君の為に出来る事16
「こっちだ!」
イベントに用いる為だけに造られた形だけの教会を後にして、アーサーの声に従い、景観を彩る木々の合間を突っ切るべく舗装された道から進行方向を横へと逸らした時。
「っ……待って!」
聞こえた声にアーサーと二人で振り返る。
少し離れた其処には、先程は後ろ姿しか確認出来なかったマシューと思しき人物が立っていた。
「……あの……僕……、」
真っ直ぐと向けられる紫の双眸と肩で息をする様相に応えるように、俺も身体ごと振り返る。
隣のアーサーが挙動不審に俺とマシューとを見交わして。少し迷う素振りを見せた後に、握り返されていた手が緩められた。
「お、俺……先に行ってるな」
「……分かった」
彼の言葉に了承を返して繋いだ手を解く。
離れる瞬間、ぴくりと動いて再び握り返そうとしたアーサーの指先が、のろのろと俺からその熱を離す。
不安そうに見上げる翡翠に、俺はなるべく柔らかい笑みを浮かべて。
「――あっちで良いのかい? 直ぐに行くよ、……必ず」
アーサーが向かおうとしていた先を指差して言うと、アーサーの眉間がきゅ、と中央に寄せられた。
離れてしまった指先が、俺の視線の先で握り込まれて拳を作る。
「……絶対だからな……俺、お前に言いたい事があるんだ」
目許を滲ませた強気の翡翠が、俺を見据えて声を絞り出した。
彼の泣き顔は、もう目を瞑っていても思い出せるんだ。
だから、笑って欲しくて。
「うん、さっき俺の唇を奪った理由とかね?」
「なっ……!」
思い切り茶化して、わざとらしく首を傾げた。
また直ぐ逢えると云うのに、まるでもう逢えないみたいに張り詰めていたアーサーの表情が、ポンと茹だって俺を睨む。
「ばかぁ!」と走って行く背を笑って見送り、マシューへと向き直った。
きっと俺とアーサーの遣り取りを見ていたんだろう柔らかく笑んでいた表情が、俺と目が合う事で硬く強張る。
「……僕、君に謝りたい事が……」
俺に彼の気持ちは分からないけど、きっと彼……マシューにだって、俺の気持ちは分からない。
「ストップ」
目の前に掌を突き出して、震える唇が発しようとする言葉を制して続ける。
つい昨日も、同じ顔で謝られたばかりなんだ。
(やっぱり、本当の親子は似てるね)
最初に今回の結婚話を俺に持ち掛ける任を負ったのは父さんだ。
断らなかった俺を、断れなかったのだと思って凄く謝られた。
けど、最終的に決めたのは俺の意志だ。
そしてこの人生も。
今、懐かしい思いで振り返れてしまうのは、きっと全てが過去だから。
人間、一番欲しいものが手に入ると心が大きくなってしまうものなのかも知れない。
「待ってくれよ。……みんな俺に謝る。まるで俺ばかりが被害者みたいじゃないか。……俺はそんなに可哀想に見えるかい?」
冗談めかして口にしたつもりが、思う以上に拗ねたような声が出た。
顔色が幾分マシになったマシューに向かって、俺は更に続ける。
「俺はこれでも、自分に与えられた中から自分なりに納得して選んで来たつもりなんだ。……それで傷付けてしまった人もいる……」
アーサーと再会してから、俺は何度彼を泣かせたのか。
もし俺に誰かを罰する権利があるのなら、そんなもの、とっくの昔に自分へ使っている。
「俺を待ってる人がいるんだ。俺の事ばかり考えて、きっと今頃不安で泣きそうになってる人が。……だから君には、謝罪よりだったらこの後の事を頼みたい。……いいかい?」
俺なら、自分の知らない所で行われた、しかも乱入騒ぎで壊れた自分の結婚式の後始末なんて絶対ごめんだ。
笑って言うと、マシューが迷いなく頷いて。その目が、最初からそのつもりだったと強い意志で俺に告げる。
「それにさ、……また、話せるだろう?」
何となく少し照れ臭くて、肩を竦めた。
「勿論さ」
漸く見せてくれた、俺とよく似た顔の笑みに満ち足りた気持ちで頷いて。
「それにもし君が悪い奴なら、アーサーが俺を一人残して行く訳ないじゃないか」
そう言うと、思い切り首を縦に振るマシューと二人、声を上げて笑った。
少し遅くなったけど、俺もアーサーの後を追う為にマシューへ背を向けて歩き出す。
「あ……ま、待って。もう一つだけ、そのアーサーさんの事なんだけど……」
呼び止められ、片手を挙げて軽い挨拶を捨て於いて其のまま去っても良かったんだけど、アーサーの名前を耳にして俺は足を止めて振り返る。
「彼は……凄いね。君をとても愛してる……けど、幾ら健気と言っても、君の為なら愛してもいない男に体を差し出せるのはどうかと思うんだ」
「……え……」
マシューの言葉を直ぐには理解出来なくて、俺は何度も頭の中で繰り返す。
アーサーが身体を差し出す?誰に。
脳裏でぐるぐると渦巻く疑問。
俺の驚愕をどう受け取ったのか、マシューは構わず続ける。
「君からも良く言ってあげてよ。……あんな風に彼に迫られて、きっと堕ちない奴なんていないよ」
マシューが苦笑を携えて言った。
「…ちょ……君、何言って……」
マシューの言葉に思考が追い付かない。
あんな風に迫られて?
俺が見詰める先、マシューの瞳が後悔の念を宿して微かに揺れた。
「……拒まないって……拒めないって、僕は分かってなきゃいけなかったのに。彼は、あんな……酷い事をした僕にも優しくしてくれた……とても暖かい人だ。だからもう、あんな事はさせないように君からも……ッ!?」
「二度とアーサーに近付くな!」
頭の血管が切れて目の前が真っ赤に染まったみたいに、腹の中でグルグル渦巻く不快感が身体を喰い破って飛び出すみたいに。
何かを訴え掛けようとするかの如く身を乗り出して来たマシューを、気付いた時には思い切り殴り飛ばしていた。
尻から地面に落ちるマシューに向かって吠えて、俺は今度こそ背を向けて駆け出した。
(アーサー……!)
◇◇◇
「っつ……いたた……似てるのは顔だけじゃないか……」
自分の言葉を反芻して、確かに誤解を招くような事を言ったかも知れないと思う。
けれど、さっきまであんなに穏やかだった相手に殴られるなど、誰が思うだろうか。
あの日、好きにしろと容易く身体を投げ出した彼を思い出したら、何とかしたいと気ばかり急いて焦ってしまい、肝心な事を伝えられなかったような気がする。
「自分の事は笑って許すくせに……、彼の事だと怒るんだね」
去って行ってしまった二人の背を想う。
とてもパワフルな二人だった。そしてお互いを想いやっていて。
「少しでも、あの二人みたいになれたら……」
胸の内に燻ぶる想いに手を当てる。
やりたい事、それ以上にやらなきゃいけない事が沢山ある。
その為にも――。
ぐっと立ち上がって、服の砂を払った。
不意にずきりと痛む頬は、きっと鏡を見れば以前よりもずっと男前が上がっているに違いない。
かつん、と誰もいないがらんどうに響く靴音もそのままに教会へ戻ると、一人だけ残っている人がいた。
壇上に立ち尽くすその人は。
「エリザベータ・ヘーデルヴァーリさんですね?」
濡れて重たそうな純白のウェディングドレスが、弾かれたように振り向く。
「……!? あなたは……」
良く似た顔も、今は服装の違いから別人と判る筈だ。
「僕が本物の、マシュー・ウィリアムズです」
「……え……っ、じゃあさっきまで居たのは……」
こう呼ぶ事を、彼は許してくれるだろうか。
「血の繋がらない、僕の兄弟です」
にっこりと、自然に緩む頬と弾んだ声に、まだ見ぬ未来が浮き足立つ。
「僕も両親も、彼への援助は惜しみません。ですが……ウィリアムズを背負うのは、僕です。……彼は自由だ」
「そんな、それじゃあ……」
「貴女の事は調べさせて頂きました。婚儀の話は、なかった事にしましょう」
ぺたりと、ドレスの裾が濡れた絨毯の上に広がった。
「──代わりに折り入って、貴女に頼みがあります」
「え……?」
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