君がいる明日
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無償の愛≠無限の愛
無償の愛≠無限の愛4
イギリスと目が合ったのは、どれくらい振りだろう。
外が濃い霧に覆われている為か少し肌寒い会議室。視線の少し先で揺らぐ翡翠が、確かに俺を映していた。
「……ア……、……っ……」
俺が現れた事で余程驚いたのか驚愕に見開かれた双眸、ぽかんと小さく開けられた口唇は、彼の不機嫌そうに眉を顰めた仏頂面や照れて林檎みたいに赤くなった顔、幼い頃に向けられた柔らかい微笑ばかりが記憶に残る俺には珍しいもので。
───否、彼に初めて独立の意志を告げた時の顔に……似ていたかも知れない。
そんな視線も直ぐに逸らされ、唇を引き結んで着座する彼に倣って俺も彼の斜向かいへと腰を降ろした所で、会議は始まった。
「───で、あるからして……」
会議が終盤に差し掛かっても、彼が書類から顔を上げる事は殆ど無かった。
特に俺の方を見る事に限れば、其れは皆無に等しい。
こうして遥々訪ねて来たと云うのに、彼には俺と話す気は無いようだ。
誰かに意見を求められると、その相手へ向かって一言二言話すだけ。
(部下がいる手前、一見平静を装ってはいるようだけど……)
頑なに俺を拒んでいる事は、明らかだった。
収まっていたモヤモヤが再び溢れ出す。
まるで俺なんか気にしていないように振る舞う彼。
時折紅茶のカップを口元へ運ぶ指先の微かな震えだけが、彼が確かに俺を気にしていると教えてくれた。
* * *
「………」
会議が終わると案の定すぐさま席を立つ彼の前に進み出て、無言で立ちはだかる。
「…………」
彼も無言だ。
その視線は余所に向けられ、俺を見ようとはしない。
俺は少し怒ってる。
こんな、取り付く島もない態度は無いんじゃないかい。
「……君達は先に帰って良いよ」
後ろに控えて困惑している部下に促すと、イギリスも同様に自分の部下へ指示を出した。
これで、今この部屋には俺と彼の二人きりになった訳だ。
視線の高さが少し低い彼を真っ直ぐに見下ろす俺と、手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、どうしてだろう……すごく遠くに感じる、そんな、俺から目を逸らすイギリス。
第一声は、彼に何と云おうか。
一晩中考えてみたけど、妙案は浮かばなかった。
だったら、今俺が思う事を伝えるだけだ。いつもそうして来たように。
「アーサー、」
彼の名前をゆっくり呼ぶ。
ぴくりと震えた肩が、俺の声に反応を示した。
相変わらず逸らされた侭の翡翠に、それでも視線を合わせる。
「…もう一度やり直……」
最後まで云わせては貰えなかった。
「断る」
凜と響いた声に、脳の理解が遅れてぱしぱしと瞬く。
俺の目の前で、此方に片方の頬を向けて視線を床へ落とす彼。
自身を守るように自らの腕を押さえていた指先に、きゅ、と力が込められて彼の上着に皺を作った。
「……もう、終わった事だ。……お前が、終わらせたんだろうが」
床の上に、昏く静かに落とされる声。
──その瞬間、まるで何かのスイッチでも入ったようにカッと意識が塗り潰された。
こんな時、俺はいつも大切な何かを忘れてしまう。
「なんだい……それ……。俺が何度君に振られたと思ってるんだい? 一度くらいで、諦めないでくれよ」
そうだ、たったの一度きりじゃないか。
そんなたった一度の事で諦めていたら、俺はとっくに彼を諦めていなければならない。
見開かれた彼の双眸が、漸く此方を向いて俺を捉えた。
「一度くらい……だと?」
「そうだよ、」
諦められなかったから、諦めたくなかったから、ずっとずっと追い掛けていた。
彼は、そうは想ってくれないのか。
「……あんなに俺の事が好きだったのに、もう嫌いになったのかい?」
違うと、そう云って欲しかった。
そう云うに違いないと、心の何処かで確信めいたものを抱いていた。
鬱陶しいと感じてしまったけれど、誰よりも深く注いでくれた彼の愛情。
――けれど、彼の答えはYESとNO、そのどちらでも無くて。
「……ッ……お前がっ、……お前がそれを云うのか! 俺に!!」
叩き付けるように叫んだ其の声が、酷く歪められた其の表情が、どんなに彼の怒りを伝えて来ても全然怖くなんか無いのに。
この空間が。
空気が震えたこの空間が、心臓を鷲掴みにされたような錯覚となって俺を襲った。
──動けない。
ぎゅっと寄せられた特徴的な眉が、震える唇が、次に起こす行動をただ待つ事しか出来ない俺は呆然と彼を見遣る。
けれど。
「……っ……」
言葉も行動も、何一つ俺に向ける事なく彼は背を向けた。
息を呑んだのは果たして俺か、彼か。
去り行く背中が扉に手を掛けた所で漸く金縛りが解けた俺は、この距離では届かないと知りつつ思わず彼に向かって手を伸ばす。
「っ……アーサー……、」
呼び止めるとその足はピタリと止まってくれたけど、振り返ってはくれない。
アーサー、アーサー。いやだ。
俺が呼んでるんだから、こっちを向いてよ。
もう一度、今度は焦って口を開いた。
出て来るのは、言葉にならない彼の名前。
震える音色を格好悪いと思う余裕なんて、今の俺には無い。
「……アーサ」
「その名で呼ぶ事を、今のお前に許した覚えはない」
「……っ」
感情を殺した声に目を見張る。
「米英両国間の友好関係は変わらない。だが、仕事の用件以外で貴国と話す事は何も無い。……そうだろう? 合衆国」
彼の手により、ゆっくりと扉が開かれた。
「――お前が、望んだ事だ」
最後の言葉を残して閉まる扉が蝶番の重々しい音を奏で、待ってと強く願うのに俺と彼との距離を隔てる。
何処で、何を間違えたんだろう。
こんな事、望んでなかった。
望んでなんかいなかった筈なんだ。
崩れ落ちるように膝を折った俺は、随分長い事その場から動けずにいた。
イギリス──……ねえ……アーサー。
目の前がぼやけて、きみのすがたがみえないんだ。
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『もう弟だなんて思ってねえよ』
予想外な答えを返されて驚いた。
恐らくとても間抜けに映っているだろう俺の顔を見て、彼が心底心外だと云わんばかりに眉を顰める。
『俺がどんな決意をして受け入れたと……ったく……』
忌々しげにぼやかれる言葉を耳にして、漸くじわじわと実感して来た俺は感極まって彼に抱き付いた。
『イギリスっ!』
結果、ソファに座っていた彼にタックルをかます事になってしまったが、今の俺はそんな細かい事には構ってられない。
『愛してるんだぞ!』
『ッ……ってお前! どこ触って……!』
下敷きにしてしまった彼の上で身体を起こす。
見下ろすと、ゆらゆらと揺らぐ翡翠に自分の慾情しきった顔が映っていた。
『……ダメかい…?』
『…っ……』
俺の手首を掴む指先が微かに震えていて、緊張の為か汗ばんでる。
無理強いはしたくない、でも。
『ずっと我慢してたんだ……ねえ、いいだろう? イギリス、愛してるよ』
『──……ずりぃんだよっ、お前は……クソッ……』
真剣に告げると、小さな悪態と共に抵抗する腕がのろのろと外されて。
羞恥に染まった白い肌に良く映える紅に、俺はもう天にも昇るんじゃないかって気持ちで再び彼に覆い被さった。
『イギリス、愛し……』
溢れんばかりの喜びも愛しさも、全部全部伝えたくてさっきからゆるゆると開きっ放しの唇が、彼の人差し指にムニッと封じられる。
『……?』
『……それ、……あんま、云うな』
言葉少なな彼の言葉。少し逸らされた視線。
云いたい事は伝わったけど、俺は直ぐに反論した。
『でも「好き」じゃ足りないんだぞ!』
『んじゃ「大好き」にしとけ』
即答されてムッとしない事も無かったけれど、今の俺はとてもハッピーな気持ちだったから、彼の言葉に渋々頷く事にする。
『……分かったよ、イギリ――』
『「アーサー」』
『ん? それって、確か君の公共用の人名だよね?』
突然彼が自分の人名を口にする理由が解らなくて、疑問符をいっぱい浮かべながら問い掛けた。
国同士では殆ど使われない人名は、全員分なんて把握しきれないくらいだ。
主に俺達を国家と認識していないような、一般の人間を相手にする時に名乗る仮の名前。
『ああ』
頷いたイギリスが、そのまま下を向いて俺に旋毛を見せながら小さく続ける。
『……俺はイギリスで、アーサーはカモフラージュ用の記号みたいなもんだ。……けど、……恋人に呼ばれんなら、こっちがイイ』
恋人、それを聴いて断る理由は無い。
『オーライ。……アーサー……俺は世界で一番、君の事が大好きなんだぞ』
『ん……アル……、――俺もだ……』
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二人きりの時だけ、秘め事みたいにこっそりと呼び合う名前は、何時しか特別なものになった。
俺はもう、彼の名前を呼ぶ権利を失くしてしまったのか。
『あいしてたよ、あめりか』
彼に名前を呼んで貰う権利まで、失くしてしまったのか。
聴こえた気がした声が幻聴だろうと現実だろうと、過去形なら同じ事。
こんな状況を望んだつもりなんて無いのに。
その権利を自ら手放したのは、誤魔化しようもなく確かに俺自身だった。
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