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無償の愛≠無限の愛

無償の愛≠無限の愛19


 指輪を収めたポケットを撫でる。
 目的を果たした俺は、急いで階下へと降りて店を後にした。
 けれど、太陽が厚い曇に覆われて少し肌寒い外気に頬を吹かれた途端、不意に周囲にどよめきが起こって。

「あの人だ……!」

 最初の第一声は、喧騒に呑まれて上手く耳に届かなかったけど、多分そんな言葉だったように思う。
 店を出た俺の周りに、あっと言う間に人だかりが出来た。
 遠巻きには、女の子と父親と、もう一人女性の姿が視界に映る。
 皆が無事で良かったと、心底そう思うし、口々に飛び交う感謝や賞賛、質問の言葉に、きっとヒーローとして応える事を此処にいる誰もが望んで期待しているんだろうけど。

「ごめん……っ。通してくれ、急いでるんだ」

 言葉少なに人波を掻き分けるように進む。

「俺を待ってる大切な人がいるんだ」

「恋人ですか?」

 誰かが訊いた。

「ああ、これからプロポーズしに行くんだ」

 すっと人だかりが左右に引いて、少しずつ前に進む道が出来る。

「ヒーロー、走って!」

 後ろから聴こえた覚えのある幼い声に背中を押されるように、俺は駆け出した。

「その方のお名前は?」

 また別の誰かが問う。

「アーサー・カークランド。俺がこの先、生涯愛し続ける人さ!」

「どのくらい愛していますか?」

 続く問いには、振り向いて云ってやった。

「アーサーがいない世界なんて、俺はきっと……一秒だって生きていられやしないんだ」


 誰かが呼び止めてくれたのか、左右に分かれた人波の最終地点に停まっていたキャブに乗り込んで。

「どちらまで?」
「うん、ちょっと待って、」

 急く気持ちのまま、俺は携帯電話を取り出した……筈だった。
 胸元のポケットに入れていた最新式の薄型携帯は、二つ折りのボディを開く前にブラリと片側が垂れ下がる。
 上下に離れてしまった通信機器を繋ぐのは、何本かの細いコードだけ。

「……っ……!?」

 慌ててパネルに指先を走らせるも、俺の操作に揺さぶられてガクガクと振り子のように動く画面は何の光も映してくれなくて。
 そんな元通信機器から、何かがポロリと零れ落ちた。

「……銃、弾……」

 ああそう言えば。あの二階からの落下の時、確かに鳴った筈の着信メロディー。
 止めた記憶の無いそれが直ぐに止まってしまったのは、何故だろう。いつの間に?
 その答えは最早考える迄も無く。
 銃弾を受け止めてくれたのは、ヒーローの加護が宿ったタグだけでは無かったのだと、今更ながらに悟った。

 俺の不穏な言葉に振り返りながらも、取り敢えず車を走らせてくれている運転手に気を配る余裕はない。

(考えろ……考えるんだ……)

 彼が今何処に居るのか訊く筈だった。
 もし彼が多少寝坊をしたとしても、とっくに到着している頃だろう。

 まだ空港?俺の家に迎えに行った?もしくは現地集合?それとも……。

 壊れた携帯電話では、彼からの連絡も受けられない。
 行き先を誤って無駄足なんかしている暇はない。

 焦って上手く働いてくれない思考回路。
 そんな俺の脳裏で、記憶の引き出しがそっと去年の記憶を差し出してくれた。

 彼との約束を忘れていた俺。彼からその事に触れられた事は只の一度も無くて、だからこそきっと、彼が俺の家に迎えに行くなんて選択肢は無い筈だ。

 次に空港、もし空港で待っているとしたら、つまりそれは俺からの迎えや連絡を待っている状態という事で。
 けれど当時の自分にそんなマメさがあったとは思えないし、それは彼の方が嫌というほど理解しているだろう。

 唐突に蘇る昨日の笑顔。あんなに楽しみにしていた彼は、今何処で、一人で……俺を待っている?

「……っ! 急いで此処に向かってくれ!」

 カーラジオから流れる今日のニュース。
 その機械を通したパーソナリティーの声を聞いた俺は、一縷の望みを託して叫んだ。

 不意に起き上がって左右に揺れ動き出すワイパー。

 ぽつり、ぽつりと、雨の雫が窓を濡らしていた。








「あっ」

 視線の先でキラリと零れ落ちた其れに、少女は思わず声を上げる。
 他の誰も気付いた様子は無い。

「……あ……」

 しかし駆け出そうとした足は、脳が進む事を伝達する前にピタリと信号を止めた。
 そんな少女の様子に、少女と手を繋いだ父親が視線を下げてどうしたのかと問う。
 暫し一人の青年が去って行く後ろ姿を送っていた少女は、目の前で起こった事象を何と説明しようかと逡巡した後、ううん、と首を振って前を向いた。
 右と左、大きな手と優しい手、両の掌を包む温もりを、ぎゅうと握り締める。
 話の流れが、欲しいものは無いか、との話題になって少女は瞳を輝かせた。
 一番欲しいものはもうこの手の中にある。けれど今し方覚えたばかりの興味は未だ冷める事無く少女の胸の内で燻ぶっていた。
 少女は目線を高くし、交互に首を振り二対の双眸を見上げながら声を弾ませた。

「ペット!」





  ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇





(───………雨……)

 鼻の頭にポタリと一雫落ちたのを皮切りに、ポツリポツリと雨粒が降り注ぐ。
 先程からテーマパークの中へと向かう人足は殆ど途絶え、帰って行く人々が目立ち始めていた。
 これから、もっと強く降るのだろうか。

 手の中の通信機器はインターネットにも繋げられるけれど、天気予報を確かめる気にはなれなかった。

 ふと耳に届いた話し声に隣を見遣る。
 同じようにぼんやりと人待ちしていた女性が、携帯電話で誰かと話していた。
 待ちぼうけを食らっている同士に既視感を覚え、聞くとはなしに会話に耳を傾ける。


「ずっと待ってるのに、どうして!?」
『はあ? まだ待ってんのかよ、帰れよ』


 耳慣れたクイーンズイングリッシュの女性の声に、電話の向こうから聴こえるアメリカ訛りの男性の声。
 プライバシーがどうとか、音量でかすぎだろとか、そんな事を考える余裕は無かった。距離を取る暇も。
 同士だなんて考えたのは失敗だった。状況の類似性に、心臓が嫌な音を立てて一つ跳ねる。


「な、なにそれ……っ」
『お前鬱陶しいんだよ、いい加減気付けよ』
「ひどい……!」
『あーめんどくせー……』


 不自然に早くなる鼓動を、浅い深呼吸で誤魔化す。
 俺は女じゃない、だから関係ない、なんて変な考えまで浮かんで。
 手の中の携帯電話を握り締める。

(……アル……)

 早く、早く来て欲しい。
 あいつの顔を見れば、こんな不安、きっと直ぐに無くなってしまうのに。
 濡れてしっとりと重くなる髪。
 脳裏をじわじわと犯し始める記憶は、せめて7月だけにして欲しい。


『お前うるせぇんだよ、いちいちいちいち母親かっての。お前の存在自体がもう煩わし……──』


 聴こえて来た声。自身も当て嵌る内容に、より大きな音で聞こえて来る錯覚さえしてビクリと肩が震え、それまでの硬直が嘘のように慌てて距離を取った。

 そうして右手をポケットに突っ込む。
 そうだ、自分にはこれがある。これが……。

(………………無い……)

 ない。御守りのように常に持ち歩いていた、それ。鍵、ドッグタグ。
 無くしたのはいつだ。

 ふっ……と、ネガティブな脳が馬鹿な予測を叩き出す。
 昨日あいつが突然現れたのは、まさかこれを回収する為だったんじゃないだろうか。
 もう合い鍵を預けている事すら、疎ましい事実なのだと。

 ゾクリと背筋が震える。
 違う、そんな莫迦な話があるか。
 何かの間違いだ。

 必死に記憶を探る。
 最後にアレに触れたのはいつだ。
 昨日ベッドの上で目が覚めて二人が帰ってから暫くは、あいつの笑顔が頭から離れなくて、思い出すだけでほわほわと温かい気持ちになる事が出来たからアレに頼る事はしなかった。
 なら、目が覚める前は。気を失う直前。確かバナナの皮に……いや、そんな記憶は何処にも――。

 其処まで考えて、ざぁ……と身体から何かが流れ出して行くような、見ていた夢から醒めるような錯覚に襲われた。
 これは……そう、魔法が解けて行く感覚。

(まほ……う……?)

 妖精の言葉を思い出す。
 時間に驚かない魔法、幸せが長続きする魔法。

『"今"のあなたもそれを望んでいるかも知れないけれど』

 なにか……なにか、何かが可笑しいと全身の細胞が脳味噌に訴えかけて来る。
 そんな筈ない、可笑しい事なんか何もない、何かの間違いだ、今この瞬間こそが全てだ。

 ――そう願う気持ちを、嘲笑う自分が確かにこの胸の内に存在していた。

 指先がカタカタと震え出す。
 脳が考える事を拒絶するように身体が引き吊って、痙攣した指先に力が入った。
 瞬間、ぐしゃりと本の頁を握り潰した感覚がフラッシュバックしたけれど、違う、今この手の中にあるのは携帯電話だ。
 いや、同じように本も潰した。覚えてる。違う覚えてない。
 駄目だ、ダメだ、だめだ――。


「もう、私は要らないの……?」


 いつの間にか聴覚から断絶されていた隣の会話。
 やけに小さく落とされた悲痛なその言葉が、何故だか胸を掻き毟って。
 其処で二人の会話は途絶えた。
 だらりと力無く下がった手に、用を終えた通信機器を携えて、肩を落とした背中が遠ざかって行く。

 動かない身体から急激に血の気が引いて、四肢の末端が順に温度を失い始めた。

「……おもい……だした……」

 この瞬間、昨日目が醒めてからの出来事こそ、あの優しい笑顔こそが間違いだったのだと。


 



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