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君の為に出来る事

君の為に出来る事5


『なあ……菊、どうだった?』

「とても喜んでいましたよ」

 ハンバーガーは、と心の中で付け加え、菊は携帯電話を持ち直した。
 アーサーが電話口で纏う空気が、不安げなものから少し浮上する。

『そっか……良かった。あいつんちの冷蔵庫さ、昨日見た時空っぽだったんだ』

 貴方が作って差し上げればいいのに……と言えないのがこの人の悲しい所だ。

「折角買って来たのですから、ご自分でお渡しすれば宜しかったのに」

『お、俺は……嫌われてっから……』

 通話の向こうで声のトーンが一気に落ちる。
 しかし最初にアーサーから話を伺った時はその言葉も鵜呑みにしてしまったが、実際会ってみると全然そんな風には見えなかった。
 きっと何か誤解があるに違いない。

「――もっとお話されてみては如何ですか? 嫌ってると云う感じでは有りませんでしたよ?」

『えっ? で、でも……』

 言葉に詰まったアーサーと一言二言交わして、通話を切る。
 アーサーは、最後まで不安げだった。
 泣き腫らした目で紙袋を託された時は、どうなる事かと思ったが──。

 菊は先程の、アルフレッドに良く似た「マシュー」と名乗る青年との会話を思い起こす。

 ──自分は、少し嘘をついた。
 幼いアルフレッドは確かにアーサーのスコーンを"美味しい"と言って食べてはいたが、実際に美味しく感じながら食べていたかと言うと、そうではない。

(スコーンがアーサーさんの手作りと知った時の顔、似てる気がする……)

 あの驚きと複雑さの混じった顔が、遠い記憶の中で困ったように笑うあの子に。
 それに、あのアーサーのスコーンを食べて不味いと言いながらも平然として居られる事は、誰にでも出来る事ではない。

「……記憶喪失、ですか……」

 アーサーには伝えられなかった言葉を、確認するように小さく音に乗せる。
 幼い頃の記憶が無いと言った彼――。
 自分には、彼とアルフレッドが同一人物かは判断しかねるけれど、アーサーが感じるのなら、もしかして。

(――もしかするかも知れませんね……)

 そうすれば、自分の胸の内に燻るこの思いも、少しは晴れてくれるだろうか。
 菊はそうである事を祈った。




  ◇◇◇




(……何で、教えたんだろう……)

 俺は"アルフレッド"じゃないんだから、記憶喪失だなんて……あんな事を教える必要はないのに。
 菊の背を見送った後も暫く玄関でぼんやりとしていた俺は、リビングへ戻ると紙袋の中に残ったスコーンを再び手に取った。

「……やっぱりマズいよ」

 小さく漏らした声に返る言葉はない。

(と言うかこれ、全部俺が食べなきゃいけないのかい?)

 スコーンを前に途方に暮れていると、不意に携帯が鳴る。
 画面を見ると、番号を交換したばかりのロヴィーノからのようで。

『よお、今日は……っ昨日もか。わ、悪かったな! その、色々……。そ、それで『ヴェー、一緒に遊ぼうよ〜!』あ! こら! 俺が話してるだろが!!』

 受話口の向こうで揉めているロヴィーノとフェリシアーノの声に、更に背後の方から複数人の笑い声が重る。
 話の内容を要約すると、どうやら遊びのお誘いのようだった。

「本当かい? すぐ行くよ」

 1人でいたら余計な事ばかり考えてしまいそうで、俺は返事一つで了承する。

(そうだ……、俺に残された自由はこの在学期間しかないんだ。もっと今を楽しまないと)

 手の中に残るスコーンを一口で含んで無理矢理飲み込んで。
 俺は支度をする為に、2階にある自室を目指した。



  * * *



 結局昨日はロヴィーノ達と遅くまで遊び呆け、ゲームセンターで盛り上がってる内に終電を逃してしまったので、一番近かったヴァルガス兄弟の家に泊まらせて貰った。
 他にも帰る手段がない数人と狭い部屋の中で雑魚寝して騒いで、みんな纏めてヴァルガス兄弟の母親に叱られて。

 嗚呼……そうだ。
 俺がやりたかったのは、こういうのだ。
 家を出てまで手に入れたかったものは、眉毛男との非日常的な生活なんかではなく。

 だから、放課後になって家に帰るこの足が重いのは、きっとまだ遊び足りないからで。
 何かしてないと脳裏を過ぎる誰かの、強烈なのは眉の太さだけじゃなかった泣き顔の所為なんかじゃなくて。

 かと言って、今この足が向かう先が俺が先日から住み始めたばかりの新居ではなく、――もっと住み慣れた筈の我が家へ向かっているからでも、決して……ない。



 学校に一番近い駅から電車で1時間ほど行った、さして遠くもない街につい最近まで俺が住んでいた家はある。
 駅まで俺を迎えに来た車の顔見知りの運転手は、俺がもっと早く連絡をしていたら学校まで迎えに行ったのにと至って真面目な顔で言う。
 勘弁して欲しい。こんなツヤツヤピカピカで窓が黒い車なんかに迎えに来られたら、俺のスクールライフが壊れてしまうじゃないか。
 俺は「一般の交通網を把握して於く事もウィリアムズ家の跡取りとして必要な――」なんて今思い付いたばかりの事を適当に述べる。

 アーサーにあっさり看破されてからと云うもの、自信を失くしてロヴィーノ達の前でも素で居たから久し振りの"僕"にも、うちのお抱え運転手は「素晴らしい!」と褒めるばかりだった。
 その反応はこの運転手に限った事ではない。
 だから、人の扱いなんて簡単だとばかり思っていたんだ。

 ……彼に、逢うまで。

(ああ、もう……!)

 油断した所為でまた蘇り掛けた泣き顔を、慌てて頭の中から追い出す。

 もう彼の驚いた顔も蕩けた笑顔も、思い出せなくなっていた。





 家に着くと、まずは"アルフレッドの屋敷"なんて当てにならない噂なんかじゃなく、正真正銘屋敷と呼ぶに相応しい大きな門と広い庭が俺を迎える。
 そして重い扉を開かれた玄関の前でゆっくりと停止した車から降り立つと、次に迎えてくれるのは使用人達。

 俺は何だか早くも疲れて来て、いつもなら欠かさない「お疲れ様」と笑顔のオプションもサボってしまった。
 嗚呼、"僕"を失敗してしまったかも知れない。

 喩えサイズが一般より規格外の大きさだろうと、住み慣れた我が家の廊下を歩きながら、俺はあの、此処と比べればとても小さな新居が早くも恋しくなってしまった。
 もしかして自分は狭い場所が好きなのかも知れない。
 小さな家の自分の部屋より更に狭い、ロヴィーノの部屋で明かした一夜も楽しかった。


 ウィリアムズ家は有数の資産家で、俺はそのウィリアムズ家の御曹司、になる。何だか似合わなくてむず痒いけど。
 ある意味に於いて何不自由無く暮らして来た代わりに、それなりの制限や定められた将来があるのは仕方無い事だと思ってるし、やり甲斐も感じている。

 それなのに……時折酷く違和感を覚えるのは何故だろう。

 そうこうしている内に、俺がこの家に帰って来た目的の部屋へと到着してしまった。
 何度か深呼吸をして、扉をノックする。
 部屋の中から返る返事を確認してから足を踏み入れた。


「ただいま、母さん」

「……誰?」
「マシューだよ」

 安楽椅子に座って本を読んでいた相手の前まで歩を進めて、膝を着いて視線を合わせる。

 この、アーサーよりも華奢で小柄な女性が俺の母さんだ。
 否、比較対象を間違えた。
 性別が違うんだから当たり前じゃないか。俺はアーサーの事はもう考えないようにと、ゆっくり深呼吸をした。

「昨日は心配かけて、すみませんでした」

 そう、何故俺が引っ越して僅か4日目にしてこの家へ戻って来たかと言うと、間の悪い事に昨夜、しかも携帯電話ではなく家の固定電話に掛かって来ていた電話を俺が取らなかったからだ。
 取らなかったと言うより、取れなかった。なんせ昨夜は家に帰らなかったのだから。
 そうして昨夜の内に留守電のメッセージを確認して電話を掛け直さなかった事で、今朝になって携帯電話の方にも連絡が入り、こうして呼び出しを喰らう羽目になってしまった訳だ。
 将来有望とされている御曹司が夜遊びなんて駄目だろう。俺もそれなりに反省していた。

「? なんのことかしら? それより新しい学校はどう? マシューは優しくて良い子だから、きっとお友達もすぐに沢山できるわ」

 しかし、当の本人が忘れているようなので俺も敢えて追求したりはしない。
 そして取り留めのない会話を繰り返し、俺がそろそろ家に……新居の方へ帰ろうと腰を上げた時。

「あら、マシュー……そう言えばクマ二郎さんはどうしたの? ぬいぐるみの、いつも連れて歩いていたじゃない」

 記憶を探る、そんなものを連れて歩いた覚えは無い。
 また病状が悪化してしまったんだろうか。

「捨ててしまったんじゃないかな? 僕ももう、そんな歳じゃないしね」

 母さんの記憶は、喩えるなら永遠に終わらない複雑なパズルのように歪な形をしていた。
 ポロポロと零れ落ちてしまう記憶の欠片は、簡単に嵌め直せる事もあれば、其のまま戻らない事もある。
 そして時に昔の事を最近の事のように思い出したり、破れた記憶の欠片が混合したりする。
 だから母さんと会う時は、大抵自己紹介から始まる。
 なるべく傷付けないように言葉を選んだつもりだったけど、寂しそうに揺らぐ瞳が、何故だかアーサーと重なった。

 ――そんな風に、俺だって好きで失くした訳じゃない記憶を責めるように、俺を見ないで欲しい。

「っ……じゃ、じゃあ僕……そろそろ行くね、今度からはちゃんと連絡するから……母さんも身体に気を付けて!」

 足早に部屋を後にすると、そのまま車の送迎も断って敷地内を飛び出した。
 今日は失態ばかりだ。
 それもこれも……と何かに八つ当たるには、最近の自分は省みる点が多過ぎる。




「あ、マシュー! ……マシュー…? って……誰だったかしら……」

 部屋を出て行く背中に向かって伸ばされる細い指。呟く声は、音を立てて閉ざした扉に阻まれて、誰の耳にも届かなかった。

 



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