君がいる明日 - main
君の為に出来る事

六月の 中編


 立て続けに訪れた面々を見送った扉を見遣る。今は閉ざされた重厚な色の濃い木目に向かい、アーサーは細く溜め息を吐いた。

「相変わらず元気そうだったな」

 つい今し方、着付けや振る舞いに口を酸っぱくし、「男だけじゃ心配だから、向こうの様子も見て来るわ」と部屋を後にした女性を指して言えば、隣にいる菊も大仰に頷く。

「ええ、マシューさんの右腕として頑張っておられると聞きます」

 交わす視線は椅子に座っているアーサーの方が常より目線が低い。
 ウィリアムズの傘下に入ったエリザベータとは、時々仕事で顔を合わせている。
 次期社長として空白の時間を取り戻すように意欲的に表に出ているマシューは、会う度に成長していて頭が下がる思いだ。
 率直な賞賛を述べる菊の目を見ていられなくなったアーサーは、視線を下げて膝の上で手を組んだ。

「菊も凄いし……」
「私は家業を継いだだけですよ。アーサーさん達の方が凄いじゃないですか」
「……アルだけだろ。俺は、ただの秘書だから」

 自分で言って項垂れたアーサーは、肩を落とした。
 アルフレッドとは以前と変わらず隣同士の家に住んでいる。が、大抵はどちらかの部屋で共に過ごし、朝はアーサーが二人分の朝食を作ってアルフレッドを起こして昼間は1日のスケジュールを管理。夕食は何処かで食べて帰ったり家で作ったり、夜は同じベッドで寝ている訳で、つまるところトイレと秘書抜きの重要な会議以外はほぼ一日中一緒にいる事になる。
 偶にサボっている時は叱り、腹を空かせていたら菓子を与え、疲れている時は髪を撫で――こんな生活を続けて、もう随分と経つ。

「嫌なのですか?」
「まさか!」

 菊の問い掛けに、アーサーは慌てて首を振った。

「……ただ、今ままでいいのかって……アイツの世話を焼くだけで、俺は良くても……他にもっと何か、俺に出来る事があるんじゃないか……アイツの為に」

 眉を寄せて悩みを吐露するアーサー。黙って見ていた菊が、何かを思い出したように小さく笑った。

「菊?」
「そんな事を言って、先日フランシスさんのお仕事をこっそり手伝った事で喧嘩なさったばかりじゃないですか」
「そ、それは……っ! だっておかしいだろ、アイツの誕生日なのにアイツの元で働いた金で何か買うなんて!」

 アルフレッドの誕生日はもう来月に控えている。結局秘密のバイトはすぐさまバレて続けられなくなり、目標金額には至らなかった。
 思い出してつい熱くなったアーサーはキリキリと眉を吊り上げ、しかし次の瞬間にはシュンと肩を落とす。

「俺……男だし、本当にアイツの傍にいて、アイツの人生ダメにしたりしねえかな。俺は……」

 もう二度とアルフレッドを失いたくない。その為の努力なら惜しまないし、ただ近くに居られたらそれで満足だ。多くは望まない。
 あまりに近付き過ぎると不安になる。触れたら壊れて、夢から醒めてしまいそうで。自分はこの幸福を享受し得るだけの価値があるだろうか。何かしていないと、いつか、またあの日のように抗えない運命のような何かにアルフレッドを奪われてしまいそうで。押し潰されそうになる。
 菊は手を翳してアーサーの言葉を遮った。

「では、考えてみましょうか。もしアルフレッドさんの傍から、アーサーさんが居なくなってしまったら……」

 アルフレッドは傍にいる事を望んでいるのに。今が幸せ過ぎて怖くなるだなんて、贅沢な悩みだと解っている。
 自然と伸びる背筋を正して菊を見た。真剣な黒い瞳と見交わし、息を呑む。多くの過去を共有する古い友人として、アーサーは菊を信頼していた。

「アルフレッドさんを朝に起こす方が、いなくなります」

 パチリと瞬き、暫し固まる。待てども話の続きが無い事に、アーサーは小さく挙手をした。

「……いや、そりゃ今は俺が毎朝起こしてるが、いなけりゃいないで何とかするだろ。アイツだってもういい大人なんだ」
「毎日毎朝、重要な会議の時もですか? 食事の支度も、公私共にアーサーさんが面倒を見ていらっしゃるんでしょう?」

「だからってなぁ……俺はそういうんじゃなくてさ、……仕事だって何だって、本当はアイツ、やろうと思えば全部自分で出来るんだ」

 そう、アーサーが四六時中ついて居なくてもアルフレッドは仕事をこなせる。そういう教育を受けて育ったのだから当然だ。秘書として有能な者なら他に幾らでもいるし、生涯を共にする伴侶だって選り取り見取りだろう。アルフレッドは、凄い奴だ。そんな相手の隣に、努力をして得た訳でもない、アーサーの為に用意された居場所に堪らなく不安になる。
 傍にいられるのは嬉しい。けれどいつかその価値に見合うだけの対価を求められた時に払える代償が、アーサーには何もない。このままでは全て失くしてしまう、抗いようもなく奪われてしまう。ようやく取り戻したアルフレッドを、いつかのように。
 アルフレッドの為に何かしているのだという、揺るぎない自信が欲しかった。

「……では、そんな完璧なのに無闇矢鱈と夢見がちで無茶な企画ばかり通そうとするアルフレッドさんを、アーサーさん以上に上手くフォローして周りと軋轢を生まないよう配慮出来る優秀な秘書官候補がいると?」
「それは……」

 考える。アルフレッドは自他共に認める強い力を持っているが、一人だけでは世界も回らない。もし誰かに引き継ぐとしたら、を想像してみる。
 秘書官として優秀な奴なら簡単に見付けられるだろう。美人なら尚いい。
 更に条件を絞ると、飲み物の淹れ方とタイミングに気を配れる奴だろうか。

 アルフレッドは普段コーヒーばかり飲んでいるが、例えば瞬きが増えて眠気を堪えている時は少し濃いめに淹れてやるだとか、口数が減って肩が下がってよく目を合わせて来るようになったら疲れている時だから熱いミルクと砂糖をたっぷり入れたカフェオレにする。同じく口数が減っていても目を合わせない時は苛々しているから、ネクタイを緩めていても人前じゃなければ目を瞑って砂糖は入れないぬるめのカフェオレがいいとか。
 これぐらいなら、すぐに覚えるかもしれない。

 ――ああそうだ、アルフレッドは定期的にアイスを食べないと調子が出ないから、常に用意は忘れないように言わないと。
 それから……一番大切な事。失敗して落ち込んでいる時は、紅茶がいい。普段は文句を言うクセに、沈んだ時に淹れてやるととても安心した顔をする。
 有能かつ信頼の出来る秘書を見繕うのは大変かもしれないが、美女という点を差し引けば、トーリス。彼ならばよく気が利くし、上手くこなせるかもしれない。

「……候補は、いる……かな」

 長考の末にアーサーはぽつりと呟いた。盗み見た菊の表情は読めない。呆れられているような気はしたが、知らない振りをする。言いたい事は、分からないでもない。それでもアーサーには、今の自分の立場がただの甘えに思えて仕方なかった。

「聞きましたよ。アルフレッドさんがご自分で会社を創られた理由」

 言われてアーサーも思い出す。アルフレッドが、突然会社を創るなんて言い出した日の事を。
 始まりは、それより少し前にした会話が原因だった。

『俺もアーサーと同じ会社を受けるよ』
『え……お前ならもっと上を目指せるだろう?』
『……君が居ない』
『お、同じ会社に入っても一緒に居られるとは限らねーぞ』
『アーサーは俺と一緒に居たくないのかい?』
『ばっ、ばか! ……バレたら、困るだろが』
『俺は構わないぞ』
『構えよ! 会社を首になったり、遠くの勤務地に飛ばされちまったら、それこそ一緒に居られねぇ』
『そうなったら、辞めて新しい仕事を探せばいいじゃないか』
『ダメだ、世間はお前が考えてるほど甘くない。それに……』
『それに?』
『お前が後ろ指差されるなんて、俺が堪えらんねえ』

 ――それから暫くして、アルフレッドが自分で会社を興すと聞いた時は驚いた。

『決めたよアーサー。俺、自分で会社を創るぞ!』
『……そうか、まあ頑張れよ』
『なに言ってるんだい、君も一緒にさ!』
『はあ!?』
『いいだろう? 俺に任せておけば大丈夫、ずっと一緒にいられるぞ』
『あー……お前の会社がナンバーワンになったら考えてやるよ』

 約束だぞ、と念を押すアルフレッドに、アーサーは不承不承頷いた。
 半分以上は冗談だと思ったし、もし本気なら好きな事をさせてやりたいとも思った。失敗したって自分がいるから大丈夫だと。
 結局はナンバーワンには未だ届かないものの、アーサーは元いた会社を辞めた。忙殺されて不摂生を極めるアルフレッドを、放っておけなかったからだ。
 ある程度地盤が固まるまで、波に乗るまで、安心して見守っていられるようになるまでは……。秘書の真似事から始まったアルフレッドのサポートは、いつの間にか正真正銘の秘書の名を冠するに至った。

「貴方が居るからこそ頑張っていらっしゃるのに、その理由が居なくなってしまってどうするのですか」
「けど……俺じゃアイツの右腕になってやれないから」

 嫌な訳ではない。傍にいて力になれるのは、純粋に嬉しい事だ。新しく学べる事も多い、が、それ以上に知らない事が多すぎて。
 付け焼き刃の知識だけで追い付ける筈も、ましてや隣に立てる筈もなく、アルフレッドが行き詰まっている時に手足となって動けるのはいつだってアーサーではない。目の当たりにする度に思う、このままでいいのかと。
 せめて最初に手を差し出された時、あの時にアルフレッドの手を取っていれば。昔も今も、良かれと思って決めた事で後悔ばかりだ。焦りが募る。じわり、涙が滲んだ。

「完璧さを求めても仕方ないでしょう」
「けど俺は……不安なんだ。本当にこのまま……」
「――力不足を引け目に感じていらっしゃるなら、そうですね……私のところへ来てみますか?」
「菊のところに?」
「ええ、アーサーさんのような方でしたらいつでも歓迎しますよ。幸い、私とアルフレッドさんのところは協力関係にあります。一から学ばれ、行く行くはアルフレッドさんの元へ戻るもよし、独立なさるもよし。もちろん私としては、やり甲斐を感じてずっと残って下さるのが一番ですが」
「俺は……」

 何処かへ居なくなりたかったんだろうか、アルフレッドの傍から離れて。漠然とした自問自答は直ぐに否定する。違う、そんな事はない。ずっと抱えていた不安がここにきて爆発しただけで、そう、ただ――。
 思いも寄らなかった誘いに目を見張って、どう答えようとしたのか……言葉は頭から吹っ飛んでしまった。
 勢いよく開けられた扉の向こうに、アルフレッドが現れたからだ。

「アーサー!」

 


 



戻る
 
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -