいつもより上手く焼けて。パンも、よく焼けて。アルフレッドも珍しく褒めてくれて。つい夢中になって、昼は何を食べたいかなんて話し込んでしまって。ああそうだ、あの時話し込んでしまったから。
 薬、薬を。俺は、なんで。
「アーサー?」
「──……なんでもない。行くぞ」
 逃さないように、手を、冷たい手を引いて。
 震えを堪えながら脇目も振らずに、足を急がせた。




 二階が宿屋になっている酒場の片隅で二人、人目を避けるように小さなテーブルで向かい合っている。
 一人でなら何度も訪れた店。店主と馴染みになるまでそう時間はかからなかった。それほど大きな街じゃない、知った顔や常連客なら街の人間、初めて見る顔は旅人の類。そのどちらでもない、月に一度、カウンターの隅に座って独りで呑む俺は珍しかったんだろう。
「よお! お前が連れだなんて珍しいな。今日はカウンターを壊したり脱いだり暴れたりすんじゃねーぞ」
 ──それとも、こんな風に客に絡む店員がいるからか。
「だっ、誰がするか!」
 ケセセ、と特徴的な笑みが「お前だ、お前」と顎で俺を示しながら愉しそうな声を紡ぐ。
 肉の焼けたいい匂いと一緒にやって来たのは、一家でこの酒場を切り盛りしている男所帯の長兄だ。
 伸ばした両手にいくつもの皿を乗せて、いつもながら器用なものだと感心する。
 構うな放っておいてくれと幾ら言っても聞かないこの男と、普段なら世間話もやぶさかではないが。知らず眉が吊り上がるのを、隠しもしないで睨み付けた。
「おい、あまり余計な事は言わないでくれ」
「悪い悪い。なあ、もしかしてそいつが例の弟か?」
 全く悪びれない様子に頭痛さえして来る。片手でこめかみを押さえ、項垂れるように両肘をテーブルに乗せた反対の指先で、濃い茶の木目をカツカツと叩く。
「ああ……訳ありなんだ」
 暗にこれ以上話す事はないと言い含めるが、日頃から給仕の領分を超えている男は意に介す様子もなく、俺を無視して目の前の相手に話しかけていた。
「よお、こうして顔を合わせるのは初めてだな。俺はギルベルト、こいつは酔っぱらうといつもお前の話ばっかするんだぜ」
「ふぅん」
「珍しく食いもんばっか注文すると思ったが、そう言やお前の好物だったか? 俺の親父と弟が腕によりをかけて作ったんだ、たあんと食えよ!」
「好物……?」
「おいおい俺に訊くなって。他に何か食いてぇものがあるなら持って来てやろうか? どうせ財布はそいつ持ちだろ、弟なら甘えて花を持たせてやれよ! ケセセッ」
「んー……人間の魂かな」
「は?」
 黙って聞いていられたのはそこまでだ。ガチャンと、俺がテーブルを叩いた事で食器がぶつかる派手な音が響く。
「酒だ! 酒を持って来てくれ!」
「お前よぉ、いい年した大人が酒も飲む前に暴れるなっての。可愛い弟が見てんだろうが。なあ?」
「そうだね」
「いいから! なるべくゆっくり、ゆっくり持って来てくれ!」
「ったく、人使いの荒いヤツだぜお前のお兄ちゃんは。ま、ゆっくりして行ってくれよな」
 遠ざかって行く人の気配。残されたのはストレスが今にも血管から突き出て来そうな俺と、悪魔の気配。
 耳慣れている筈の喧噪が、今日はどこか遠い。
「ところでさ」
「はぁ……なんだよ」
「他人の手垢、だっけ。君にはついてるのかい?」
「はあ!? つっ、つ、つ、ついてねぇよ!」
 顔を上げて目を剥けば、アルフレッドの容姿をした悪魔がついと皿のひとつを指差した。
「これはなんだい?」
 まったく、調子が狂う。
「……ハンバーガーと、ローストビーフだ」
「君の弟の好物だったんだ?」
「ああ」
 そうだ。いつか、アルフレッドをここへ連れて来たいと思っていた。叶うはずのなかった願い。こんな形で叶ったところで、ちっとも嬉しくない。
「へえ……」
 何がそんなに興味をそそるのか、周囲とテーブルの上を見回してからフォークとナイフを手にすると、良質な肉の塊を切り分け始めた。笑みを象るアルフレッドの唇から目を逸らす。
「──ひとつ訊きたい。お前はどうしてその身体に入る事が出来た」
 アルフレッドは、俺の弟はどこへ行ったんだ。
 目の前の悪魔が、食べ物を口に詰めながら、二度三度と目を瞬かせる。
 こんな事の為に、俺は禁忌を犯したんじゃない。
 悪魔は一拍置いてもぐもぐと咀嚼すると、嚥下してから舌に言葉を乗せて吐き出した。
「俺を喚んだのは君だろう?」
「質問の答えになってない」
 いくら目を逸らした所で、鼓膜を叩く声が、アルフレッドの声が、耳から入って来て脳を揺さぶる。
 ダメだ、何も、考えるな。
「俺からも質問いいかい?」
「……なんだ」
「弟のイイものって何だと思う?」
「あ?」
「俺にくれるって言ったんだ」
 ゆっくりと顔を上げて、目の前の男を見る。
 俺の好きな青とよく似た色の瞳をかがり火の下で揺らめかせて、「ああ」唇の端を笑みの形に持ち上げた悪魔が言った。
「もしかして君の事かな。随分とあっさり身体を明け渡してくれたし、君ってばよっぽど嫌われてたんじゃないかい。いっそ俺のエサになりなよ。そうすれば」
 紡がれる言葉が止まる。正確には、止められた。
 言葉の続きを阻害するように口元に当てられた手。瞬く瞳にはどこか茫洋とした感情の色が灯り、反対の手で胸の辺りを押さえている。
 開いた口から、すぐには言葉が出なくて。
「っ、あ……アルフレッド?」
 名前を呼ぶのは、少しばかりの勇気が要った。
 それでも震える唇から声を絞り出せたのは、心の底から渇望していたからだ。
 逆巻く感情とは裏腹に、目の前では今見たばかりの色が消え失せようとしていた。
「アルフレッド!」
 僅かな希望にすら縋りたい気持ちが見せた幻想だとしても、じわりと滲んだ視界に瞬きもせずに目を見張る。
「──あ……──なに」
「なにじゃねえよ! お前、今……っ」
 今度は俺が言葉を呑む番だ。落ち着け──
 小さく落とされた声に、さっきまでの色はもうなかった。少しずつ周囲のざわめきが戻って来る中、落ち着けと何度も繰り返し自分に言い聞かせる。
 ──今は、まだ、ダメだ。
 今希望を失ったら、きっと俺はなすべき事もなせずに立っていられなくなってしまう。
 見たところ悪魔の方も、自分が取った行動がよく分かっていないようだった。
「違う、これは……」
 すっかり元の色に戻った瞳が俺を見ている。細く紡がれた声の先が、一体何を言おうとしているのか。緊張に喉が震え、固唾を呑んだ時。
「よお! そこのお二人さん! おっ、こんな所に! あ、すんげえカッコいい小鳥さんが!」
「うるせえ!」
 キンと痛むほど響いた大声に、揃って横を向く。
 けれどそこにいる筈の銀髪のうるさい店員と目が合う事はなく、続いて聞こえたのはパシャリと軽い機械音。
 何が起きたか把握したのは、四角く黒い箱が紙を吐き出してからだった。
「ほらよ、兄弟は仲良くするもんだぜ。これはサービスだ」
 その紙を満足気に見たギルベルトが、俺に向かって差し出したのは、暗褐色で映し出された、俺と──
「──……いや、寝不足で酷い顔をしている」
「遠慮すんなって」
 おそらく、俺があれほど酒を煽りながら大切な愛しい唯一無二だと言っていた弟と、上手く行ってないと思って気を使ったんだろう。
「また今度、改めて店に来る」
 それでも、どうしても受け取る気になれず押し返すと、ギルベルトは諦めたのか、そうかと言って手を引いた。
「おう、そいつも連れて来いよな」
「……ああ」
「病気、治ってよかったな」
「ああ。だから今日は快気祝いなんだ。兄弟水入らずにして貰えると助かるんだが」
 話の矛先を変えたギルベルトにすかさず答えてやる。
「そりゃ邪魔して悪かった」
 気を悪くする素振りもなく奥へと引っ込んで行く背中を呼び止めたのは、半ば無意識での事だった。
「おい」
「あん? どうした」
「──いや、なんでもない」
 今まで、世話になったと、そんな別れの言葉を口にするのは憚られた。そして少しでもそう言おうと思った自分が、ああ、月に一度の現実逃避ただそれだけの為に選んだ場所に、愛着があったんだなと思い知る。
 ふと視線を感じてそちらを向けば、退屈そうに肘をついた悪魔と目が合った。
「君、友達いたんだ」
「何が言いたい」
「この世の終わりみたいな顔してたからさ。君にはアルフレッドしかいないのかと思っていたよ」
「……いねえよ」
 そうだ、俺には、アルフレッドしかいなかったんだ。
 奪ったのは、天命か、それとも──








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