全裸男とお人好し(6〜10話)
「ふー…っ」
熱いシャワーを浴びたら、だいぶ身体が温まった。
柔らかい厚手のパジャマに身を包んで脱衣所を出た俺は、しかし何時もと勝手が違うこんもりと盛り上がったベッドの上を見て途方に暮れる。
「あー…ヤベ、どうすっかな…」
今夜は望まぬ客人がいるんだった。
生乾きの髪をガシガシと拭いていたタオルを肩に掛け、自分一人でもやや手狭なシングルベッドへ近付く。
厚着をしてコートに身を包んで、床で寝るしかないか。
諦めの境地に達しながら、頭まですっぽりと被っている毛布へ手を伸ばした。
(つかこいつ、苦しくないのかよ…)
別に朝に窒息死体がある事を心配した訳でも、顔を出してやろうとか気を遣った訳でも無い。
ちょっとばかり寝顔を見てやろうと思った事は否定しないが、それでもほぼ無意識に伸ばした腕を、突然毛布から出て来た腕に掴まれて俺は跳ね上がった。
「のわあ!」
跳ね上がった…筈だった。
気付けば俺はベッドの中、正確には男の腕の中に引きずり込まれていて。
突然の出来事に気が動転していると、固まっている間に更に男の腕中へ抱き込まれた。
慌てて逃れようと身を捩る。
「なっ…はなっ…、離せっ!」
「暴れないでくれよ!」
男が大きな声で云った。
もしこれが、一晩の宿どころかベッドまで貸し与えた俺に対する理不尽な怒鳴り文句だったり、身の危険を感じていたら間違いなく肘鉄を喰らわせていただろう。
あるいは無防備に俺の肩口へうずめている顔へ拳を叩き込んでいたかも知れない。
けれど、もしもその声が震えていたら。辛そうだったら。
「お、おい…?」
「───……あったかい……」
──なるほど納得。
俺は人間ゆたんぽな訳か。
*
「お…おい、離せよ…狭いだろが」
男の太い腕に捕らわれて、身動きすら侭ならない居心地の悪さを感じる。
素性も知れない相手とこんなに密着しているからか、さっきからバクバクと心臓が煩かった。
(でも、嫌って訳じゃ…ないんだよな…)
シングルベッドに男二人は相当狭い。
仲良く並んで寝るなんて事はまず無理だろう。
背後から抱き締められて密着しているから、何とか落ちずにいられた。
「そ…そんなに寒いのかよ?」
返事の代わりに頷く気配。
そのまま首筋に顔を埋められて、さらさらと髪の毛が当たる。
腹に廻された腕に指先で触れてみたら、思いのほか冷たかった。
一瞬、俺からも向きを変えて抱き締めてやれば暖かいんじゃ…なんて思ってしまった考えを慌てて追い払う。
(なっ、なに考えてんだ俺は…!)
途端に心がむず痒くなってしまい、俺は身を捩った。
(っ…少しでも、離れ…「ぎゃあ!」
俺の動きを察したのか、背後の男がもぞもぞと動いたかと思った途端に脚までガッシリ廻されて膝を捕らわれる。
腕はぴたりと脇を締めたまま背後から抱き締められて碌に動かせず、そのうえ脚まで廻されては本当に全く以て身動きが出来ない。
しかも体勢からして奴のナニが俺の尾てい骨の辺りに当たって…
「……君って、さ……男のくせに良い匂いがするね」
首筋ですぅと息を吸い込む気配。
「……ぎ…、…ぎゃぁぁぁあ!離っ…離せばかぁぁぁあ!」
「煩いよ…眠れないじゃないか」
「っ…この変態ッ…もがッ」
腹部に廻されていた腕の片方が、のろのろと持ち上げられて俺の口を塞いだ。
「んんん〜〜!!」
じたじた
(けーさつッ!)
もぞもぞ
(誰か…っ!)
へとへと
(…助…け…)
「──……あんまり動かないで、…変な気分になるだろ…?」
微かに荒い、熱い吐息が首筋に掛かる。
喋る度に柔らかな唇が当たった。
ぞわぞわと、知らない感覚が首筋から全身に駆け巡る。
(ほあ……ほあたーーーー!!)
俺は…声にならない悲鳴を上げた。
*
───チュン、チュン…
「………」
翌朝起きると、全裸男は忽然と姿を消していた。
まさか夢か?そう思いながら身体を起こそうとして…
(……あ、…れ…?)
失敗した。力を入れた筈の腕がくたりと脱力して、起こし掛けた上肢が再びベッドに沈む。
ジクジクと痛む頭に、俺は自分が風邪を引いたのだと悟った。
(あー…昨日、髪まだ乾かしてないのにベッドに引きずり込まれたから…)
肩に掛けていた筈のタオルは、ベッドの下へと無造作に投げ捨てられていた。
拾い上げると、床と触れていた面がじっとりと湿っている。
(…やろう…)
沸々と込み上げる怒り。
けれど時間は俺を待っちゃくれなくて。
「兎に角…仕事…、行かねぇと…」
ふらふらと支度をしながら、俺は自分のコートが無い事に気付いた。
恐らく昨夜のあの男が持って…ではなく、着て行ったのだろう。
まあ良い。元々サイズが合わなくてどうしようかと思っていたし、他人が全裸の上から纏ったコートをもう一度着たいとは思わない。
食欲も無くて朝食を抜く。
少し歩くだけでバランスを崩すだけでもたつく身体を引き摺るように、俺は家を出た。
(……家は、知ってるんだよなぁ…)
通勤の行き帰りで欠かさず通る道にあるその家は、何度視線を送っても何の変哲もない只の家で。
(んだよ、礼も云わずに出て行きやがって……ばぁーか…)
胸の内で呟いた悪態は、誰の耳に届く事もなくただ俺の中で燻ぶるだけだった。
*
重い身体を引き摺るようにズリズリと歩く。
無理をしたつもりは無かったのだが、半日経って風邪はすっかり悪化してしまっていた。
普段着ていたコートは昨夜の男に持ち去られてしまったから、今はクローゼットに眠っていた買い替える前まで着ていて捨て損なって防虫剤臭いコートに身を包んでいる。
明日、明日買いに行こう。
ついでに、まだ風邪が治っていなかったら病院も。
身体の重心が定まらなくて、時折よろめきながらも何とか前へ進む。
…だから…
途中、昨夜あの男と出逢った家の前に差し掛かった時、殊更ゆっくり歩いてしまったのも、通り過ぎてからも後ろが気になって仕方なかったのも、良く分からないけど全部具合が悪い所為なんだ。
寂しいかも知れない、なんて感じる暇も無い位いよいよ頭痛が酷くなって来た頃、漸くアパートの前まで辿り着いた。
最悪な事に電気を消し忘れていたらしい。
外から見て明かりが煌々と点いていた自分の部屋の前に立ち、鞄から鍵を探す。
(…ない、ない……つーか、俺…今日カギ掛けて出たか?いやその前に昨日……)
ポケットをまさぐり鞄をまさぐり、鞄の中身をひっくり返そうとしてハタと気付く。
昨日から鍵に触れた記憶が無い。
取り敢えず、と恐る恐るノブへ手を伸ばしてみる。
「わっ!」
しかし、今まさにノブを回して開けようとした扉が勝手に動いて、思わず後ろへ仰け反った。
そのままひっくり返りそうになった俺の身体を、誰かの手が伸びて来てパシリと手首を捕らわれる。
「やあ!お帰り。玄関前で一体なにしてるんだい?」
「……へ!?」
此処…俺の家だよな?
一瞬そんな事を考えてしまう。
部屋の中には、全裸ばかりがイメージに纏わりついてパッと見誰だか解らなかった、昨夜の男が…いた。服を着て。
「ほら、寒いじゃないか。早く入りなよ」
ぐいと引かれて中へ導かれる。
おいおい此処俺の部屋だろが。
そんないつもの俺の部屋が、ホカ…と暖かい空気で迎えてくれた。
「君、なんか顔赤くないかい?」
喧しい、男の声と共に。
*
「…きっ、気の所為だろ」
「そうかい」
顔の赤さを咄嗟に否定すると、男はさしたる興味も無かったのか単純な相槌を打って会話は其処で終了した。
手を引かれて家の中に入った所で、現状をいまいち理解し切れずに直立不動で口をパクパクと開閉させる俺。
そんな俺の正面に向かい合って立つ男が、腕を伸ばして来て俺の肩越しに玄関を閉めた。
距離の近さにハッと正気付く頃には掴まれていた手首はあっさりと解放されて、男は我が物顔で俺より先に奥へと進む。
男の感触が残る手首が痛い───…だなんて俺はそんな貧弱じゃないぞ。
別にどうって事ない…意識なんかしてない、筈なのに…
何故だかちょっとばかり覚えるむず痒い違和感に耐え切れなくて、俺は反対の手でそっと手首を押さえた。
そうして軽い深呼吸を終える頃には、ずんずん進む男の背中は既に思い切り腕を伸ばしても触れられない距離まで遠ざかっていて、俺は慌てて後を追いながら誤魔化すように声を荒げる事にする。
「おっ…おまっ、人んちで何してんだよ!」
「うん?昨日のお礼に、君の寒々しい部屋をどうにかしてあげようと思ってね!」
「よけーなお世話だ!つーか鍵!どうやって中に入った!」
「HAHA!玄関は開けっ放しだったんだぞ!あと鍵はコートのポケットに入れたまま持って帰ってたみたいなんだ。はい、返すよ」
掌を上に向けて差し出された男の手に乗る鍵を、奪うように引ったくる。
この男どうしてくれようか。
一番心落ち着く筈の我が家に帰宅してからものの数分、距離にして玄関から僅か数歩。なんでこんなに疲れなくちゃいけないんだと自問自答する俺は、漸く自分が風邪を引いていた事を思い出す。
…のだけれど、それは居間へと続く扉を開けた途端、別の事に意識奪われる事になった。
「…これ、お前が直したのか?」
ほかほかと暖まった部屋に、少しばかり耳障りなエアコンの稼働音。
「まさか!…友達に機械に強い人がいてね、その菊に頼んで…」
「な…っ!勝手に人んちに他人を上げるな!」
「まだ俺の話は終わってないんだぞ!…それで菊を呼んだら、『機械に強いと周知されているからと云って、何でも出来ると思わないで下さい。私が出来るのは、精々古いテレビの映り具合を手刀で直す事と、パソコンを自作する事ぐらいです』って云って菊が修理業者に連絡して、専門家に来て直して貰ったから安心してくれよ」
「いやだから……ああ、もう…」
目の前の男は全く悪びれる様子が無い。
本当に善意なつもりのようだが、俺の言い分に聞く耳持たないとはどう云う了見だこら。
捨てられた犬猫のように震えていたコイツは、一体何処へ行ってしまったんだ。
ちくしょう騙された。
俺が纏う空気なんて全く読む気が無いらしい男が、いそいそと冷蔵庫へ寄って行く。
中には酒と調味料しか入ってねぇぞ、云う前に開けられた。
ちくしょう。
「ついでに君んちの不健康な冷蔵庫を充実させてあげたんだぞ!」
中には、酒の他にぎっしりと肉が詰まっていた。
っておい、充実してんの肉だけじゃねーか。
「だからさ、お礼は要らないから何か作ってくれよ」
それってお礼に何か作れって事じゃねえの?そう思う俺の口からは、「仕方ねぇな」なんて言葉が飛び出して。
普段から素直じゃない俺の口は、こんな時も素直になれないらしい。
素直に云えば良いじゃねぇか、「ざけんなバカ」って。
頭ではそう考えているのに。素直じゃない俺は、嬉しげに口許を緩める振りをして、あくまでポーズとしていそいそと腕捲りをしながら、キッチンへと向かっていた。
ポカポカとあたたかいのは何処だろう。
…ん?何か忘れてるような……
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