君がいる明日 - main
無償の愛≠無限の愛

無償の愛≠無限の愛13


 カチ、コチ、カチ、コチ

 俺の家にあるどの時計よりも年代物のそれが、目の前で次々と今を終えては新しい未来を刻んで行く。
 そして、いつ壊れても可笑しくないぐらい古びたそれが、喩え狂って偽りの時を刻もうとも。
 生きている俺達の『今』は止まらないし、戻らない。

 だから……そう、前に進むしかないんだ。

 喩え彼が、俺の傍にいなくても。





「──……俺、イギリスが居なくても生きて行けるんだよね……」

 ぽつ、と呟いた声は思いのほか頼りなくて。
 壁に預けた背を後ろへ逸らして、目を閉じる。
 未だ煩く聴覚を苛む時計の音を聴きながら、俺は後頭部を冷たい壁へと押し当てた。

 固い感触が夢と現の違いを知らしめる。
 これは現実。
 彼に云われた事も、総て。

「なんだよ? 急に……」

「ご飯食べて、寝て起きて仕事してさ……彼がいても、いなくても」

「……そうだな。まあ……当たり前だろ? 出来なきゃ困る」

 ポツポツと漏らす言葉に返る、フランスの慎重さが窺える声。
 きっと俺が何を考えているのか汲み取ろうとしてくれていて、言葉を選んでくれているんだろう。
 目を閉じていても、そんな眉間を歪めた訝しむ表情が浮かんだ。

「国としての自我が芽生える頃には、もう俺の傍には彼がいたんだ。……独立してからも、イギリスに認められたくて……。彼を手に入れたくてひたすら追い掛けた」

 目を閉じると浮かぶのは、様々な表情へ移り変わる彼の顔。
 笑った顔、泣いた顔、不機嫌な顔。
 そのどれもが、今は恋しくて堪らない。

「漸く手に入れた、俺がずっと欲しかったもの。……けど、付き合い始めてからは、段々……鬱陶しくなっていって……」

「……んで、お前が振ったんだろが」

 訝しんだままの硬質な声が、俺の言葉を途中で遮って辺りは僅かな沈黙に包まれる。

「──うん、そうなんだ。そうなんだよね……」

 俺の肯定に、フランスは何も返さなかった。
 再びじわじわと沸き起こる、彼を失ってしまった実感。

 分かってる。全部、全部俺の所為だ。

 ゆるりと壁に預けていた頭を起こして、今度は俯き加減に掌で顔を覆う。
 強く瞑った目蓋が痛かった。

「……俺、なんでイギリスが居なくても平気で生きて行けるなんて思ったんだろう……。っ……なんで、彼を手放そうなんて思ったんだろう……っ」

 身体は今日も明日も生きるのに、心が死んでしまったように痛い。
 強く強く瞑った目蓋なんかよりずっと。

 指先でクシャリと前髪を掻き乱す。
 涙は出なかった。
 きっと、さっき泣き過ぎてしまったから。

「今なら俺、絶対にイギリスを大事にするのに……っ!」

 壁一枚隔てた向こうにいる彼を想う。
 声を潜めていたのは眠っている彼を起こさない意図もあった筈なのに、感情が昂ぶってつい大きな声が出た。

「──なら、大事にすればいいだろ」

 そんな俺の耳に届いた声は真剣そのもので、顔を上げてフランスを見遣る。
 静かに湛えられた海の青、渦を巻く俺の感情とは裏腹に冷静なその色を目にして、目蓋が震える程に力が入り、ぎゅ、と眉間に皺を寄せた。

「だからッ! もう遅――ッ」

 しかし悲鳴にも似た叫び声が上がりそうになったその時、微かにスプリングが軋む音が聴こえて。


「……う、いつ……っ……」


 部屋の中から彼の声がする。
 どうやら目が覚めたらしい。
 断続的に聴こえるベッドのスプリングが軋む音に、自然と肩が竦まり続く筈だった言葉を切る。
 同じく緊張の色を走らせていたフランスは、俺と目が合うと顎を引いて眦を吊り上げて見せて。
 その視線が、俺に行けと促した。

「っ……やっぱり俺は此処で待ってるから、フランスが先に……」

「ダーメだ」

 声を潜めて嘆願するも、俺の願いはあっさり却下されて肩を掴まれる。
 無理矢理立たされ背を押され、俺は彼の寝室へと足を踏み入れた。
 周囲を見渡していた翠と視線が合えば、単純な俺の身体は胸を高鳴らせるけれど。
 気分は死刑台に送られる囚人のようだった。


「っ……イギ……」


 呼び掛けるより先に、彼の口が俺の名前を象る。


「……アル……?」


「え……?」

 象るだけじゃない、音も発した。
 確かに耳に届いたその声に目を見開くも、彼は俺の後ろに見付けたらしいフランスに向かって盛大に顔を顰めて見せて。

「んだよ、てめーもいたのか」

「ね……ねえ坊ちゃん、いま西暦何年?」

 後ろからフランスの声が近付いて来て、俄かに緊張を滲ませた相貌が横に並んだ。
 フランスの焦ったような早口よりも、きっとずっと早いだろう自分の心臓の音がバクバクと煩い。

「は? 知るか、カレンダーでも見やがれ」

 彼はフランスの問いをバッサリ切り捨てると、再び俺に視線を合わせた。

「それよりア、メリカ……どうしたんだ? 髭なんか連れて……お前がわざわざ来るなんて、その、久々じゃねえか」

 驚きと喜びが入り混じったような声。
 その音が、柔らかな声音で俺を呼ぶ。
 兎に角、何か云わないと。

「えっ? あ……、き、君がバナナの皮で滑って転んだって聞いてね」

「マジかよ!」

 フル回転で空回る脳が紡がせた適当な言葉に、目の前の彼は「全っ然覚えてねぇ…」と頭を抱えて恥入るように呟いた。

 これは、一体何だろう。
 とにかく彼は、俺達が生きている『今』の彼ではない事は確かで、気を失う前の彼の記憶も無いように見える。

 何を云えば、どうすれば。
 今はまだ……何も考えられない。

 彼が、俺を見て名前を呼んでくれた。
 現状何も解決なんてしていないのに、込み上げる安堵と喜びで頬が綻ぶ。

「……無事で良かったよ。……本当に、…良かった……」

 俺の声に顔を上げた彼の目許、青白かったそこに赤みが差した。
 パッと視線を逸らした翠がブランケットの上へ落とされる。

「……っ……た、楽しみだな……明日」

「……え?」

 何が明日なのか。嬉しげな彼に応えたいのに意味が判らない俺は、聞き返す意味合いも含めて首を傾げて見せて。

「……忘れたのか?」

 けれど、ゆっくりと俺に視線を合わせた彼の相貌は見る間に悲しげに歪められてしまう。
 何を、彼は何の事を云っている?全神経を集中させて、彼の言葉に耳を傾けた。
 目の前で揺れる睫毛は微かに俯いた後、ぎこちない笑みを俺の瞳に映す。

「あっ、いやっ、冗談に決まってるよな! お前んとこのテーマパーク貸し切って、デ……デートなんてよ。はは、悪ぃ……俺……」

 彼の口から紡がれた言葉を耳にして一瞬で蘇ったのは、もう半年以上も前の記憶。別れる前の。

 ───嗚呼……その約束は。

 弱々しい彼の声なんて吹き飛ばす勢いで、俺は身を乗り出した。
 隣にいたフランスを置いて自ら彼の前まで進み出る。

「っ冗談じゃない!」

 パチパチと彼の目が瞬く悲しみの色が消えたそこに、俺は尚も言い募る。

「明日、楽しみだね!」

「お、おう……。ま、まぁお前はどうせ遅刻してくるだろうけどな。あんま期待しねぇで待っててやるよ」

 呆気に取られた後に浮かべられる、苦い笑み。
 俺は左右に首を振った。

「しない。しないよ、絶対行く」

「時間通りに来た事ねぇじゃねーか。偶にすっぽかすしよ……」

 俺の必死さに、彼は訳が判らないと云うように左右の眉をちぐはぐに歪める。
 逸る気持ちを抑え切れずますます必死に身を乗り出して、俺は彼がいるベッドに両手を着いた。
 鼻先を突き合わせる距離まで近付くと、流石に彼が少し身を引いた。

「明日はしない!」

「そ、そうか…。……なら、もし遅刻したら、何でも言う事一つ聞けよ……?」

 彼の瞳に宿る、微かな希望の灯火。
 俺は一も二もなく頷いた。

「そんなのお安い御用さ! 喜んで聞くよ! その代わり、遅刻しなかったら君が俺の言う事を聞いてくれよ?」

「……なんかそれズルくないか?」

 目を細めて訝しむ彼に「そんな事ないんだぞ!」と返し、俺はまだ納得いかないと云いたげな眼差しに背を向ける。

「それじゃ、今日はこれで……、」

 声が震えた。
 彼と会話の応酬をする度に沸く喜びと、同時に胸を圧迫する息苦しさに身体まで震えてしまいそうになる。

「あっ、待っ……!」

 歩き出した俺の足は、けれど第一歩を踏み出し損ねてカクンと体勢を崩して。
 振り向くと、彼が俺のジャケットの裾を握り締めてそわそわとしていた。

「……あ〜、お兄さん先行ってるわ」

 それまで黙って見ていたフランスが、俺の肩を叩いて退室して行く事で思い出す。

(――そうか、今の彼から見た俺たちは、付き合ってるのか……)

「……アーサー、……また明日」
「ん……」

 僅かに腰を屈めて、ちゅ、と頬に唇を押し当てる。
 彼からも同じように贈られて姿勢を戻すと、何故か彼は至極真面目な表情で眉間に皺を寄せていた。

「アーサ……」
「――アル、お前……どうかしたのか?」
「えっ?」
「や、なんつーか…、上手く云えねぇけど――」

 一度言葉を切った彼が、ガシガシと頭を掻いてからもう一度俺を見上げる。

「何か辛い事でもあったのか?」

 俺の機微な変化も見逃すまいと、じっと見詰めてくる眼差し。
 その瞳は、まるで俺の機嫌を窺っているようで嫌いな視線だった。
 嫌いだった筈なのに、今、同じ瞳にこんなにも胸に熱いものが込み上げてくる俺がいる。

「……君は凄いね……」
「?」
「――笑顔を……、君の笑顔が見たい」
「そんな事で良いのか?」
「うん、それが良い」
「……そっ、そうか。よし」

 気恥ずかしげに視線を彷徨わせた後に一呼吸置いた彼の翠の双眸が、真っ直ぐに俺を映した。

「アル……アルフレッド。俺が付いてるからな、だから……大丈夫だ」

 ふわりと相好を崩す少しだけぎこちない笑み。
 子供の頃の俺はまだ知らなくて、恋人になって見られるようになった顔で、今の俺が失ってしまったもの。

「うん……うん。アーサー……好きだよ、……本当に君が好きなんだ」

 訝しげに眉を潜める彼をキスで誤魔化して、俺は今度こそ部屋を出た。


 



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