六月の 前編
アーサーがずっと探し求めていた彼の小さな弟はもういない。成長した今の自分を好きになって欲しいのに、時々ひどく彼に甘えたくなる気持ちを止められない。
俺はこの現象を、長い間アーサーと離れていたから甘え足りず、彼が不足している所為だと考えている。
静かな部屋の姿見の前、自分の他にもう一人映る相手に向かって呟いた。
「君はずるいよ」
俺と良く似た顔がパチリと瞬く。今この部屋には、俺と彼の二人しかいない。
つまりは誰に気を遣う必要も、格好付けたい相手も居ない訳で。遠慮なく唇を尖らせて不満を露わにする俺に、穏やかな笑みが困惑の意を示す。
「僕に言ってるの? いったい何がずるいのさ」
しょうがないな、また始まったぞと、そう思っているに違いない呆れた声に、俺は肺へ吸い込んだ空気を二酸化炭素と混ぜて吐き出すのと同等の要領で不満を述べた。つまり自然と、思うままに、てらいなく。
彼、マシュー・ウィリアムズとは、こんな気兼ねない関係が結べていると思ってる。
「だって君は、ずっとフランシスと一緒だったんだろう? 俺も子供の頃からアーサーと一緒だったら、今はもっと大人になれていたと思うんだ」
小さな俺を実の弟のように可愛がるアーサーの姿なんて、明日の未来を想像するより容易く思い浮かぶ。そうしてアーサーの愛情をたっぷり受け取って甘えたい欲求を存分に満たされた俺なら、今頃は垢抜けてキリリと落ち着いた大人の男になっていた筈なのだ。
その証拠に、対する現実ときたら兎に角アーサーが足りない。いつだって傍に置いておきたいし、離れて暮らしてる上に互いに別々の仕事に就いてるマシューとフランシスが全くもって信じられない。しかも二人共忙しくて碌に休みも合わせられないと聞く。
次第に熱の籠もる俺の弁を、マシューは溜め息で一蹴した。なんだい君、俺の一番の理解者じゃなかったのかい?
「君はアーサーさんと一緒に暮らしてても、今とあまり変わらなかったような気がするけど」
「そんな筈ないぞ」
「それに、兄弟みたいに過ごすのも案外色々あるものだよ。なかなか弟以上に見てくれない、とか。いつまでも子供扱いされるとか」
「うーん……」
なるほど確かに。いつまでも弟として俺を溺愛し続けるアーサーの姿も、昨日の夕食を思い出すより簡単に浮かんだ。けれど。
「最初は子供扱いでも構わないよ。アーサーは俺の事が大好きだからね、一緒に居ればもっと好きになって、そのうち惚れるのも時間の問題さ」
「君ねぇ……アルフレッド、その考えは少し改めた方がいい。君からは偶に犯罪の匂いがするよ……」
「どこがだい」
ムッとする俺と、グッタリしたマシュー。二人で顔を突き合わせて、笑った。
悪いのは、こんなに自信を付けさせたアーサーだ。だから責任を取って貰わなきゃ困る。その為の努力なら惜しまない。
「僕は君の方が羨ましいよ」
「そうかな」
鏡越しに俺を見詰めるマシューに、肩を竦めて見せる。
以前の俺達は、こんな風に互いを羨んだり、「もしも」の話をするのは避けるのが暗黙の了解だった。
マシューはずっと負い目を感じていたし、俺も手に入らない今を嘆くような趣味はない。けれど気付いたんだ、こんな互いの立場が入れ替わってしまうような奇天烈な体験をしたのは、お互いしかいないって。
――だったらもっと、俺達にしか出来ない楽しい話をしようじゃないか。
そう言った時のマシューの顔は呆れとも引け腰とも取れるものだったけど、今では悩み事の相談もし合っている。アーサーには言えない悩み。彼はまだ、俺が居なかった頃の話をするのは辛いみたいだから。
「君は僕に出来ない事だって、なんでも出来るからね」
「買い被りすぎだぞ」
今まであまり目立たないように過ごして来たマシューは、今苦労しているらしい。当然だ、前へ前へ出て行かなきゃいけない仕事をしているんだから――そう思うと俺の方が申し訳なくなってくるのは、きっと今が幸せだからだろう。
俺とマシューの運命を分けた大きな分岐点。
あのままアーサーの傍で過ごしていたら手に入らなかっただろう未来を、俺は手に入れた。足りない分も、これから幾らだって取り戻して行けばいい。
あったかも知れない「もしも」の未来より、更に幸せになってやるんだって思うとワクワクしないかい?
だから偶に俺達は、無い筈の未来を羨んでは叱咤激励し合うのだ。
「君に足りないのは自信さ」
情けない顔をしたマシューに言ってやる。
その時、コンコンとノックの音が響いた。
「入るよ? いい?」
フランシスの声だ。
「あっ、はい!」
マシューが慌てて返事を返す。そんなに焦らなくても、居なくなったりしないのに。
のんびり部屋に入って来たフランシスは、聖職者が纏う長いローブを引きずりながら俺とマシューを交互に見た。その視線が俺で止まる。
「おーおー、男前じゃない。流石、俺が見立てただけあるね」
「元がいいからに決まってるだろ。君こそ、神父のクセに派手過ぎやしないかい?」
「いーのいーの、一生に一度の大切な想い出になるんだから」
「君は関係ないじゃないか」
白を基調とした煌びやかな長帽子とローブを纏ったフランシスは、これでも普段は孤児院の院長をしている。経営を立て直す為のお金はウィリアムズ家が出したと聞いた。今では俺のところとマシューのところと菊のところから、慈善事業の名目で共同出資している。
俺とフランシスはそれ以外に直接関わり合いもないけど、アーサーは今でも偶に連絡を取っているらしい。それが、ちょっと、かなり、俺がフランシスを気に入らない理由だ。
「それより何しに来たんだい?」
「ああ、そうそう。支度が終わってるなら、マシューにこっちを手伝って貰おうと思ってね」
フランシスに名前を呼ばれたマシューが俺の傍を離れる。その足取りの軽い背中を見送る間もフランシスの視線を感じた俺は、目を合わせて「なに」と声を掛けた。
「うん、お前は大丈夫そうね」
「なんの話だい?」
「いやね、さっき向こうの部屋にも寄ったらさ、アーサーの奴が浮かない顔してたから」
「え、アーサーが?」
思い切り反応を示した俺に、フランシスは大したこと無いと云うように肩を竦める。
「まあアイツの事だし、またしょうもない事でも考えてるんだろうけど……って、」
「その言葉はそっくり君に返すぞ!」
「アルフレッド!?」
駆け出した俺に向かうマシューとフランシスの声が重なる。
「俺ちょっと行って来るよ!」
段取りが、とか、菊に任せておけとか、そんな言葉が聞こえたけれど知った事じゃない。
俺とアーサーを遠ざける堅苦しい決まりなんて要らないんだ。
いつだって、一分一秒でも早く逢いたい。アーサー、名前を呼ぶだけで高揚する気持ちを抑えて走る。嘘だ、抑えられる訳がない。どんな時でも彼のヒーローでいたいのに、これじゃあ笑われて仕舞うかな。
ねえアーサー、浮かない顔なんてどうしたの。
「きゃっ!」
「ごめんよ! 急いでるんだ!」
途中でエリザベータと擦れ違った。
真っ直ぐ駆ける足を止めない俺に目を丸くしていたけど、まるで俺の行き先が分かってるみたいに呆れた笑みで道を譲ってくれる。
サンクス、片手を挙げて小さく礼を告げた彼女とも、今では仕事の先々で顔を合わせているんだから、人生ホント何があるのか分からない。
アーサー、俺は君が安心して頼れる大人になれたかな。いつも君に助けられてばかりいる俺だけど、もっともっと強くなるから。君に相応しいヒーローは俺なんだって、胸を張って誇れるように。ずっとずっと一番近くで見ていてくれよ?
ねえ、俺の――。
「アーサー!」
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