すべての始まり
「アーサー、悪いけどちょっとこの子頼むわ。お前んとこの上司にも、話は通してあるからさ」
同僚のフランシスが、ある日いきなりガキを連れてやって来やがった。
何でも前人未踏な筈の森の奥地でライオンに育てられていた子供を保護した……ってんな怪しいガキ連れて来てんじゃねーよ!つか何で俺んとこなんだよ!
その親ライオンはどうした!……っ!…あ……や、そ…そうか……こいつも、大変だったんだな……。
――ってだから何で俺が!
だいたい俺は子供なんて育てた事ねぇぞ。いつもいつも暇人扱いしやがって……俺だって偶には忙しい時ぐらい……あ!テメェ!逃げんじゃねえっ!待ちやがれ!
『種族の垣根を越えて愛を届けるさすらいの伝道師』なんて気持ち悪い自称をしてるあの髭、フランシス・ボヌフォワは、所属は違うが俺の同僚。特徴は髭、髭、ワイン。
世界各地を飛び回って動植物の研究や保護、新種の発見なんかをしているが、そうやって飛び回る先で抱えた厄介事は、こうして俺を始め他のチームへと回されて来る。
全く、はた迷惑な奴だ。
そして俺はと云うと、さっきはムカつく髭の手前もあって暇じゃない素振りを見せたが…、……こほん。
所属するチームは妖精やユニコーンといったいわゆる幻想世界の住人達と称される彼等の研究。
他のチームからは幻覚を追い求める電波な集団扱いされている上に、なんて言うか……まあ、その、なんだ、ぶっちゃけ暇だ。
他からお鉢が回って来る仕事も、明らかに雑用だったり、面倒で手間暇かかるものが多い。
……だからって、これは……無いだろ。ないない。
俺は腕の中で眠る子供を見下ろした。
柔らかな金糸と小さな手足。瞳の色は何色だろう。
幼児と呼ぶには幾らか育っていて、しかしまだ目の離せない……親の保護が必要な感じだ。
幼い体温が心地良くて思わず頬が緩む。
兎にも角にも、上司も了承したという事は当面の俺の仕事は決まってしまった訳で。
理由を話して研究所内の女性陣に子育て本を借り……る事は憚られたので、俺は一先ず自宅に連れ帰り、ネットで子育て本やら養育本やら料理本やら、使えそうな本を買い漁った。
立派な紳士に躾てやるからな。
――早速問題が起きた。
「く、喰わねぇ……何でだ……?」
購入してきた粉ミルクを、説明書きに添って適当に作ってみたのだが、哺乳瓶の中身は一向に減ってはくれない。
それどころか、いやいやと力無く首を振られる度に口の中に突っ込み直す作業の繰り返しだ。
ただ食事を摂らせたいだけなのに、虐待してる気になってくる。
俺は必死に餓鬼の気持ちとライオンに育てられた気持ちになってみたのだが、さっぱり分からない。
何だか心なしか顔色が悪くなって来たように見える。
「……、もしかして……」
再び口許から外れてしまった哺乳瓶を引っ繰り返して、先端の部分を見遣る。
今まで一切の人工物が無い環境下で育って来たのだ。この哺乳瓶の先に付いたゴムの匂いとかが、食べ物と認識出来ていないのかも知れない。
俺は物は試しと哺乳瓶を分解し、自分の指先を中身のミルクに浸して口の中へ突っ込んでみた。
「あ……」
ぺろり、俺の指先のミルクを小さな舌が舐めてくれた。
些か強引過ぎるような気もするが、まあ良いだろう。勝てば官軍、だ。
俺が得も云えぬ達成感と感動で言葉を失っていると、もっとと強請るように指を吸われた。
「よ、よしっ! ちょっと待ってろ……!」
何度か哺乳瓶と小さな唇との間を指で行き来するが、埒があかない。
腕の中の子供も不満そうだ。
「……いいよな……。テレビで親子がやってんの観た事あるし……」
その時テレビで観たのは動物の親子になるのだが、そう大して変わりないだろう。
俺は緊張でか僅かに高鳴る鼓動を抑えて生唾を飲み込むと、キャップを外して只のコップと化した哺乳瓶の中身を口に含む。
「――……ん……」
俺よりもだいぶ小さな唇を塞ぎ、舌で抉じ開ける。
少しずつ流し込めば、喉を上下させて嚥下する様子が見て取れた。
そうこうしてる内に口の中に含んだミルクが無くなったので一旦唇を離そうとすると、小さな舌に追い掛けられて。
それでも構わず無理に離れて見下ろせば、ふにゃ……と泣きそうに歪む顔。
「まっ、待て! 泣くな……! 直ぐやるから……!」
哺乳瓶の中身が空になる頃には、どうやら子供も満足してくれたらしい。口を離す時もぐずらなかったし、先程よりも血色が良くなった。
口の周りに残るミルクと涎の跡を親指で拭ってやる。すっかり俺の指を食べ物だと思っているのか、唇に近づければパクパクと口を開閉させるのが可愛い。
人差し指の先で頬を突くと、もちっと柔らかい弾力に押し返された。
「よし……今日からお前の名前はアルフレッドだ。…アルー……」
前髪の分け目からクルンと飛び出た阿呆毛を撫で付けながら名前を呼んでみる。ドキドキした。
すると、今迄はぐったりと伏せられていて、もしやこのまま開かないんじゃないかと思ってた双眸が、俺が驚く程にパッチリと開かれる。
「っあ……、ア……アル?」
もう一度呼んでみると、青い瞳が俺を映してきゃっきゃと燥ぐ。
自分の口の中がミルク臭くて敵わないし、先行きは不安だが……きっと今この充足感は、他の何にも替えられないだろう。
「俺はアーサー……、アーサー・カークランドだ。宜しくな、アルフレッド」
──しかし、前人未踏の地に、捨てられて居たのかは分からないが其れでもそんな場所にいた事。
そして、幾らフランシスとは昔馴染みとは言え、子育ての経験のない俺の元へと連れて来られた事。
この二つが示す意味を、俺はもっと良く考えなきゃいけなかったんだ――。
「もう歯は生えてたからな……。明日は離乳食ってやつに挑戦してみるか?」
夜。今迄は俺が一人で使っていたベッドに、今日は小さなアルと二人。
寝相は悪くないから潰すなんて事はしない筈だが、一応少しの距離を取り、毛布を掛け直してやりながら話し掛ける。
返事はないが気にしない。今まで言葉は必要なかったんだ。これから覚えて行けばいい。
アルはただ俺の顔ばかり見ていて、それが何だか嬉しそうに見えて俺も嬉しくなる。
擽ったさを感じつつ、携帯電話を取り出すと『何かあったら知らせてくれよ?』と言っていたフランシスへミルクを飲んだとメールを打つ。返信には『マジ!?どうやったんだ!?』と書かれていたが、企業秘密とだけ短く返してマナーモードの切り替えをサイレントにした。
口移し……とは、ちょっと……あまり人に知られたくない。
今日は慣れない事ばかりした所為か、目蓋が徐々に重くなってきた。
ちゃんと、アルが眠るまでは起きててやりたいのに――。
一度は眠りの淵に落ちた意識が唐突に浮上し、俺は不自然な重みで目を覚ました。
「ん……、あ……?」
青い瞳と視線がかち合う。
なんだ、アルか……。
そう思い再び微睡みに身を投じるべく瞼を伏せ、頭を撫でてやろうと手を伸ばした所で漸く不自然が不自然たる理由に気付く。
「……!? えっ、お前……何っンンン……ッッ!!」
俺の上に覆い被さっていたのは、目の色にプラスして髪型にもアルの面影こそあるが、あの愛くるしい天使と比べれば何倍もあろうかと云う大男だった。
否……大男と称する程でも無いのかも知れないが、俺よりも体格が良く、先程から押しても叩いてもビクともしないのだから大男も同然だ。
そいつは好き放題に俺の唇を貪ってから顔を上げると、小首を傾げて俺を見下ろす。
何かが訳分からない様子だが、こんな状況、俺の方が何が何だか訳分かんねぇよ!
そこで俺は気が付く。
「はっ……アル!?」
眠る前までは確かに同じベッドで横になっていた筈の、アルフレッドが居ない。
俺はのし掛かられて自由に身動き出来ない躯を必死に捩って、目的の存在を探した。
「アル! アル…!? ……ア…ル……?」
右へ、左へ。忙しなく首を巡らす俺の視界に映る本来この部屋にない筈のもの……否、人。その大男の顔が、俺が「アル」と呼ぶ度にニコニコと満面の笑みを零して俺に視線を合わせて来る。
「……、……ア…アルフレッド……?」
もう一度、今度はこちらからも視線を合わせて呼ぶ。
すると大男が嬉しげに降って来た。正確には、また俺の唇を奪うつもりなのか顔を近付けて来た。
不意打ちと呼ぶにはある程度予想が出来たその行為に、俺は顔を逸らして避ける。
横目で睨み付ければ、何故か今にも泣き出しそうになっている青い目をした男の顔。
何でだよ……!こちらが虐めているような気にさせないで欲しい。
俺が口を開き掛けた時、状況にそぐわない間の抜けた音が響き渡った。
ぐぅぅぅう……。
目の前の男からだ。表情が一層哀愁を誘うものへと歪む。
うるうると潤んだ眼差しは、明らかに俺へ助けを乞うて居るようで――。
……まさか……。
唐突に、俺の中で「空腹」と「唇」と「食事」が一本の線で繋がった。
やっぱり……いやまさか、俺の脳内は混乱していて切実に時間を欲していると云うのに、目の前の男は強攻策に出た。
「あっ、てめっ、ずる…ッぃ…! ……ンンッ、…っふ……ぁ……くそっ……」
俺の手を障害と認識したらしい男が、俺より一回りデカい手で俺の手をシーツに縫い付けて来る。
こうされてしまうと、元から腹の上にのし掛かられていた俺は身動きが取れなくなってしまう。
膝頭で背中を蹴り上げてやろうかとも一瞬思ったが、さっきの泣き出しそうな顔が脳裏をチラつき、結局俺はアルフレッドに似たそいつが諦めと空腹でポロポロと涙を零しながら顔を上げるまで、ひたすら耐える事となった。
漸く解放されると、口に残るのは口内の唾液を全て吸い尽くされたような感覚。舌も思い切り吸われ過ぎて付け根の辺りがジンジンと痺れている。
その後は泣き止まない男を宥めすかしてその下から這い出し、一旦キッチンへと行って昼間と同じミルクを作り……。
手渡した哺乳瓶は、使い方が分からないのか底から覗き込んでみたりと一向に口にする様子が無いのでいい加減眠い俺は焦れて奪い取り、親鳥よろしく飲ませてやった。
――そうして翌朝。
目が覚めると、昨日の男はベッドの上にも、家の中のどこにも見当たらなかった。
代わりに俺のベッドの上で眠るのは、小さい躯を丸めて寝息を立てる、昨日初めて出逢った時と同じ幼いアル。
口元にはミルクを飲んだ跡。嗚呼、昨夜は暗かったからな……気付かなかっ……、……。
俺はプライベートも仕事も共用してる携帯電話を手に、アルを起こさないようこっそりとベランダへ出た。
そうして少ないアドレス帳の中から髭の番号を呼び出す。
3コール目で漸く出た相手へ、全ての鬱憤を叩き付けるように叫んだ。
「フラァァァァァァンシス!!」
『おいおいそっちは朝だろ? 元気良いなぁお前は……』
フランシスの声が遠い。さては最初から受話器を離して出やがったな。
て事はつまりだ。
「……おい、用件は分かってるよなァ……?」
最初は惚けていたフランシスも、俺が突き詰めるとあっさりと肯定した。
『お前の得意分野だろ? ほーら、人とはちょっと違いそうな不思議生命体みたいなさ』
「黙れ。テメェは…っ! アル……? ああ良い子だから俺が戻るまで大人しくあっちに……!? ま、待て……!」
目が覚めて俺が恋しくなったんだろうか……ガラス戸一枚隔てた直ぐ傍までアルが来ていた。
初めは今にも泣き出しそうに眸を潤ませて俺を見上げて居たのが、徐に上げられた小さな右腕がガラス戸に叩き付けられた、その時……。
ガンッ!
窓ガラスにヒビが入った。
俺は昨日の、アルに良く似た馬鹿力男を思い出す。
手応えを感じたらしいアルは、更に続けて窓ガラスに攻撃を加える。
「直ぐっ! 直ぐそっちに行くから待ってろ!」
通話なんかとっくに切られている携帯電話を投げ出して、俺が足元のアルを抱き上げると、ぎゅうと可愛らしくしがみ付いてきた。
――こうして、ずっと一人だった俺と、この小さな猛獣との共同生活が始まった。