初めて名前を呼ばれた日
ある日、同僚の菊が俺の部屋を訪ねて来た。
「菊? 一体どうした?」
獣化や擬人化……etc.といった俺よりも余程マニアックな分野を扱ってる奴なんだが、研究の成果は出ていると聴くのだから恐ろしい。
機械類にも強くて俺も偶に世話になる事があるんだが、今日は呼んだ覚えはない。
菊がアポイント無しで来るなんて珍しい。
「いえ……、アーサーさんのネット通販の購入履歴に最近、やたらと子供に関するものが多いので……まさか産――」
「待て、菊。それ以上は言わないでくれ。――いや、それより何で俺の購入履歴なんか……」
俺が顔を引き吊らせて胡乱な視線を向けると、菊はコホンと咳払いをして笑みを浮かべた。
「少し調べものをして居たら、たまたま、たまたまです。……それで、子供は……ああ、その子ですか?」
「腹を見るな腹を! 俺は産んでな……アル?」
菊が「その子」と言って俺の背後に目を向けるものだから、俺も慌てて振り返る。
俺の姿が見えなくなって不安になったのか、青い瞳をうるうると潤ませたアルが部屋の中からこちらを窺っていた。
「っ……アル……!」
俺は堪らなくなって駆け出すと、直ぐにアルを抱き上げて安心させるように腕を回して包み、頬を寄せた。
アルが「うー」とか「あー」とか意味を成さない声を上げながら、ちんまりとした五本の指で確りと俺の服を握り締める。
此処で漸く菊の存在を思い出して振り返ると、菊が目を白黒させていた。
何に驚いているのかは心当たりが有りすぎて分からない。
研究所内じゃ元ヤン呼ばわりされてる俺の豹変っぷりか?いや菊の前じゃ結構紳士に振る舞っていた筈。
本当に子供が居た事に驚い……た訳はないだろうな。さっきの菊の目は確信めいた凄みを放ってたし……何故其処で俺が産んだ事に繋がるのかは謎だが。
なら……普通ならば喋っても良さそうに見える年頃のアルが、まるで赤ちゃんのようにしか口が利けない事に驚いているのだろうか。
「――まあ上がってけよ。あ、けど茶菓子がねぇな……今からスコー…」
「いえ其れは結構です」
「なるほど。それでフランシスさんからその子を……」
「ああ。まだ歩けなくて……フローリングの床も怖いみたいでよ、俺がこうしていつも抱いてんだ。だから離れるとさっきみてぇに不安がって……はは、参っちまうよな。けどスキンシップは大切だって本にも書いてあったし」
「はあ……」
菊が気のない返事を寄越すのも構わず、俺はいかにアルが天使のように可愛いか、どれほど俺を好いてくれているのかを語る。
矢張り大自然育ちだからか人工の床はお気に召さないようで、庭なんかに下ろせば元気に四つん這いで走り回るものの、こうして屋内にいる時は俺の腕の中がこいつの定位置だ。
「……しかし、人間社会で生きて行くにはそうも言っては居られません。…少し、甘やかし過ぎなのでは?」
「そ、そうか……?」
菊が言い難そうに、けれど真剣な眼差しで言うから、俺も違うと簡単に否定する事が出来なくて口籠もる。
「けどよ……! …ッたた……! アル、こら…ちょっ……」
自分でも何を言う気だったのか、菊に向かって半ば身を乗り出しながら言い募ろうとした俺の言葉は、突然アルに髪を引かれて遮られた一瞬の内に忘れてしまった。
外見以外は本当に赤ん坊のようなのに、力だけは其処らの子供より余程強い。流石、百獣の王を育ての親に持つだけの事はある……が、今は俺が親代わりだ。
菊にも此処でちゃんと、甘やかしてるだけじゃねぇって事を見せてやらねえと。
「アールー……!」
「……ふふっ、」
低い声でアルを呼ぶ俺の声を、びくっと肩を震わすアルではなく今度は菊が遮る。
「菊?」
「すみません……その子がアーサーさんの事をとても大好きなのは分かりました。――きっと、アーサーさんが私とばかり話しているように見えて、妬いてしまって居るのではないでしょうか」
「……そうなのか?」
俺は菊の言葉を聴いて腕の中のアルを見下ろす。
大きな瞳一杯に涙を浮かべて俺だけを見上げる様子に、何かが込み上げて来て俺はそっとアルを抱き締めた。
「馬鹿だな……お前の事を話してたんだぞ?」
俺がもう怒ってないと分かると、現金な子供はもう満面を笑みにして、小さな両手を俺に伸ばして来る。
「あー…あー……あーしゃ……」
「っ!!」
「あーしゃ……アーしゃー」
「……ッ菊! 聴いたか!? 今こいつ、俺の事……!」
「ええ、聴きましたよ。余程アーサーさんの気を引きたかったのでしょうね」
菊は笑って言った。
俺も、緩んだ顔がもう戻らないんじゃないかってぐらい笑みが零れるのを止められない儘、アルに頬をすり寄せた。