君の為に出来る事18
「ふー……っ」
騒がしい日々は一瞬で終わり、もどかしい毎日も今や過去となった。
誰に言われずとも、人の気配が失せた住処が其れを物語っている。
家の中に居るのが落ち着かなくて外へ出て来たが、結局は何処にいた所で同じだった。
吐き出した紫煙をぼんやりと眺める。
否、こんな気持ちになるのは筋違いだ。
フランシスは首を左右に振って意識の切り替えを図る。
自分は今、望み通りに叶った結果に喜びを噛み締めていなければならない。
そうだ、これで良かったんだ。
これであの子の幸せは約束された。
後は自分が、この街を遠く遠く離れさえすれば――。
立ち退きを迫られてからずっと考えていた。どうせ残り幾許も居られないのだ、直ぐに出て行ったって同じ事。荷物は既に纏めてある。
「……10年ってのは、長いな……」
短くなった煙草を携帯灰皿で揉み消して、衣服のポケットを探った。
昨日から何本吸ったか覚えてないが、まだあった筈。
そうして取り出した箱は軽く、最後の一本を取り出して握り潰す。
火を付けようとした所でふと視界に映り込んだ人影に、銜えたばかりの其れがポトリと草の上に落ちて転がった。
「フランシスさんって、タバコ吸う人だったんですね」
「マシュー……お前、どうして此処に……」
見詰める先、木漏れ日の中で穏やかな紫がゆらりと揺れて真摯な光りを湛える。
「……僕も、本気だから。あなたを奪いに来ました」
フランシスが何も言えずにいると、マシューは唇をきゅっと噛み締めて、言葉を続けた。
「もう……自分の境遇を嘆いたり、勝手に決め付けて諦める事はやめにしたんです」
マシューが手にしていた紙面を広げた。フランシスがいる場所から見ても震えているのが見て取れる指先が、開いて此方に掲げている。
「――この辺り一帯の、土地の権利書です。貴方を……何処にも、行かせません」
「マシュー、俺は……」
「逃げないで下さい。この場所を大切に想っている人が、他にもいます……。この土地を良く知る貴方の協力が必要なんです。だから僕に、力を貸してくれませんか……?」
嗚呼、どうしてこう。
自分は大人で、自分が護ってやらねばならないのに。
何故こんなにも、弱くて可愛らしい筈の存在が、強く眩しく映るのだろうか。
「……俺も、負けてられないな……」
真っ直ぐ返せずにいた視線を、正面から受け留めて両手を広げる。
10年は長い。
眼差しと表情一つで気持ちを伝える事が出来る。
けれどこれからは、もっと別の形でも伝えて行こう。
――そんな関係を、これから君と。
◇◇◇
『アーサー……おれがいなくなっても、かならず見つけてくれるかい?』
夢現に幼いアルフレッドの声が聴こえた。
暫く見ていなかった、馴染み深い夢。
『うんっ、約束だよ!』
綻ぶ笑みに、自分はそれ以上の笑みを浮かべて応えて。
(ああ、見つけたよ。約束通り)
夢の中の自分が、アルフレッドと結んだ小指を解いて髪を撫でるのを見ながらアーサーは思う。
以前は夢の中の自分が自分そのものだった筈なのに、今は違うと分かった。
喩えるならそう。大気のように、風のように。
自分は今、只この二人を見守っている。
忘れたくない、褪せてはいけない、そうやって必死に掻き集めていた記憶は、どうやら漸く想い出となったらしい。
『怖くなったら、俺を呼べばいい』
夢の中の自分が言う。
(そうだな)
夢の中の自分に応える。
その子の声に、名前を呼ばれるのがとても好きだった。
もちろん今も。
『……うん。なら……──』
不意に声が途切れた。
夢の世界の二人を置いて、意識が徐々に浮上し始める。
もう寂しくない。
寝ても覚めてもあいつがいるから。
なあ?
「……アルフレッド……」
「なに?」
「……あ? ──……ッ……!」
夢現の無意識下で呼んだ筈の名前に返事が寄越され、アーサーは音がしそうなほど思い切り目を見開いた。
そうして其のままの勢いで反射的に上肢を起こそうと身体が勝手に動き。
「〜〜〜ッッ!!」
撃沈した。
「まだ動かない方が……って遅かったみたいだね」
浮かせた頭が元の位置であるアルフレッドの二の腕の上へ落ちる。
にも関わらず眉一つ動かさない逞しい腕に受け留められ、夢にまで見た愛しい相貌に覗き込ませた。
抱き寄せられて其の温もりに包まれる。
「……お前が、急に驚かすからだろ……」
苦悶に歪む表情を胸元へと擦り付けながら、主に下肢の方、あらぬ場所に感じる痛みで呻く。
「君が呼んだんじゃないか」
微笑う気配と共にずり落ちたシーツを掛け直されて、節張った指先に頬を撫でられる。
一人だけ余裕でいるアルフレッドに恨めしさを覚えてキッと睨めば、返されるのは喜色の滲む柔らかい笑み。
「……っ……」
瞬間高鳴る鼓動には、どうしたって自分を誤魔化せる筈もなくて。
つられて恨めしさなど吹き飛んでしまうと、アーサーは所在なさげに移ろう視線の先をややあってからアルフレッドと合わせた。
伏し目がちになってしまうのは、まだ昨夜のあれやこれやが記憶に真新しくて恥ずかしいからだ。
しかしどんなに恥ずかしかろうと、目を逸らしてしまうのは勿体無い。
(……アルだ……。アルフレッドが此処に、俺の隣にいる……)
徐にアルフレッドの頬へと手を伸ばして、その存在を確かめるように撫でる。
「アルフレッド……」
「なに?」
今度は夢現などではなくて明瞭な声で呼び掛けると、先程と同じように返される短い言葉。紡ぐのは穏やかな声。
柔和に微笑う目許が、嬉しげに綻んでいる。
「……アルだ」
「うん」
言葉と共に、頬へ添えた手に重ねられる掌の大きさは、昔とは違うもの。けれどその存在感をしっかりと伝えてくれた。
アルフレッドが確かに此処に居る事実。それ以外に、他に何が必要だと言うのか。
歓喜に沸き立つ身体が、心が、魂が、嬉しさで泣いているように全身から溢れて止まない幸福を少しでも伝えたくて、アーサーはアルフレッドの胸に頬を擦り寄せた。
とくとくと聴こえる心音が、温かくて、暖かい。
「……アル……」
「うん、……なに?」
「呼んだだけだ」
胸元に額を押し付けたまま夢見心地で呟くと、頭の上で笑みが聴こえた。
「俺にも呼ばせてよ」
本当に泣いてしまいそうだった双眸が、顎を掬われて上向かされる。
「君の名前……ずっと呼びたかったんだ」
紡がれる音にツンと痛くなる目鼻の奥を堪えて見詰め返して。
頷いてしまえば、其の反動で涙が零れ落ちそうだったから黙って視線を合わせた。
「アーサー」
「……っ……」
喜色満面に綻ぶ笑みを見せられて、言葉に詰まる。
笑いながら、泣きながら、時には怒りながら、困った時に助けを呼ぶ時も、何度も何度も呼ばれた自分の名前。
ずっと呼ばれたかった。
これからもずっと、その声に呼ばれたい。
呼んで欲しい。ずっとずっと。
「……ア、ル……」
目の奥からじわじわと込み上げる熱量を、瞬きを我慢する事でやり過ごす。
アルフレッドに応えるべく、アーサーは口を開いた。
「お……おう。なんだ? アルフレッド」
声が震えないように、目鼻の奥にグッと力を込めて紡ぐ。
呼んだだけだと返されたら、無茶苦茶に抱き締めてやろう。
自分が今どんな顔をしてるか判らないけれど、綺麗に微笑えていれば良いとアーサーは願った。
見詰める先のアルフレッドは、じっとアーサーを見詰め返して。
「……………………ぷっ……」
突然噴き出した。
人差し指で鼻先を突かれ、アーサーは眦を吊り上げる。
「なっ!? ンでそこで笑うんだよ!」
「だって……今……君、鼻の穴……広がって……っ」
「!? 〜〜〜ッ!!」
顔が熱くなるのを感じながら掌で鼻と口を覆うアーサーの瞳の奥から、今度は別の涙がじわじわと溢れて来る。
「お前なぁ〜〜!」
思わず振り上げた反対の手は、握った拳をアルフレッドの掌に包まれて。
其のまま腰を抱き寄せられて互いの素肌が重なった。
「そう言えば、君がファーストキスとか言ってた件だけどね」
思い出したように告げられる言葉。ぴくりと反応するアーサーが言葉を紡ぐ前に、アルフレッドが続ける。
「違うよ」
「……へ?」
「だから……君のファーストキスがマシューだって話だよ。違うんだぞ」
「いや……だから……、なんで」
「…………君が家の外で俺を待ってて、そのまま寝ちゃった時があったろ?」
アーサーは話の流れを掴み兼ねつつも、思い当たる記憶は直ぐに浮かんだので頷いた。
「ああ……あったな」
「その時……さ、寝てる君にキスしたんだよね。俺」
「……え? は? ……はぁぁぁあ!?」
「だからアーサーのファーストキスは俺なんだぞ! って事さ!」
ぎゅうと腕に力が込められて一瞬流され掛けるも、アーサーは納得いかない思いで叫んだ。
「な……んだよそれ! ずりぃ! 覚えてねーよばか! つかお前あの時……っあぁもう!」
思えば夢現の中でされたような気もする。
けれども、あくまでそんな気がするだけだ。
しかし其れすらも自分を包む温もりの前では些細な事で、アーサーは自分からも腕を回して抱き締め返す。
「アーサー、そろそろ食事にしないかい? お腹がペコペコだよ……。君のスコーンが食べたいな」
首筋に顔を埋めながら紡がれる言葉に、些細な事さえ消し飛んで、アーサーは頬を緩めた。
「は……はは、お前は俺のスコーンが好物だからな!」
「う〜ん……」
「なんで即答しねぇんだよ!」
DDD、とからかうように笑いながらアルフレッドは思う。
昔の自分は嘘吐きだ。
この人のスコーンが美味しいだなんて。
けれど、嫌いじゃない。
こうしてふとした時に無性に食べたくなってしまうのは、決して味が如何とかじゃなくて。
「……ねぇ、アーサー。……毎日俺の朝ご飯を作ってくれないかい?」
「ん? そりゃ作ってやりてぇけどよ。朝は難しい時も有るからな……夜なら」
「君ねぇ……」
「な、なんだよ其の顔!」
「君は実に馬鹿だね」
呆れたように寄せられた眉間、口を衝いて出る言葉とは裏腹の柔い笑みに、アーサーは反論を呑み込んで押し黙る。
「もう少しくらい察してくれても良いじゃないか……今のは、世間一般ではプロポーズの言葉なんだぞ!」
「……プロ……っ……!?」
「ウィリアムズの……もう一人の父さんに株も教わって個人資産を持っているから、俺がいれば一生安泰さ!」
「なっ、……ちょっ、待てよ……!」
「駄目なのかい……?」
「ん……な事、言ってねぇだろが……お前の隣は、もう俺のもんだって決まってんだよ、む……昔からな!」
「うん。なら──……アーサー、俺から離れないでくれよ?」
真剣な眼差し。きゅ、と寄せられた眉がハの字に下がる其の表情には見覚えがあった。
(……あ、この台詞……そうだ……)
求められている。擽ったいその感覚が、霞みがかっていた遠い記憶を呼び起こした。
『……うん。なら──……アーサー……俺から離れないでね?』
「俺は、アーサーのヒーローなんだから!」
『アーサーは、俺のヒーローなんだから!』
過去と今が、アーサーの目の前でそっと重なった。
「ばぁぁか、俺が護ってやるっつーの」
「何だいそれ。俺がヒーローだって言ってるじゃないか! もう、……ねぇアーサー、何かして欲しい事はないかい? 君の為に出来る事」
「そんなの俺の台詞だ。お前、俺がどれほどお前を想って来たか知らねぇだろ」
「じゃあ教えてよ。俺も負けないけどね!」
「望むところだ!」
抱き合って、笑い合う。
きっとこれからも探し続けるよ。
(お前の、)
(──君の、)
二人の為に出来る事。
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