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君の為に出来る事

君の為に出来る事7


 家にはその人特有の匂いが染み付いている。
 アーサーの家は、紅茶と薔薇が混ざり合ったような、仄かに甘い香りがした。
 まるで女の子の家を思わせるその匂いは、しかし同時に心地良い安心感をもたらして。
 家の規律に従っていた自分は、女の子の家どころか友人の家に泊まったのだって、先日のヴァルガス宅が初めての経験だけど。

 今、腕の中ですやすやと寝息を立てる彼からも同じ匂いがするんだろうか。
 ちらと視線を落とした身体は細くて白くて俺より小さくて、決して女性とは言い難いが男らしいとも言えない。現に今だって年下の自分に易々と抱えられている。

 肺まで吸い込んだ空気をゆっくり吐き出すと、何故か沸き立つ懐かしさから気を背けて、再び歩き出した。

 玄関から入った先、一番手前の明かりの点いたままの部屋の前を通り過ぎようとした時。不意に鼻腔を掠めた異なる匂いに、開け放たれたままの一室へ視線を移す。
 どうやらダイニングキッチンらしい部屋の、机の上。ラップを掛けられた小振りのタッパーが幾つか見えた。
 良い匂い……とは言えないが、食べ物の匂いだったようだ。なるほど確かに食べ物と思って嗅ぎ直してみれば、そう思えなくもない。
 まるで何処かにお裾分けにでも持って行くかのように、それらは重ねられている。

(まさか……あれを持って一度俺の家に来たなんて言わないだろうね……)

 いそいそと二人分作り温かいうちにと隣の家まで持って来て玄関の呼び鈴を押す、そんなアーサーの姿は容易に想像出来た。
 そうして留守な事を知り、しょぼくれてトボトボと帰る背中、家の明かりが灯るのをソワソワと待ちながら、結局は我慢仕切れずに外に出て待ち始めた場面までを思い描いて、俺は慌てて頭を振った。

(いやいやいや、まだそうと決まった訳じゃ……)

 そもそも彼の料理は酷い。味も香りも見た目も総てに於いて酷過ぎる。
 全てのレパートリーが酷いと決め付けるには早計だが、少なくともあのスコーンは酷かった。思い出すだけで胃の辺りから喉の奥までモヤっとする。

 あの日、菊の手から渡ったスコーンは、ヴァルガス兄弟から受けた嬉しい呼び出しに一度は机に放置して支度を始めたものの、そのまま直ぐにでも向かいたかったのだが……机の上に残る其れがが気になって、結局全部食べてしまった。
 因みに3つほどあったハンバーガーも全てだ。
 だから決してお腹が空いていたから、あの不味いスコーンを食べた訳ではない。ハンバーガーだけでも充分だった。
 捨てた所でバレやしないのに、何故自分はあんな物を食べたのか。
 具合が悪くならなかったのは正に奇跡だ。

 考え事をしながら歩いていた足は、いつの間にか階段を上がった先、幾つかある部屋の前で立ち止まっていた。
 一旦アーサーの身体を片手で支え直し、何の疑問も持たずにドアノブを回す。
 そうして室内に足を踏み入れ電気を点けようと当たり前のように壁へ手を伸ばした所で、俺は初めて……自分が無意識に取っていた行動に気が付いた。
 此処は初めて訪れた家、初めて入った部屋の筈だ。
 なのに昔から知っているような、そんな――。

(……たまたまさ)

 俺は深く考えない事に決めて電気のスイッチを入れる。
 明かりに照らされた室内はベッドと机と、壁一面を覆う圧巻される程大きな本棚が目立つだけの質素な部屋だった。
 アーサーの身体をベッドの上に横たえ、興味を引かれた本棚へ歩み寄る。
 参考書や辞書と共に、黒魔術の本が並んでいた。
 俺は脱力してその場に屈み込む。

(……そうだよね、学校の図書室に入れて貰うより買った方が確実じゃないか。……ん?)

 のろのろと上げた視線が、本棚の一番下の一番端に、見覚えのある背表紙を捉えた。

(こ、これは……)

 震える指先で手に取り、中をぱらりと捲って直ぐに閉じて戻したその本は、学校で見た『恋の黒魔術』なる本と全く同じ物だった。
 その隣に同じロゴデザインの本が数冊並んでいる所を見ると、どうやらシリーズ物だったらしい。

(……きっと本屋で纏め買いをした時にでも間違えて買ったんだ)

 俺は必死に自分を納得させる理由を探した。

(だってこんな「黒魔術」だけ書かれた黒い本なんていかにもって感じがするし。うん、うん…………帰ろう)

 けれどそう思って立ち上がった足は、のろのろと俺の意思に反して綺麗に整頓された机を目指す。
 そして机の上を適当に漁り紙とペンを手に取った。

 彼には色々と迷惑を被ってるのも事実だけど、それらは口にするほど不快なものでもなくて。
 それよりも自分が彼を傷付け泣かせてばかりいる事に、思い出す度キリリと痛む胸を何とかしたい。
 これは、きっとそんな思いからだ。
 俺は小さな紙面にペンを走らせる。

(……「この間はスコーンをありがとう」――美味しかった……は、駄目だ……。お世辞でもそんな事書けないよ)

 結局、シンプルで味気ない紙面のまま机の上の目立つ所まで紙を滑らせ、コツと音を立ててペンを置く。
 不意に指の背が、横に立ててあった写真立てに触れた。
 眉毛の具合で彼と分かる幼いアーサーと、その隣……彼の服を握り締めてぴたりと寄り添って安心しきった笑みを浮かべているのは、どう見ても――。

「……お、れ……?」

 今の俺と、この写真立てを隣に並べて比べて見れば、その写真に映っている子供はさほど俺に似ていないとも言える。
 けれど俺は、自分の幼い頃を、その成長過程を知っている。
 だからこの写真の中の子供は、俺の……――否、ただ似ているだけだ。
 どんなに内心でそう言い繕っても、俺は写真の中ではにかむ子供から、目を逸らせずにいた。ゆっくりと手に取り、近くで見る。

 幼いと言っても、この写真に映る姿の頃には既に物心ついていた筈だ。しかしこんな写真を撮った記憶はない。俺は知らない。
 ――もし写真を撮ったのが、失った記憶の部分だとしたら分からないけど。
 否。大体、アーサーにここまで騒がれているのだから、俺とその"アルフレッド"とやらは似ていなければ可笑しい。
 だからこれは、只の偶然なんだ──。

「……ん……アル……」
「……ッ!!」

 タイミング良く紡がれた名に、思わずビクリと反応した手が写真立てから離れた。
 机上に落ちた衝撃で嫌な音を奏でる写真立てから視線を剥がし、声の主を振り返る。
 アーサーはただ寝返りを打っただけのようで、上下する胸は規則正しい。

「…っ……脅かさないでくれよ……」

 詰めていた息を吐く。
 ドキドキと内側から叩く鼓動が煩くて、寝ているアーサーにまで聴こえてしまいそうだった。

「……アル…、……ん……」
「夢の中でもアルフレッドなのかい、君は……」

 どうせまた、ニヨニヨとした薄気味悪い笑みでも浮かべてるんだろう。
 その、温かくて蕩けるような顔を一目見てやってから帰ろう――。
 そう思いアーサーの眠るベッドまで歩み寄った俺の足は、彼の顔を覗き込んだ所で固まって動かなくなってしまった。

「――アル………めん、……ごめん……」

「……なんで……」

 アーサーの目尻から溢れて枕に染み込む水の筋。それは絶えず流れ続けていて。

 なんで、君は泣いてるんだい。

 起きてる時の、あの笑顔はどうしたのさ。

 もういない奴に自分から縛られて。
 君は、俺と違って自由なのに――。

「おかしいよ……きみは……」

 君なんて、俺を勝手にアルフレッドだと勘違いしてヘラヘラしていればいいんだ。
 溢れて溢れて止まらない涙が気に入らなかったから、指を伸ばして拭った。

「アル……、…ン……っ」

 そして、気が付いたら……泣きながらアルフレッドの名を紡ぐアーサーの唇を塞いでいた。
 自分の唇で。

「……ッ!」

 己の行為を信じられずに固まる身体を叱責して、アーサーの上から半身を起こす。
 柔らかな感触の残る唇を、手の甲で押さえて後ずさった。

(俺は……一体、何を……)

 ぴく、とアーサーの瞼が震えて眉間が寄せられる。
 彼が起きてしまう。
 今の俺に、彼の前でどんな顔をしろって言うんだ。

「……ッ……!」



「……ある、ふれっど……?」

 気が付いたら、俺はアーサーの家から、彼の傍から逃げ出していた。


 俺は一体、誰なんだ。

 彼は……アーサーは、俺にとって一体なんなんだ。


 走った息は乱れていて、胸はとても苦しかった。





  ◇◇◇ ◇◇◇




 その日は、朝から雨が降っていた。



「なぁなぁ菊ー。聴いてくれよ、昨日アルがな?」

「ええ、聴いてますとも」

 ──先程から何度も。
 とは、言わない。言えない。

「だからさ、あいつが好きなスコーンを焼いてやろうと思って……」

「それは……」

 止めた方が良いですよ、とは言えない。言わない――。
 菊は笑顔の裏にそっと本音を隠し続けた。

 直ぐそこのT字路でアーサーは左に曲がり、この時間も終わりは近い。
 もう一体いつ振りかも忘れるほど見ていなかった、はしゃいだ様子で話すアーサーの前では、誰だって笑顔で頷くしか出来ない筈だ。

 こんな可愛い嘘は、降りしきる雨音が消してくれるだろう。

 これから先の、訪れる未来が不安ではあるけれど。

 薄靄が掛かったような視界の悪い天気までもが、先を不明瞭に見せているようだった。




 アーサーと菊は、お互い片手にビニール袋をアーサーが2つ、菊が1つ手に提げ。反対の手で傘を差しながら雨の街を歩いていた。
 袋の中には、スコーンの材料や食材の類がぎっしりと詰まっている。

「あー……菊、金借りちまって悪ぃ、後で必ず返すからな?」
「ふふ、いつでも構いませんよ」

 普段から忘れ物が多いアーサーだが、財布を忘れてしまうくらい浮かれているのであろう事は、ふわふわと浮き足立った様子からも明らかだった。

「けどこれで今夜は、アルフレッドに美味いモンを喰わせてやれるぜ」
「……そうですね」

 菊の生暖かい眼差しに、早く早くと足が急くアーサーが気付く事はない。


 学校が休みである今日、菊はアーサーに呼ばれて買い物に付き合っていた。
 しかし本当の理由は別にあったようで、それはさも嬉しいと云わんばかりの笑顔で語る内容から徐々に明らかとなった。

 昨夜アルフレッドと逢ったが直ぐに眠ってしまって良く覚えていない事、けれど気が付いたら家の中の自分のベッドの上で寝ていた事、朝起きたら机の上にメモが残されていて、その隣に2人で撮った写真を入れた写真立てが置かれていた事などを嬉々と説明し、最後にアーサーはこう結論付けた。

「やっぱり、あいつはアルフレッドなんだ」

 アーサーの瞳は確信に満ちている。

「きっと何か理由があって言えなくて……だから、ああやって俺に伝えたんだ」

『ああやって』とは、メモの隣に置かれていた写真立て、の件だろう。
 出会い頭にアーサーがいそいそと懐から取り出して菊に見せたメモには、狭い紙面のやたら端の方に素っ気なく「この間はスコーンをありがとう」と書かれ、意図的に空けられた余白には、最初は何か他の言葉も書き加えられる予定だったのではと思わせる物だった。

 恐らく今後アーサーの宝物に加えられるのであろうメモが懐に戻されるのを見て、菊は悩んだ。
 アーサーの言動からして、記憶喪失の話は聞かされいてないのだろう。

 勝手に話して良いものかと悩んだ菊が、結局はアーサーの暴走を止める事が先決として話して聞かせた所、アーサーの反応はこうだ。

「……なんであいつ、俺には話してくれなかったんだ……」

 そう落ち込んだのも束の間。

「ならきっと、あいつ思い出したんだ!」

 顔を上げたアーサーの眼差しは自信に満ち溢れ、喜びに満ちていた。

 しかし、聞けば目が覚めた時は電気も点けっ放しだったと言うではないか。
 それに今朝、アーサーが隣の家を訪ねた時は、休日の朝にも関わらずアルフレッドは既に出掛けてしまった後だったそうだ。
 そんな不可解な点に気付かないアーサーではない筈、菊が注意深く見遣れば、目が合ったアーサーもその表情から伝わるものがあったのか、誤魔化すように頬を掻いた。

「……俺、やっぱりあいつに何かしてやりたいんだ」
「アーサーさん……」

「っあ、そ、そうだ!」

 俯きかけていた顔を上げたアーサーが、雨音にも負けじと声を張る。

「この前のスコーン、割と自信作だったんだが……どうだった?」
「えっ? えー……と……」

 キラキラとした瞳が聞きたいのは、食べた後の反応だろう。
 どうしたものかと答えに窮した菊は、話題を逸らす事に決める。

 その時、彷徨わせた視線の先に丁度アーサーの興味を引けそうなものを見つけた。
 道路を挟んだ向こう側、この雨の中を傘も差さずにフラフラと歩いて目につく金髪の男を適当に指差す。

「あ、あの人アルフレッド君に似てませんか?」

「ははっ、ンな訳ないだろ。アルフレッドはなァ、もっと……」

 ──そう返される筈だった言葉は、突然走り出したアーサーに遮られて最後まで口にする事は叶わなかった。


「アルフレッド!!」


 卵が入ったビニール袋が地に落ちる音と車のブレーキ音を、同時に聴いた。

 



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