君の為に出来る事15
「えー……では、誓いの言葉をー……」
厳かな教会、神秘的なステンドグラス、大きなパイプオルガン、随所に施された繊細な細工。
嗚呼、アーサーが好きそうだな。
窮屈なタキシードに身を包んだ俺が抱いた感想は、只それだけだった。
神父の到着が遅れて大幅に予定がずれ込んだものの、式自体は滞り無く進んでいる。
けれど何せ式場の確保も日取りも急だ。
元々近しい身内だけを集めたとは云え、途中で急な呼び出しを受けて退室する人も少なくはなく、式は本当に静かなものだった。後で母さんが残念がるかも知れない。
(式はどうでも良いけど、母さんは喜ばせたかったかな……)
こっそり溜め息を漏らしたつもりが隣から睨まれ、俺は素知らぬ振りをする。
ただでさえ元から無い俺のやる気を削ぐ理由は、このチクチクと刺さる視線の主の他にもう一人。
先程からチラチラと俺を見ている、この男にもある。
「……あ、その前に指輪の交換か……は? ない!? オーダーメイド中? あー……なら次は誓いの言葉な。ごほんっ、誓いの……」
神父が無精髭を生やして良いのかどうかは判らない、けれど幾ら急な予定だったとは云え、もっとまともな神父は居なかったのか。
目が合って、意味深に笑われたから、睨み付ける。
そんな声無き一連の遣り取りを何度も繰り返して、いい加減苛々し始めて来た時だ。
「……――汝、その健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しい時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くす事を……誓いますか?」
俺が誓うだなんて微塵も思ってない、そんな挑発的な眼差しと同時、上の方からパシュッと空気が抜けるような軽い音が聞こえたと思った次の瞬間。
「……っ……雨……?」
突如として飛沫音と共に水が降り注いだ。
そんな馬鹿な。
天井を仰ぎ見ると、火事でも無いのにスプリンクラーが作動していた。
辺りが騒然とするのを壇上から招待席へ向かい振り返り、飛沫を避けようと手を翳して。
(何が起こったって言うんだ……?)
考えて、俺はハッと正面を向く。
似非臭い髭神父の青い眸と目が合った。まさか、問おうと開いた口が言葉を発するよりも早く、背後から大きな扉の開閉音と共に聞き慣れた声が俺の鼓膜を震わせて。
「アルフレッド!」
声に呼応するように身体がびくりと震え、今まで不快でしかなかった俺の世界に色を燈す。
最後にもう一度髭の神父を見て、そのにやけた顔に拭い切れない警戒心を覚えつつも、急いで振り返った視線の先には。
外へと続く荘厳な扉が開け放たれた其処に、声から思い描いた通りアーサーが、その背後に外の明かりを背負って立っていた。
「……アーサー……」
眉間に寄せられた縦皺が、泣き出しそうに震える唇が、驚いて名を呼んだ俺を捉えてくしゃりと歪むと同時に走り出した。
「……アル! アル……ッ! うああぁぁあ……!」
もう退避したのか今は既に姿が見えない人、携帯電話を取り出して何処かへと連絡している人、寄り添うパートナーを庇いながらこの場を後にする人、そんな喧騒の真ん中を突っ切って、アーサーが俺に向かって駆けて来る。
容赦なく降り注ぐスプリンクラーの水によって癖毛で跳ねていた髪が徐々に濡らされて行くその姿は、否応なく数日前の事故を俺に思い起こさせて。
自ずと蘇る恐怖で竦む足を叱責して一歩二歩と進み出ると、気付けば俺も彼へ向かって腕を伸ばしていた。
正面から抱き付かれた衝撃を、彼の身体ごと全身で受け止める。
「……アル……アルフレッド、もう二度と離してやるもんか……っ!」
言葉の通りに俺の腰周りを其の細腕で捕らえていたアーサーが、不意に顔を上げて。
濡れた翡翠に呼吸さえも奪われたかのように暫し魅入られていると、徐に背中から外された指が伸びてくる。
両頬を捕らえられ、軽く引き寄せられたかと思えば、俺の目の前でゆっくりと瞼が閉ざされた。徐々に近付く距離。身長差から踵を上げて伸びをした彼に、逃れる術も無く唇を奪われて。
僅か一瞬で離れたそれは、けれど確かに柔らかかった。
「……アーサー……」
少しの距離を置いて俺を見据える翡翠の眼差しは、強い光を湛えて俺を睨んでいた。
引き結ばれた唇が、への字に曲がっている。
「あんま心配かけんな……、ばか……」
小さく紡がれた言葉と一緒に、色々な感情が流れ込んでくるようだった。
『心配した』『逢いたかった』『一人で抱え込むな』『何でもお見通しなんだからな』
(嗚呼……)
今度こそ、俺がアーサーのヒーローになりたかったのに。彼は俺にその役目を譲ってくれる気はないみたいだ。
震える肩を目に留めて、その身体を強く抱き締めようとした所で漸く俺の脳が事態に追い付き始めた。
「……っ!」
此処は何処だ。曲がりなりにも結婚式の最中だ。否そんな事はどうだっていい。
父さんと母さんは。
アーサーの肩越しに慌てて最前列の席を見遣って、けれどその表情を確認する事は出来なかった。
対角線上に立つ、俺と良く似た背格好の人物が二人に傘を差し出していたからだ。
何の変哲も無い傘が、二人を水から守ってそれを差し出している当人を濡らしている。
(……誰だ……?)
驚きに目を見開いて。
意図せず全神経を集中させると、外界の他のどの音よりもはっきりと彼等の会話が聴こえて来た。
「……父さん、母さん……」
「誰……?」
「マシューだよ」
母さんの声に、しょうがないなと言うように緩く首を傾げた青年の髪が、水を含んで少し重たげに揺れる。
……マシューだって?
「もう、母さんは何時もそうなんだから……。――覚えてる? 母さんが僕を覚えてくれない事がどうしても悲しくて泣いてしまった日。ごめんねってクマのぬいぐるみを買って来てくれたよね。母さんが付けてくれた名前……悔しくて絶対覚えてやらなかったっけ。……ねぇ、あれはまだ家にあるかな」
クマのぬいぐるみ……――クマ次郎?
いつだったか、母さんが言っていたのを思い出す。
マシューの声に応えたのは、少し震えた父さんの声だった。
「ああ……あるよ。ずっと、仕舞ってある」
その声に、俺はただ、嗚呼、家族ごっこは終わったのかと、そうぼんやりと思って。
見上げる視線に気付いて下を向けば、心配そうに俺を見るのは俺が一番好きな色。
「……行こう、アーサー」
まだ事態を飲み込み切れてない脳が、勝手に言葉を紡いだ。
何か言いたげな彼に笑みを返して。
彼の額にぺたりと貼り付いた前髪から滴る雫を袖口で拭うと、俺はアーサーの手を掴んで歩き出した。
スプリンクラーはいつの間にか止まっていて、所々に水溜まりだけが残されている。
「っ……待ちたまえ!」
彼等の横をすり抜けた足が、聞き慣れたと思っていた声に呼び止められる。
振り返る事が出来ない俺の代わりに、隣のアーサーが忙しなく視線を行き来させていた。
何も云えずに、3秒。やけに長く感じた無言の間を於いて再び歩き出す俺の背に、穏やかな声が掛けられた。
「……君も、もう私達の息子同然だ。……いつでも帰って来なさい」
とても小さくだったけど、頷いた事が彼等に分かって貰えただろうか。
騒ぎを聞きつけて到着した警備の声を振り切るように、俺はアーサーの手を引いて駆け出した。
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