六月の 後編
まったく。アーサーが浮かない顔をしてると聞いて来てみれば、とんでもない話じゃないか。
「俺に無断でアーサーを引き抜こうなんて、許さないぞ」
「おやおや、もう少しでしたのに」
「アル!? おま、なんで此処にいるんだよ!」
アーサーがつれないのは、今は脇に置いておく。俺は菊を見た。笑ってる目が冗談ですよと云っていたって、半分は本気だった事なんかお見通しなんだぞ!
「アーサー、君からもなんとか言ってや……っ、泣いてたのかい?」
「あっ、ちがっ、これはその……」
よくよく見ればハの字に下がった眉の下で、涙の滲んだ目許に濡れた翡翠。慌てた様子で手を振るアーサーの瞬き一つで、雫が頬を流れた。
途端に堪らない気持ちになる。足早に傍まで寄って、抱き締めた。椅子に座ったアーサーの顔が丁度胸の辺りに来て、身じろいで見上げられる。俺の方が情け無い顔をしてる気がして、目は見れなかった。
「許さないぞ」
「アル……」
まさかこんな日に、こんな話をする事になるなんて。浮かない顔した理由も涙の理由を訊くのも忘れて、ただ腕に力を込めた。
隣にいた菊がそっと部屋を後にしたのを、静かに閉まった扉の音で知る。
アーサーは何も言わない。
「嫌だったの?」
「違う、そうじゃない。そうじゃなくて……俺でいいのかって、俺はお前の為なら、いつだって……どんな形でも傍に居られるなら……」
「ストップ」
俺がなんて答えるか分からないなんて、言わせるつもりはないぞ。まさか忘れてしまったのかい。
ウィリアムズ家の御曹司、約束された将来、けれど詰まらない人生を歩いてた俺の前に現れたのは君なんだ。思い出した大切な事を、もう手放したくない。離せない。責任を取ってくれなきゃ困る。何より、俺がずっと一緒にいたいんだ。
「俺の意見は訊いてくれないの?」
たとえ君がどんなに俺の為と言ってくれたとしても。一人で決めた誰かの為は独り善がりの押し付けで、言い訳にして逃げてるだけだって、だからお互いにしないようにしようって約束したじゃないか。
男同士とか世間だとか、そんなものに負けたくなくて頑張ったんだ、ねえ、諦めて受け入れてよ。
「アル……こんな事しなくても、俺は今でも充分幸せなんだ。幸せ過ぎて怖くなる」
「俺はまだ全然足りないよ。アーサー、望んでるのは俺だぞ。俺の望みは独り善がりな幸せかい?」
「そっ、そんな事ねえ……」
「だろう? 知ってるぞ!」
「なっ……!」
「だから、君にも望んで欲しい。二人なら、きっと何だって出来るさ」
恨めしそうに俺を見るアーサーの頬に手を添えて、床に膝を着いた。俯くとまた涙が零れそうになるアーサーの目許を指で拭う。
照明の光を背負って陰の出来たアーサーに向かって伸びをして、触れるのとは反対側の頬へ口吻けた。
「アーサー、ねえ、言ってよ」
「……俺も、お前とずっと一緒にいたい……」
小さいけれどしっかりした声。頬は涙の味がした。顔がよく見えるように少し離れて、染まった目許にほっと息を吐く。
「君が好きだ」
気付けば自然と手が動いていた。白いスーツの上着のポケットの中へ手を忍ばせて、銀色の指輪を取り出す。アーサーの左手を取って薬指に指輪を填めた。
映画のワンシーンみたいにはするりと通せなかったけど、指の付け根に収まる白銀の輝きは、簡単には外れてしまわなそうで嬉しくなる。
そのまま顔を上げずに指へキスをして、震える手を逃さないよう、掴む手に力を込めた。
「愛してるよ」
ああもう段取りが滅茶苦茶だ。今日は一世一代、晴れの日になる筈だったのに。必死過ぎて実にカッコ悪い。
それもこれもアーサーの所為だぞ。俺が大人になろうとすると、彼は置いて行かれたような顔をして不安になるから。だからこうして時々、我武者羅な子供になってあげなきゃいけないんだ。なんて言い訳。
「俺、カッコ悪いなぁ」
「ばか……」
苦笑を混ぜた呟きに降ってきたのは、鼻声の悪態。ほとんど同時に腕を伸ばして、吸い寄せられるように唇を重ねた。
「――ン……」
背中に廻った腕が嬉しいぐらい少し苦しくて、俺の力じゃアーサーはもっと苦しいんじゃないかと心配になって腕を緩めたら、咎めるみたいに力を込められる。お返しに、今度は俺も遠慮なく抱き締めた。
耳元でぐすぐす鼻を啜る音すら愛しくて。あったかい濡れた熱に、つられて視界がぼやける。
「おい、っ……アル、……もう……ッ」
鼻でも詰まって息が苦しいのか、次第に顔を逃がそうとする彼を、俺は決して離さなかった。
俺達はお互いがずっと一緒に居たいと願っているんだから、それを叶え続けていればいい。
実にシンプルな結論じゃないか。
「……あ、」
教会の鐘が鳴る。
厳かな聖堂で愛を誓いに来た筈の俺達の耳に、少し遠くから聞こえる低い鐘の音が響いた。
みんなには、もう少しだけ待って貰おう。
「アーサー、改めて聞かせて欲しい。俺と結婚してくれる?」
「……本当にいいのか」
「君以外と結婚する気はないぞ。俺を一生独身にするつもりかい?」
「……それはそれで悪くはないな」
「君ねえ……」
思わず肩を掴んで引き剥がす。アーサーの顔は、泣いてるのに笑ってるような、ふざけようとして失敗したような、そんな、見た事のない顔だった。
「離してやれなくなっちまうかもしれないぞ」
「それは願ったり叶ったりさ。まあ、俺は元々離してあげる気なんかないけどね」
「ばぁか」
泣き止んだ彼に、ちゃんと聞かなきゃいけない。
「アーサー、返事は」
「……傍にいると失うことを思って怖くなるぐらい、俺もお前を愛してる」
「しょうがないから及第点をあげるよ」
「なんだよ、それ」
「いつか教えてあげる。だからそれまで、俺の傍にいてくれよ」
二度目の誓いのキスは、少ししょっぱい幸せの味がした。
喩えどんなに離れて隠れてしまっても見付け貰える自信をくれた、俺のヒーロー。
今度は、怖いなんて思わなくなる自信をあげられたら、その時こそ俺が彼のヒーローだ。
「言われた通りに鐘鳴らしちゃったけど、これで良かったの?」
「ありがとう御座います、フランシスさん。後程改めて仕切り直しましょう」
「もう、アルってば。カッコよく決めてアーサーさんを惚れ直させるんだって、あんなに張り切ってたのに」
「しょうがないわね。こっちは仕事を休んで来てるのよ。ブーケでも貰って帰らなきゃ割に合わないわ」
「おっと、あれはダーメ。その……予約済みだから、さ。自信付けてあげたい子がいるの」
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