大人も子供も大わらわ! 前編
「アーサー……」
「ア、アルフレッド! 待て! 落ち着け……! そんなキラキラした目で見たって、俺は絆されねぇぞ!」
ほわ、と周りに花が咲きそうな純真な笑顔に見下ろされる。
さながらパタパタと尻尾を振って主人にじゃれるような其れは、一見いつも通りではあるが。
「やめろアルフレッド! ……っこれ以上したら一生の汚点になっちまうだろ!」
有り得ない、可笑しい、そんな馬鹿な。
混乱した頭はグルグルと目が回ってしまいそうな程だが、アーサーは何とか腕に力を込めてのし掛かるアルフレッドの身体を押し返す。
しかし太腿に当たる布越しの熱は明らかに欲情した男の其れで。
否、身体は大人なのだから生理現象自体は別に可笑しくない。だが、その欲望が向かう相手が可笑しい。
(や、だからってその辺を歩いてる一般女性を襲われても困るんだがt……っ)
万一そんな事態が起こってしまったら大いに困る。
此処は保護者である自分が、乱りに人を襲ってはいけないとしっかり教えてやらなければ。
「アルフレッド! やめ………ッふぁぁ……っ」
不意に耳の後ろへ鼻先を押し当てられて、変な声が出た。
匂いを嗅ぐような仕草に擽ったさを通り越してゾクゾクする。
力の入らない腕では、肩を押してもビクともしなくて。
膝の間に身体を割り込まれている所為で、脚を閉じる事さえ叶わない。
(俺が……俺がこいつの童貞を守ってやらねぇと……!)
もし此処で流されてしまったら。
アルフレッドが大人になった時、初めての相手が己の親代わりと知ってどれ程のショックを受ける事だろう。
可愛いアルフレッドを殴るだなんて考えは最初から頭に無い。
両手でグイグイと肩を押していたら、ブチブチとシャツのボタンが弾け飛ぶ音が聴こえた。
嗚呼、この状況の中、たった二本の腕でどうやって身を護れというのか。
「……アーサー……」
「くぅぅぅう……っ!」
耳元で囁かれる低音に、一瞬飛び掛けた理性を何とか掻き集める。
「アル……フレ……ッ……!」
何か、何か打つ手は無いのか。
必死に巡らせる思考が走馬灯のように瞼の裏を流れる中、先日フランシスが冗談半分で渡して来た「犬のしつけ方」という本が過ぎった。
藁にも縋る思いで、一応目を通していた内容を思い起こす。
「……スっ……ステイ! ステイステイステイ! っあぅ……〜〜〜ッ!」
首筋に歯を立てられた。
耳の直ぐ傍で荒い呼吸が繰り返されている。
「……はぅっ……!」
明らかに先程よりも欲情している熱を孕んだ呼気が首筋に掛かる。
舌が這い周り、時折鋭い痛みが走る首筋は鏡で見れば幾つもの咬み痕が付いている事だろう。
(く……喰われる!)
色んな意味で。
半泣きになりながら、アーサーは思った。
アルフレッドは犬なんかではない。
百獣の王に育てられた獅子の子である。
そしてライオンは、猫科だ!
アーサーはフランシスへの恨み辛みを呪詛のように脳裏で繰り返しながら観念した。
人がライオンに敵う筈がない。
――否、どう足掻いた所で。
(俺がアルフレッドに敵う訳ねぇんだ……)
世界でたった一人の、愛しい存在なのだから。
「アッーーーー!」
* * *
「……ケツ、いてぇ……ノドも……」
カーテンの隙間から差し込む陽の光に重い瞼を抉じ開ける。
幸いにも今日は休日だ。
ちらりと隣を見遣れば、こんもりと膨らんだブランケットから覗くのは明るい金髪。
正直な所、自分のケツバージンの一つや二つなどどうでもいい。
否、勿論相手が目に入れても痛くないぐらい可愛いアルフレッドに限った話だが。
しかしそんな可愛いアルフレッドの、たった一つしかない大切な童貞を失わせてしまった。
(……しかも気持ち良かった……)
どうやら自分は本能の赴くまま多少手荒に扱われる方が燃えるらしい。
そんな事実知りたくも無かったが。
今すぐ記憶の引き出しから取り除いて棄ててしまいたいくらいだ。
(……アル……)
アーサーは隣で眠る愛しい存在へと手を伸ばした。
小さくて柔らかくて温かくて、正に天使と見紛う愛らしい子に触れれば少しはこの消沈した気持ちも癒えるだろう。
(可愛い可愛い俺のアル、俺の天…使……?)
だが伸ばした掌がペタリと触れたのは、幼子にしては些か逞し過ぎるくらい立派な胸筋で。
「……?」
サラサラの明るい金糸をすっぽりと覆うブランケットに手を掛けて、ずり下げる。
現れた相貌は、見紛う事なく愛するアルフレッド。
眩しさに目が覚めてしまったのか、ふるりと睫毛を震わせて微かに瞼が持ち上げられて。
「……アーサー……?」
目許をグシグシと擦ってむずがる仕草も、正真正銘アルフレッドのものだ。しかし――。
「なっ、……なっ…………」
瞼の下からパチリと現れた空色の瞳と目が合って。
「なんで大きいままなんだよー!?」
自分の身に起こった、否、起こる筈なのに起こっていない変化など全く気付いていないアルフレッドに、朝一番から抱き潰された。
「アーサー!」
「ぐはぁ!」
「うーん……、…何か心当たりは有りませんか?」
「へ? こ、心当たり!?」
今、アーサーの部屋にはアーサー本人とアルフレッド、そして菊の三人がいる。
「ええ、アルフレッド君が不思議体質なのは今に始まった事では有りませんが、もし今回の件に何か直接の原因があるとしたら解決の糸口も其処に……アーサーさん? 大丈夫ですか? 顔色が優れませんが……」
「い、いや! 大丈夫だ! 続けてくれ!」
テーブルの向こう、ソファに腰を下ろして向かい合う相手が身を乗り出すのを制して、アーサーは慌てて先を促した。
こくりと頷いた菊を見て、ほっと胸を撫で下ろす。
「はい。……私の予想ですが、昨夜から今朝に掛けて大人になるような何か……あるいは子供に戻れないような何かがあったのではないかと。身体的か、あるいは精神的な……恐らく其れによりホルモンバランスが……」
「そ……そうか……」
ゆらり、翠の視線を彷徨わせたアーサーの顔色は確かに悪い。
「昨夜、何か変わった事は有りませんでしたか?」
「…や……わ、…分っかんねぇな……」
「そうですか……」
顎の下に手を添え、何事かを真剣に考え込む菊の様子に拭い去れない罪悪感が湧いてアーサーは仕方なかった。
動転した気持ちのまま思わず呼び出してしまったが、心当たりのある原因はとてもではないが口にする事は憚られる。
「わっ、悪ぃ……折角相談に乗って貰ったのによ……」
「いえ、私は構いません。ですが、その……本当に大丈夫ですか? ……今にも、色々とはみ出て来てしまいそうなのですが……」
「へ?」
菊の言葉にパチンと弾かれたように顔を上げるアーサーと、若干口元を引き吊らせた菊の視線が合う。
「あ、ああ! これか。……平気だ。此処がアルの定位置なんだよ」
「な? アル」破顔したアーサーが同意を求めるより先に、一度目に口にした名前で自身が呼ばれたと思ったのかアルフレッドがアーサーを振り返って。
そしてそうやってアルフレッドが少し身動ぎをする度に、アーサーが潰れてやしまわないかと菊はハラハラした。
菊の目の前には今、ちょっとばかり異様な光景が広がっている。
ソファに腰掛けた小柄なアーサーの上に、彼より一回りは大きいアルフレッドが座っているのだ。
しかも、良く言えば安心しきったように。
しかし悪く言えば遠慮なく体を預けて凭れているものだから、菊の位置からはアルフレッドの身体に隠れてしまってアーサーの顔が半分ほどしか見えない。
今にも色々とはみ出てペチャンコになってしまいそうだった。先程から顔色も悪い。
けれどアーサーは全く気にする様子もなく、あまつさえ状況に甘んじるようにアルフレッドの腰に回した腕を前で組んでいて。
更にアーサーのその手にアルフレッドが手を重ねる二人の姿に、何となく未来を予見する。
いっそ体勢を入れ替えてしまえば良いのに。寧ろイイのに。
そう思いながら、菊は席を立った。
「……分かりました。私の方でも調べてみます。何か分かったら連絡しますね」
「ああ、悪いな……。助かる」
静かに扉が閉められる音を合図に、アーサーは「はぁーっ……」と息を吐き出した。
きょとんと首を傾げる心無しかツヤツヤと血色の良いアルフレッドへ視線を合わせる。
「さて、どうすっか」
「?」
普段の小さなアルフレッドなら今頃は昼寝をしている時間なのだが、どうやら身体が大きいとそこまで眠くならないらしい。
綺麗な空色の水晶体に映り込んだ自分を見ながら、何をして過ごそうかと思案し始めたその時。
─── Pi Pi Pi Pi Pi...
携帯電話の着信音が鳴り響いた。
もぞもぞと動いてスラックスのポケットから携帯電話を取り出す。
「Hello.カークランド……あ? お前かよ。……は? 何だって? お前、俺は今日オフ……あー……分かった、今から向かう」
─── Pi.
通話を切った後、アーサーは携帯電話を元のポケットへと戻して重々しい溜め息と共に顔を上げた。
ゆらゆらと揺れる空色の水晶体と視線が交わる。
「……アーサー……?」
「ごめんな、アルフレッド。すぐ戻るから……な? そうしたら、今日はずっと一緒だ」
アーサーは笑みを作りながら何とかアルフレッドを宥めに掛かる。
身を翻して正面からぎゅうと首に縋り付かれると、膝が嫌な音を立てて軋んだがそんな事はさしたる問題ではない。
「アル……約束する。だから……な? ……俺が嘘吐いた事あるか?」
優しい声色で紡ぐと、のろりと顔を上げてくれた目尻に涙を浮かべる相貌。
頬へ手を添えて、額に優しくキスをした。
やんわりと肩に手を掛けて……、力の限りに押す。
「ぐぎぎぎぎ……!」
うるうると空色の瞳を滲ませるアルフレッドに、多分悪気は無い。
「……ハァ、ハァ……よし。良い子だな、アルフレッドは……」
全力で押しても少しずつしか離れて行かない身体を何とかソファの自分の隣へと座らせて、アーサーは自身の脚を気遣いながら立ち上がった。
幸いな事に膝は折れていないようだ。
「……じゃあ、行ってくる。戻って来たら今日はずっと一緒だ」
「アーサー……」
何度も何度も後ろ髪引かれる思いを断ち切って、アーサーは部屋を後にした。
────数刻後。
「……あ、アーサーさん。丁度良かった、今からお伺いする所だったんです」
「菊? どうしたんだ?」
「こちらを……」
菊に手渡されてアーサーの掌の上をコロリと転がるのは、飴玉ほどの大きさの小さな丸い包みだった。
「……これは?」
「アルフレッド君の身体を一時的に子供に戻すものです。……まだ試作段階ですので効果は保証出来ませんが……上手くいけば、改良を重ねていずれはコントロール出来るようになるかも知れません」
「菊んとこの新しい研究か?相変わらずスゲーな……」
「ふふ、半分は趣味のようなものですから、まだまだですよ。……行く行くはあらゆる身体変化を極める事こそが我々の夢ですから!」
「そ、そうか……」
熱く語る様子に後ろ足を少し引く。
研究者は総じて変わり者が多く、また自身の研究への熱の入れようも人それぞれとはいえ並大抵ではない者が多い。
この友人は、この研究所の中でもその筆頭だろう。確実に。
「液状では恐らく飲んでくれないでしょうし、矢張り薬と云えばカプセルや錠剤の類が常ですが、今回は即効性を出す為にチョコレートを使用してみました。そうしたら……」
そして研究に情熱を注ぐ者は、例外なく話が長い。
「……っ、兎に角サンキュ! アルが待ってるからもう行くな!」
「あっ。アーサーさん! 待って下さい、まだ話は……」
アーサーとて、妖精を語らせれば三日三晩でも足りないくらいだ。
他にも幽霊、幻獣、精霊……。
この世の怪奇現象と呼ばれる総ての事象には、科学では到底説明のつかない理由がある……とこんな風に。
罪悪感に身を焦がしつつ、アーサーはアルフレッドの待つ部屋へと駆け足でその場を後にした。
「一つ注意点が……! 嗚呼……行ってしまいました……どうしましょう……」
研究者とは、其処に携わる殆どの者が運動を苦手としている。
「──ものすごく、味がマズいのですが……普段からアーサーさんの手料理を食べているのなら、大丈夫ですよね……」
既に小さくなってしまった背を見送り、ぽつりと漏らした菊は元来た道を行く為に踵を返した。
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