君の為に出来る事9
なんだ、これは……。
ドクドクと、心臓がやけに大きな音を立てる。
目の前にいるのは誰だ。
「……っは……ア、サ……」
雨に混ざって血の赤が流れている。
視界に、倒れた彼に駆け寄る小柄で黒髪の──菊の姿を捉えた。
なぜか……目の前から聴こえて来ている筈の声が、何処か遠くから聴こえているような気がした。
「アーサーさん!!」
「っ……!」
ああそうだ、あそこに倒れているのは。
聴覚に届く名前に肩が跳ねる。
「……うそ……だ……」
行かなければと思うのに、身体が動かない。
全身の血液が逆流しているみたいにザワめいて。
息を吸うのも忘れてしまいそうだ。
──こわい、こわい……。
嗚呼こんな時は、怖い時は、どうすれば良いんだっけ。
そう、たしか……俺は知っている。
『──……を……』
何処かから、声が聴こえた。
優しくて温かい、俺を安心させてくれる声。
縋るように、脳裏に響くその声に神経を研ぎ澄ませた。
『怖くなったら……』
ああ、そうだ──。
「……ッ……は……っ」
脳に酸素が戻る。
なんで、忘れていたんだろう。
『 怖くなったら、俺を呼べばいい 』
記憶の底から響いた声に導かれるまま、弾かれるように駆け出した。
「アーサー!!」
雨にも負けない声で叫ぶ。
彼の身体を濡らす水の粒が憎かった。
倒れた彼の傍まで駆け寄り、地面に膝を着いて手を伸ばす。
俺の視界には彼の姿しか映らなかった。ずぶ濡れになったその身体を抱き上げる。
「アーサー……アーサー!!」
「落ち着いて下さい! マシュー君!!」
菊に肩を揺さぶられる。
顔を上げて、視線を隣に移した。
綺麗に切り揃えられた黒髪を雨に濡らして、心配そうに揺れる瞳が俺を映している。
そうだ、この人は本田菊。
アーサーの友達で、俺にも良くしてくれた……。
どうして、今まで忘れていたんだろう。
「──きく……、おれ……」
「……マシュー君……あなた、もしかして……」
菊が目を見開いて俺を見た、その時。
「っ……」
アーサーの指がぴくりと動いた。
「アーサー!!」
俺の声に、伏せられていた瞼が薄らと開かれる。
「ア……ル……? 無事、か……?」
「俺は平気だ! それよりも……!!」
「アーサーさん……今、救急車を呼びましたから……」
俺と菊の視線を受ける彼の口許は、痛みに歪んでいるようにも、微笑ってるようにも見えた。
「はは、俺……夢中で……きっと、これが護ってくれたんだな……」
緩慢と動く腕でアーサーが何をするのかと思えば。
ごそごそと懐から取り出されたのは、俺が昨夜彼の机の上に残したメモだった。
雨に濡れないように掌の中へ握り込まれた其れに、内側から血が沸騰する。
「ッそんな訳ないだろう!?」
「……っ、」
思わず身体を揺らしてしまい、アーサーが辛そうに顔を顰めた。
俺は腕の力を緩めて、何を言えば良いのか、どうすれば良いのかなんて分からなくて、言葉が浮かばないから彼の名前を呼び続けた。
「アーサー……っ、アーサー……」
あんなに大きかった彼が、今俺の腕の中でこんなにも頼りない。
「……へへ、」
腕の中の彼がふにゃりと笑ってその翠に俺を映す。
「名前……嬉し……」
――その後の事は、あまり覚えていない。
すぐに到着した救急車に乗って付き添って。
否、その前に車の運転手に殴り掛かりそうになったのを菊に止められたっけ。
保険証も財布も携帯も何もかも忘れたアーサーの荷物を、菊が取りに行く事になって。
俺も軽い検査を受けて、今は病室のベッドに上体を起こすアーサーの傍に立って、彼を見下ろしている。
「……アルフレッド、なのか……?」
アーサーは軽い打ち身と、コンクリートの地面に擦れた時の額の傷と、脳震盪だった。
脳震盪……頭部を打撲した直後に起こる一時的な意識障害。数分で回復して、後に異常を残す事はない。
医師に告げられた言葉を思い出すと安堵で全身の力が抜けて、アーサーの問いに力無く首を下げて頷き返す。
狭い道で、車のスピードがあまり出ていなかった事が幸いした。
けど――。
「………思い出したんだよ」
「じゃあ……っ」
アーサーの声が、花が咲いたように、嬉しげに弾む。
俺も嬉しい……のか?
分からない。
彼が無事だった事は嬉しい。
けれど……。
アーサーにはきっと分からない。
今の俺の、こんな気持ちなんて。
俺は、酷く混乱していた。
「なんで思い出させたのさ!」
びくりと、病室の簡素なベッドの上に座るアーサーの細い肩が跳ねる。
駄目だ、止まれ、俺は何度彼を傷付ければ気が済むんだ。
「……ア…、……アル……?」
「っ……思い出した所で……俺の、俺がマシューとして生きてきた今までを無かった事に出来る訳じゃない! 此処まで育てて貰ったウィリアムズ家を、じゃあそういう事で、なんて去る事も出来ないっ! ッ……もう出来ないんだ!!」
まるで時間を遡るように次々と蘇るアルフレッドの記憶と、それと同じくらい長い刻を過ごしたマシューとしての記憶。
そのどちらも、今更無かった事には出来なかった。
俺はアルフレッドなのにアルフレッドには戻れなくて、自分がマシューだと信じていた頃に戻る事も出来ない。
「お……おまえがマシューじゃないなら、マシューはどこか、別の……」
「生きていればね!」
マシュー・ウィリアムズは、両親とはぐれて迷子になった所を保護された。
けどそれは俺だった。
なら本物のマシューは……。
そのまま、行方不明になっていたとしたら。
俺は頑なに「アルフレッド」の存在を否定していた。
それはそのまま「マシュー」にも当て嵌る。
マシューとしての最初の記憶は、目を覚ました俺を心配そうに覗き込む母の顔だ。
病気の母、優しい母。そんな母を支えながら此処まで育ててくれた父。
今更……無かった事には出来ない。
けれど……今までと同じ気持ちでは、居られない――。
「……おれはこれから、アルフレッドとして"マシュー"を演じて生きなきゃいけないんだ……」
勝手に口が動いて言葉を紡ぐ。
何を馬鹿な事を言ってるんだと、思った。
さっきから口をついて出るのは彼を責める言葉ばかりで。
だんだんアーサーの顔が歪んで見えなくなって来たと思ったら、いつの間にか俺は泣いていたみたいだった。
「……そんなの酷いじゃないか……ひどいよ、アーサー……」
随分と頼りない声が出た。
一度に蘇った記憶は俺の頭の中をグルグルと駆け巡っていて。
多分今の俺は、彼と居た頃の……遠い過去の自分とシンクロしてる。
瞬きしない俺の目から涙が零れた、これは子供の涙だ。アーサーは何も悪くないのに。
言いたい事を全て出し切ってしまっても、アーサーは、ずっと黙って俺の話を聴いていた。
「……っ……!」
沈黙に耐えられなくなった俺の脚は、気付けば逃げるみたいに病室から走り去っていて。
今になって自分が不甲斐無くて情けなくて、今度は自己嫌悪で泣きそうだ。
何人かにぶつかって、看護師に叱られながら病院の外まで出て、俺は漸く足を止める。
見上げる病院の窓は多すぎて、どれがアーサーの病室か分からなかった。
「っ……俺は……」
もやもやしていた彼との関係が明らかになって、言いたい事を吐き出して、子供みたいに泣いて、走って。
次に俺の頭は、一人病室に残して来てしまった彼の事ばかり考え出す。
再会してからのアーサーを思い出してみると、笑顔よりも泣き顔の方が多かった。
全部、俺が泣かせた。
それなのにアーサーときたら、馬鹿みたいに俺の心配ばかりして……。
「はは……馬鹿は俺じゃないか……」
どんなに昔と違うと言われても、俺は俺だ。そう簡単には変われない。
変われなかった。
皆が望むマシューにはなれなかった。
そう……変われないんだ。あの頃……アーサーがとても大好きだった自分。
思い出してしまった。
そう簡単に、変われる筈が無い。
けれど、半生を"マシュー・ウィリアムズ"として生きた俺の人生も変わらない。
(俺は……どうしたら……)
今だって、コンクリートの固い地面に踏みとどまる脚も、この目も、耳も、俺の総てが彼の存在を欲している。
「くそっ、…アーサー……」
思わず口に出した名前は、やっぱり縋るみたいに力無く雨の街に響いた。
遠くで、そんな俺を誰かが視ていた気がする。
「アーサーさん、今そこでマシュー君とすれ違ったんですが……アーサーさん?」
「悪い……菊。今日は帰ってくれ」
「アーサーさ……」
「今は……誰とも話したくないんだ……」
◇◇◇
『なんで思い出させたのさ! 酷いじゃないか……』
言われた言葉が何度も何度も反芻して、こうして窓の外が白み始めて夜が明けても、アーサーは眠れなかった。じくじくと痛む胸は手で押さえても収まらない。
頭を打っているから大事を取ってと一晩だけ入院させられた病室のベッドの上に、ゆっくりと身体を起こす。
下を向けば、枯れたと思った涙が再びじわじわと瞼を押し上げて来て。
入院患者用のパジャマは、涙を拭った部分だけが既に冷たさを感じるぐらい濡れていた。
「ほんと……なにやってんだろうな……俺……」
本当は気付いていたじゃないか。覚悟は出来ていた筈だとアーサーは自分に言い聞かせる。
馬鹿みたいにはしゃいで目を逸らそうとしていたが、本当は今朝、机の上の写真立てを見た時から分かっていた。
まるで高い位置から落としたように入ったヒビ。
写真の中の2人を隔てるように入った亀裂が、全てを物語っていた筈だ。
もう何年も前から使っていたものだ、自然に割れたのだと自分に言い聞かせて来たけれど。
「ふっ……っく、……ぅう……!」
あのメモは、アルフレッドの遠回しな別離の言葉だったのだ。
アルフレッドは酷く怒っていて、憎んでいて、きっともう許されない。
「っ……アルぅ……ごめっ、ごめ……な……」
夢の中で、許されたような気がしていた。
──もう随分前に感じる、アルフレッドの家を彼との口論の末に逃げ出して泣き明かした夜から、アーサーは毎晩同じような夢を見ていた。
その夢の中で自分はいつも、今のようにアルフレッドに謝っていて。
ごめん、ごめんと繰り返し泣きながら。
けれど、昨夜は違っていた。
真暗な闇の中で泣きじゃくる自分に、小さなアルフレッドがキスをくれて。
そして唇が離れるといつの間にか成長した姿になっていたアルフレッドが、泣かないでと涙を拭ってくれたのだ。
(……はは、馬鹿だな。俺は……なんつー都合の良い夢を見てたんだか……)
泣かせてしまった、大切なアルフレッドを。
自分の都合だけを押し付けて、思い出したくなど無かった事を思い出させてしまった。
(俺はどうすれば、どうすればいい……)
もう今となっては、せめて彼の前に二度と現れない事ぐらいしか償い方が見付からない。
……否、もう一つ。
「──そうだ……」
まだあった、自分に出来る事。
これをせずに、他に何をするというのか。
「っ……アル、フレッド……!」
まだ少し痛む身体に鞭打ってベッドから這い出した。
靴もぐしょぐしょに濡れていたからと、病院が適当に用意してくれたサンダルを突っ掛ける。
本物のマシューを捜し出そう。
そうして、アルフレッドを自由にしてやるのだ。
その為なら、残りの人生全て賭けたって構わない。
アーサーは静かに病院を後にした。
← →
戻る