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君の為に出来る事

君の為に出来る事13


 窓の外に見えるは空高く伸びた沢山の木々。森に囲まれたこの場所は、カーテンを閉めてしまえば夜の帳のように薄暗かった。
 そんな室内に足を踏み入れ、アーサーはごくんと唾を飲み込む。

『俺のベッド使えば? 男2人でも余裕で寝れるぜ』
『それじゃ、お兄さんは出掛けて来るからごゆっくり』

 フランシスの言葉が思い出された。
 畜生、他人事だと思って。
 苛立ちで自分を誤魔化すと、子供なら3、4人は並んで眠れそうなベッドの前まで歩み、後ろを無言で付いて来る相手を振り返る。

「……お前……俺相手に勃つのかよ?」

 アルフレッドと酷似した顔へ最終確認。
 纏う雰囲気や眸の色は違うのに、一つ一つのパーツはとても良く似ている。
 勢いでこんな事になってしまったが、いやしかし、色んな思いが浮かんでは消えた。

(……アルフレッド……)

 どうせ男を相手にするなら初めてはアルフレッドが良かった、なんて思う自分は相当いかれているに違いない。

「ど……どうでしょう……」

 か細く落とされた頼り無い言葉に、少し緊張が解れる。
 明かりが乏しく、その表情までは窺い知る事が出来ないけれど。
 アーサーは暫し逡巡の後、意を決してベッドに身体を横たえた。
 視線の遣り場に困って横へと逸らす。

「………」

 更に間を置いて、躊躇いがちにベッドへ上がって来る気配と共に室内に響くスプリングの軋む音。
 そろりと見上げれば、引き結ばれた唇と戸惑いに揺れる瞳がアーサーを見下ろしていた。
 何処か悔しさを滲ませた眼差しは、自分を通して他の誰かを見ているような。

 ふと、この行為に何の意味があるのだろうと思う。
 あのフランシスという髭に上手く乗せられた気がしなくもない。

(だいたい、身長と髪色の好みなんて範囲が広過ぎだろ……。自分だって当て嵌まるじゃねーか)

 しかし今更自分から後に引くなど出来なくて。
 だが相手が嫌なら止めても良い。ただし此方の要求は呑んで貰う。
 やるなら、早く終わらせてくれ。
 別に怖くなんて無い。ただ少しの緊張で震える唇を開く。

「……は……早くしろよ」

「あなたは……それで良いんですか?」

「アルの為だ」

 改めて言葉にすると、今度こそ覚悟が出来た。ゆっくりと目を閉じる。
 近付く気配がして、首筋に掛かる吐息の擽ったさに肩を竦めた。
 柔らかい感触が押し当てられ、微かな痛みに過敏に反応した身体が大袈裟に跳ねるのが嫌で、堪える為にシーツを握り締めて身を硬くする。

 直ぐに離れた気配は、またゆっくりと近付いて来て。
 唇の先、皮一枚を本当に僅かばかり掠めるように柔らかな何かが重ね合わせられ、またゆっくりと離れて行く。

「……ッ……」

 不意に胸が騒いだ。
 脳裏を掠めた幻影を意識して追い求めれば、それはまたもやアルフレッドの姿だった。
 アルフレッドの為を想えばこそこんな事、どうって事ない筈なのに。
 心を落ち着かせてくれるどころか、胸の中の今まで知らなかった場所がきゅうと絞られる。
 そして其れよりも可笑しいのが。

(――何で……アル……、此処で出て来るのが、お前なんだよ……)

 いかれててもいいからアルフレッドが良い……なんて、自分は相当終わっている。
 更に身体を硬くして、アルフレッドをも意識から追い出した。
 聴こえるのは窓の外で風に揺られる木々の音、自分の呼吸、心音。

「………」

 いつまで経っても次のアクションが起こらない事に焦れて、アーサーはそろりと目を開けた。

(別に、待ってるって訳じゃ……っ冷て、)

 アルフレッドに似た顔をあまり見ないようにしてまた直ぐ閉ざす筈だったのに、薄く開いた瞼は驚きで見開かれる事となる。
 一つは、不意に頬へ落ちた冷たい雫で反射的に。そして、

「──……マシュー…お前……、泣いてるのか?」

 もう一つは、その雫が自分に覆い被さる人物の目から溢れる涙で、湛え持つ色の寂しさに気付いてしまったから。

「……あなたの目が……海の色だったら良かったのに」

 海の色、と言われて蘇るのは、自分と同様に彼の好みをクリアしている筈の、喰えない髭男。

「あいつの事が、好きなのか……?」

 呆然と漏らした声は、思いのほか静かに落ち着いて響いた。
 アーサーとマシューの間に共通の知り合いと呼べる相手は1人だけ。
 だから『あいつ』が示す人物も必然的に1人となる。
 マシューは水の膜が張った瞳を揺らめかせて、綺麗に微笑った。

「こんなことをしても、きっと……そのアルって人は喜ばないと思いますよ」

 反射的に色々と云いたい事が浮かんで、しかしアーサーの1つしかない口が選んだ言葉は、

「……諦めるのか?」

 自分の質問に対して脈絡の無いマシューの返答を、軌道修正するものだった。
 そんな事は、どうだって良い筈なのに。
 気付けば状況も忘れ、強い眼差しで見上げていた。
 濡れた紫の双眸が一瞬見開かれて、マシューが泣き笑いのような表情を浮かべる。

「……明日、家に戻ります」
「……え……」

 何故、と。問いそうになった口を慌てて閉じて、また開いて、

「――……お前は、帰りたくないのか……?」

 結局、折角アーサーが望んだ通りに事が運びそうな展開を壊してしまうかも知れない事を、訊いた。
 マシューの柔らかな髪質がぱさりと揺れて、首が左右に振られる。

「解りません……今までずっと、あの家にはもう、僕の居場所は無いんだと思ってました……みんな、僕じゃなくても良いんだって。おかしいですよね……自分から手放しておいて、取られたような気になるなんて」

「それは、」

 違う。アルフレッドは記憶を失っていて、自分をマシューだと思っていただけなんだ。
 伝える前に、「さっきフランシスさんから聞きました」との柔い笑みにほっと息を吐く。
 見上げる笑みが再び泣き出しそうに歪んだ。

「……けど……っ……フランシスさんは、こんな僕にずっと優しくしてくれて……これからは俺が家族だって言ってくれたのに……もう、本当の家族と過ごした時間とあの人と過ごした時間は変わらないのに、あの人を置いて僕だけが……っ」

 泣き顔が。溢れる涙が病室で見たアルフレッドのそれと重なる。
 ごめんなさい、と上から退こうとするマシューに手を伸ばして引き寄せた。
 どうにも自分はこの顔に弱いらしい。

「――本気……なら、何もする前から諦めんなよ」

 殆ど無理矢理肩に埋めさせた頭を、ぎこちなく撫でる。
 すすり泣きは徐々に嗚咽に変わって、そのまま泣き疲れて眠ってしまうまで、アーサーはずっとそうしていた。





「………」

 規則正しい寝息の下からそっと這い出る。
 サイドボードのライトを点けると、其処を光源に室内が淡いオレンジ色に包まれた。

「いい加減、服が欲しいな……」

 借り物のシャツは涙を吸ってだいぶ濡れてしまったし、何か替えの服を。
 そう思って勝手にクローゼットを漁っていると、奥の方に小さくて背の低い箱を見つけた。
 手に取って振ると、中から軽い音がする。
 普通は元に戻す所だけれど。この部屋の主を思うと彼のプライベートよりも断然興味が勝ってしまって。
 遠慮も無く中を開けると、一枚の紙が出て来た。折り畳まれたそれを広げる。

「――これは……」




 * * *




「おはよう坊ちゃん。早いね、腰は平気?」

「………」

 翌朝起きると、いつ帰って来たのかフランシスがダイニングテーブルで珈琲を飲んでいた。
 その目が揶揄するように細められる。

 アーサーが態と睨んだ鋭い視線も無視して、更に「昨夜はお楽しみで?」なんて訊いて来る髭にムカついた。
 だからこっちだって、からかってやる事にする。
 お前の気持ちはもうバレてんだよ。

「腰なら平気だ。……俺は、な?」

 なるべく意味深に見えるようニヤリと口角を上げて見せれば、タイミングよく後ろの扉が開いてマシューが顔を覗かせた。
 くい、とマシューに服の裾を引かれる。

「……あの、アーサーさん……、僕の目、腫れてませんか……?」

 耳元に小声で囁かれ、少し高い位置で俯く顔を窺い見る。
 腫れている。兎のように赤い。
 これならばもう、既に隠しようもないだろう。

「目? あぁ、真っ赤になってるぞ。昨日あんだけ泣きゃそりゃあなァ……」

「なっ……アーサーさんっ! もう……」

 耳まで紅くなったマシューが、観念して扉から出て来てフランシスに「おはよう御座います」とはにかんだ笑みで声を掛ける。
 それに対するフランシスの返事は「お、おう……はよ」と覇気のないものだった。

「泣きたくなった時は、またいつでも身体を貸してやるからな」

 マシューに向かって言って、しかし今の台詞は流石に可笑しかっただろうかと焦る。 洗面所にでも向かおうとしていたのか、部屋を出ようと動いていたマシューの足が止まり、嬉し恥ずかし、そんな笑みがアーサーを振り返った。

「ありがとう御座います。でももう大丈……」

 邪気の無い顔に、ちくりと罪悪感が刺激された時。
 ガチャン、と突如響いた何かの割れる音に振り返れば、フランシスの珈琲カップが床に落ちて黒い液体を散らしているところだった。

「フランシスさん!? どうしたんですか? 怪我は……」

 マシューが直ぐさま駆け寄る。
 割れた破片を拾い上げ、汚れた床を拭いた。
 そんなマシューを、フランシスの視線がぎこちなく捉える。

「あ、ああ……大丈夫だ。……マシュー、それよりお前……昨日……」

 何処か気恥ずかしげに目を合わせるマシューと、蒼白なフランシス。
 アーサーはさり気無く2人の姿を視線から外して笑いを堪えた。

「昨日、アーサーさんに色々聞いて貰って……眠るまで撫でて貰いながら、子供みたいに泣いちゃったんです。あはは、恥ずかしいですよね」

 フランシスが一睨みして来たが、アーサーは素知らぬ顔で無視をした。
 不意にマシューの声のトーンが下がり、真剣で……寂しげな色を湛える紫が、彼が好きだと言っていた海の蒼を見詰める。

「僕……帰ります、家に」

 もう一度綺麗に微笑い、パタパタと駆けて行く足音を見送った。
 はぁ……と盛大な溜め息が耳に届く。

「……お前ね……」
「んだよ。別に嘘は言ってねぇだろ? 自分からけしかけたクセによ」

 呆れ顔を強気に睨み返し、アーサーはクローゼットから勝手に拝借して着ている衣服のポケットをまさぐった。


 自分は世界で一番アルフレッドの味方だ。
 けれど、マシューの味方も少しならしてやっていい。
 それはアルフレッドに顔が似ているからではなくて。
 自分がそうしたいと思ったからだ。


「――おい、髭。……これ、なんだか分かるか?」

「…………あっ、ちょっ、おまえそれっ!」

 髭呼びに反応するつもりは無いのか、無視する様子の相手に懐から取り出した新聞の切り抜きを広げて見せた。
 昨夜クローゼットから見付けたそれは。

「これ……森で迷子になった"マシュー・ウィリアムズ"が無事保護されたって記事。……あいつが何処の誰か分かって手放さなかったんだろ? あいつの事、好きじゃねぇのかよ」

「……子供には解らないよ」

 フランシスが苦い笑みで視線を伏せる。

「なっ……んだよそれ!」
「そう言う坊ちゃんはどうなのよ?」

「俺はアルフレッドを諦めた事なんか、只の一度もない」

 人が真剣だと云うのに子供扱いされて腹が立つ。
 きっぱりと言い放ち、真っ直ぐに見据えた。
 しかしフランシスは肩を竦めて見せるだけで。

「……弟だって言うそのアルフレッド? とてもじゃないけど、弟としての感情だけで動いてるとは思えないけど?」

「はぁ? 何を……」

 ばっさり切り捨ててやろうと動いた口は、けれど不意に過ぎったアルフレッドの姿にぴたりと止まる。
 今までだっていつもアルフレッドの事ばかり考えて来たのに、何故だか昨夜から、アルフレッドの事を想うと締め付けられるような胸の痛みを伴った。

「人の事は良いから、自分の事だけ考えてなさい」

 自分が今どんな顔をしているかアーサーには分からなかったが、フランシスは席を立つと、大人と子供の差とでも言いたげな全て見透かしているような台詞を呟いて。
 すれ違い際にアーサーの手から新聞の切り抜きをひょいと奪い返し、自分の部屋へと入って行く。

「──あ、お前の財布あっちの部屋に置きっ放しだから、忘れんなよ?」

 言われてはたと正気付く。
 問い詰めたかった事は全て誤魔化されてしまったけれど。
 そうだ、これからアルフレッドの所へ行くんだ。

(アル……お前に逢えば、この良く分かんねー気持ちが何なのか、分かるのか……?)




  ◇◇◇



 手の中の切り抜きをそのまま握り潰そうとして、出来なくて。フランシスは壁に背を凭れさせた。
 大きな溜め息が漏れて思わず髪を掻く。

「はは、なっさけねぇの」

 アーサーの挑発に乗せられ無様な姿を晒した自分を思い出し、フランシスはすっかり血の気が下がって冷えた自身の掌を見詰めた。
 いずれマシューにも可愛い恋人が出来て結婚もして子供が出来て、そんな想像なら数え切れない程してきた。
 それが、相手が男で、いわゆる女役をしたと考えただけでこうも動揺するとは。

 事態は自分が望む方へと向かっている。
 ここまで随分と遠回りしてしまった。

 マシューの好意が自分に向いている事は知っている。そして、マシューが過去の行いを後悔していた事も。

 フランシスは、部屋の隅に置かれた鞄へ近付くと、中に切り抜きを入れようとして……止めた。
 必要最低限の物だけ選んで詰めた鞄の中は、随分とこざっぱり収まっている。ここには想い出ばかりが多すぎて、とてもではないがこんな布地には収め切れない。

「やっぱり子供は、親元に帰すのが一番だよね……」

 



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