君の為に出来る事17
マシューと別れ、先刻アーサーが指差していた方向へ足を進める。
逸る気持ちの侭に自然と上がる速度も気付かず足早で歩むと、一台の車の前に二人の人影が見えた。
一人は遠目からでも見紛う事は無い、つい先程別れたばかりのアーサー。その隣にいるのは……。
「……ッ!?」
「ぐえ! ア……アル…?」
手を伸ばし、乱暴にアーサーを引ったくって自分の腕の中に囲った。
警戒心も露わに目の前の男を睨み付ける。
さっきの今で忘れる筈が無い。この薄ら笑いを浮かべる髭の男は。
「よお、アルフレッド・カークランドくん?」
「……は?」
――結婚式で神父として壇上に立っていた男、の筈だ。
今はローブを脱ぎ、身軽な格好をしては居るけれど。
呼ばれた名が、記憶の琴線に引っ掛かる。
苛立ちながら暫し見詰め……思い出した。
「あの時、朝に会った怪しい奴……!」
「お前ら知り合いだったのか?」
俺に羽交い締めにされながら、アーサーが顔を上げて問う。
漸く少し我に返ってアーサーを解放すると、代わりに彼を庇うように前へ進み出た。
「……アーサーこそ、なんでこんな奴と……」
「こんな奴だけど足があると便利だろ?」
アーサーがコン、と手の甲で車を小突く。
なるほど……なんて納得出来る訳が無い。
「ちょっとちょっと、お兄さんの扱い酷くない?」
確か名刺に書かれていた名はフランシス、だった気がする男の存在は無視をする。
(君達こそ一体いつ……それより、何で一緒に……)
「つかアルフレッド・カークランドって何だよ。……な、なんか本当に兄弟みたいだなそれ」
「同じファミリーネームでも、坊ちゃんがもーっと嬉しそうな顔になれる関係……お兄さんが神の名のもとに祝福してやろうか?」
「う、うるせぇバカ! バカ! 黙れ髭!」
二人の話の流れに付いて行けない。
アーサーに、訊きたい事が沢山あるんだ。
あの事故の後、俺が居ない間に何処で何をしてたのか。他にも色々――。
今にも殴りかからんとするアーサーの肩を、俺は両手で掴んで自分の方を向かせた。
「っ……アーサ……!」
驚いた翡翠が俺だけを映した丁度その時、車の窓が音を立ててスライドして。
「お取り込み中すみません。……ですが、一応我々は花婿を強奪した身ですので……宜しければ、お話の続きは車の中で致しませんか?」
助手席から顔を覗かせた黒髪で小柄な彼が、驚いている俺を見て柔らかく微笑う。
「……菊…? どうして君まで……」
「スプリンクラーを作動させたのは私です。お二人とも……ご無事で本当に何より。全く、心配を掛けて……私の寿命がどれほど縮んだと思っているんですか」
俺とアーサーを交互に見て、隠し切れていない嬉しさのまま怒る素振りを見せる菊に、アーサーが素直に謝っているから俺も謝った。
促されるままに、アーサーと二人で後部座席へと乗り込む。
ぼんやりと教会を振り返っていたフランシスも、アーサーに短く呼ばれて運転席に乗り込んだ。
車が発進すると、先ずは菊からアーサーが病院から脱走していた事を教えられた。
絶句する俺と焦って制止しようとするアーサーを余所に、今度はフランシスがそんなアーサーが泥だらけで死体のように転がっていた所を回収したと、バックミラー越しの不快な笑みと共に伝えて来る。
「てめぇじゃねーだろバカ!」と後ろから首を絞めるアーサーと其れを止めさせようとする菊。運転席でもがいているフランシス。
そんな光景を見て俺は考える。
フランシスじゃないなら誰がアーサーを?
さっきから、此処にはいないもう一人の存在が頭を掠めて離れない。
マシューとアーサーは一体いつ知り合って、一体いつ……。
「……アルフレッド?」
「っ……あ……、……アーサー」
少し意識を飛ばしていたのか、心配そうに呼ばれる名前と重ねられる手の温もりに我に返った俺は、自分の靴からアーサーへと視線を移す。
「……アル……もう大丈夫だからな。お前はアルフレッドだ」
ぎゅうと手に力が込められて、必死の相貌が俺を見た。
根拠もないアーサーの「大丈夫」が胸に染みて俺に人心地つかせてくれる。
「……ありがとう、アーサー」
微笑って言うと、アーサーも安堵したように微笑って再び前を向いた。
家への道程を指示する声に耳を澄まして、背凭れへと深く身を沈める。
ふとした拍子に牙を剥きそうになる凶暴な気持ちを胸底に沈めて。
重ねられた掌を、俺からもそっと握り返した。
(……アーサー。もう、君を傷付けたくないよ……)
「じゃあな、しっかり菊を家まで送れよ! 菊……色々悪かっ――」
「どうか、謝罪よりも笑顔を。……ではフランシスさん、すみませんが、お願い致します」
「はいよ」
「っあ……おい! お前、マシューは…」
「……子供は子供らしく、自分の心配でもしてなさい」
運転席の窓から手を伸ばしてアーサーの髪をグシャグシャに掻き回すと、フランシスが俺を見る。
まるで俺が、アーサーが自分の心配をしなければいけない事をすると、そんな訳など無いのに見透かされているような気になって、俺はその深い蒼を睨んだ。
(違う、俺は……次にアーサーと逢ったら優しくしようって決めてたんだ)
俺とアーサーを降ろして再び走り出した車を見送って。
ちらちらと俺に視線を送りながら少し迷う素振りを見せた後、二つ並んだ俺達の家のうち俺の家に向かって歩くアーサーの背に続いた。
紅く染まった耳に、心が優しい気持ちになる。
「アルフレッド、鍵……は、有る訳ねぇよな。……あ、」
何か思い付いたらしいアーサーが、手ぶらな俺に「ちょっと其処で待ってろ」と言い於いて庭の方へと回る。
迷いない足取りが窓の前で止まって、ガラリと窓硝子を開けた。
「……何でアーサーがその窓に鍵が掛かって無い事を知ってるのさ……」
否。そもそも窓には常に鍵を掛けていた筈だ。アーサーじゃあるまいし。
「ばっか、お前、俺が朝に来た時は玄関が開いてたんだからな!?」
つまりその時、内側から玄関を閉めて窓から出たのか……自分の家の鍵は掛け忘れるクセに。
窓枠に足を掛けたアーサーが身軽に室内へと姿を消す。
家を出る時は慌てていたから、確かに掛け忘れていたかも知れない。
内側から鍵が開けられる音に続いて「いいぞ」の声。
一体何のつもりだと訝しみながらドアノブを引いた先には、目許を柔和に綻ばせたアーサーが、両手を広げて立っていた。
蕩けるような微笑みが惜しげもなく向けられる。
「……おかえり、アル」
ふらふらと吸い寄せられるように足を踏み入れると、背後で扉が閉まる音。
結局引っ越して来てから殆ど手付かずの家は、アーサーが片付けてくれた侭で。
彼の肩越し、開けっ放しの扉の奥にリビングの様子が映る。
その内装は、忘れていた遠い記憶と重なった。
引っ越し業者に適当に運ばせた重い家具類を、一人で唸りながら配置変えしていた背中が思い起こされる。
見てないで手伝えよと言った彼の言葉を、無碍に断った俺。
じわりと目頭が熱くなって僅かの距離を夢中で詰めると、すっかり俺より小さくなってしまった身体を抱き締めた。
「君は……本当に馬鹿だ……。昔からちっとも変わらない。……俺は、こんなに変わってしまったのに」
背中に回されたアーサーの手が、優しく俺を撫でる。
蘇った記憶は最近の事のように思い出せるのに、何故昔のように純粋な優しい気持ちだけでいられないんだろう。
大人になった今なら、アーサーの為に何だって出来ると思ったのに。
「何だよそれ。……つか、変わっても変わらなくても、お前はお前だろ? 俺だって同じだ。前にも言ったろ?」
優しい声が、血流に混ざって全身を巡るように胸に染み入る。
ゆっくりと背を撫でる手に徐々に心が凪いで行き。
「アーサー……」
「……アル……」
甘えるみたいに首筋に鼻を擦り寄せたら、突然腕を突っ張られた。
「……っ待て! 俺昨日から風呂入ってねぇ!」
するりと腕中を抜け出て、ばたばたと駆けて行く背中が「タオルと服、あとシャワー借りるぞ!」と声を張る。
俺は返事をしなかったけど、アーサーは気に留めた様子も無くて。
(……今、首に……紅い痕が……)
穏やかだった俺の胸が、脳裏に蘇ったマシューの言葉で鈍く軋んだ。
* * *
「頭洗ったら砂が滅茶苦茶落ちて来てさ、いやーサッパリした」
彼が荷物を紐解いたのだから当たり前だけど、俺よりもこの家に詳しいアーサーだ。
そんな彼が、俺が部屋着に持って来たゆったりとしたシャツとハーフパンツに身を包み、ペタペタと足音を響かせながら俺の部屋にやって来た。
肩に掛けているタオルでガシガシ頭を拭うと、サイズが合ってなくて半分肩から落ちているシャツから露出した肌の上に小さく咲いた紅い痕。
途端にザワリと腹の底から這い上がる何かを、アーサーから目を逸らして堪える。
(落ち着け……俺。これからは優しくするって決めたじゃないか……)
アーサーはベッドに座る俺の隣に静かに腰を降ろした。
そわそわと身を揺らす様子は、何か言葉を探しているようで。
「なあ、アル……俺……」
「……酷い事をされたって本当なのかい?」
話したい事は沢山あった筈なのに、するりと口をついて出たのはそんな言葉だった。
「えっ、は? 酷い事? 誰にだ?」
「……マシューに、聴いたんだ……」
何かの誤解であれば良い、そんな俺の願いが聞き入れられる事はなく、アーサーはバツが悪そうに頬を掻いた。
「あ、……あー………まあ、その、初めてはお前が良かったんだけどな……はは、って俺は何言って……! 今のナシ! ナシな!」
アーサーは俺に言葉を挟む隙を与えず捲くし立てる。
「っつか酷い事って程でもねぇし言い出したのはあの髭だし挑発したのは俺だし! あいつは悪くねーよっ……それに俺は、こうしてお前を取り戻せただけでも……」
マシューを庇うアーサーが、俺を見て本当に満足そうに微笑う。
「……アル、俺……お前の事が……」
次に気恥ずかしげに俯いた顔を耳まで赤くして、何事かを言わんとしているアーサーを前に、俺の身体は否応なく思い出してしまった言葉で熱くなった。
『君の為なら簡単に身体を差し出す』
腹の底から湧き上がる怒りで、火を噴きそうだと思った。
「っ黙りなよ!」
止めろと、確かに叫ぶ胸中の自分の声を無視してアーサーの肩を捕らえると、一方的に唇を塞ぐ。
重ねた唇から、触れた指先から、噴き出す黒い焔で彼まで焦がしてしまいそうだと思ったけれど、止める術が解らなかった。
「んっ! ンンッ、……ふっ……アル! 何……」
少し体重を掛けただけで、アーサーの身体は簡単にシーツの上に転がった。
俺の身体を押し返そうと抵抗する腕を邪魔に思い、彼の首に掛かっていたタオルを毟り取って頭の上で一括りにする。
「……アル……?」
見上げる瞳は、先程のキスの息苦しさからか目の縁に涙が浮かんでいて、罪悪感に一度は我に返り掛けたけど。
心を蝕む苦い思いで無意識に表情が歪む。
忘れたいのに忘れられないマシューの言葉が、幾つも浮かんでは消えずにグルグルと体内で渦を巻いた。
(……駄目だ。止まれ……止まってくれ……っ!)
微かに肩で喘ぐアーサーは、それでも身の危険より俺への信頼や状況への驚きが勝るのか、無防備にも薄く開かれた唇から何度も俺の名を呼ぶ。
「アル……? どうした?」
手首で拘束された両手が頬へと伸ばされて、理不尽にも俺の方が泣きそうになりながら、無言でアーサーの服に手を掛けた。
「アル? ちょっ……! なにして……! やめ……アルフレッドッ!」
制止の声を無視して、剥き出しの本能が赴く侭に事を進める。
「痛い……痛い! 何すんだよ……ッ! うっく……消えるから……そんなに俺が嫌いなら、ちゃんとお前の前から居なくなるから……アル……ごめ、っ……」
震える彼の言葉に漸く動きを止めた。何か可笑しい。俺は、君を嫌ってなんか居ない。俺は……。
のろのろと身を起こして、アーサーを見下ろした。
涙でぐしゃぐしゃの顔が、隠す事も赦されずに横へ逸らされている。
「……アーサー……? きみ……マシューと……」
「ひ…っく……キスされた……。あと、首に噛み付かれた……」
「……それだけ……?」
「……ひっ、ふっく……うう……」
しゃくり上げるのを堪えながら、思い出すように暫し動きを止めて思考を巡らせた様子の彼が、一度だけ大きく首肯する。
「じゃあ、初めてって……」
俺が良かったって……何が?
「ファ……ファーストキス……」
「………」
やられた…!
否、確かにあの見るからに穏やかで気弱そうな青年から直接聴いた訳では無かったけれど。
いよいよ発散する対象を失った怒りに思わず壁を殴ると、すっかり怯えた様子のアーサーが肩を震わせた。
「っ……アーサー……ごめん、謝って済む事じゃないけど、ごめん……」
「――俺の事、嫌いになったんじゃ……」
「そんな事無い! アーサー……、君が好きなんだ。何よりも君の幸せを願うのに、君を……他の誰にも渡したくない」
濡れた翡翠からまた新たな雫が溢れる。
拘束していた手首を解くと、アーサーはその腕を俺の首に回してぎゅうと縮こまった。
俺も浮いた背に腕を回して抱き締める。
「……アル……ッ…! 俺も…俺もお前が好きなんだ。……っ、俺が先に言おうと思ってたんだからなっ、ばかぁ……!」
「アーサー……」
縋り付く身体を宥めて少し離す。
直ぐに鼻先を擦り寄せてくるアーサーに額を合わせて。
伏せた瞼の縁から音もなく流れる雫を止めたくて、何度も唇で啄んだ。
互いの前髪を擦り合わせて至近距離から覗き込む。
「……今度こそ優しくするから、続き……して良いかい?」
「お、俺……まだ心の準備が……」
「君を怖がらせた侭にして於きたくないんだ、アーサー……」
名前を呼ぶと我ながら情け無い声が出て、狡いと思った。
アーサーが唇をきゅっと引き結ぶ。首に絡んだままの腕に抱き寄せられる力強さと、アーサーからの二度目のキスが、返事の代わりだった。
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