君がいる明日
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無償の愛≠無限の愛
無償の愛≠無限の愛10
「あ、送って行くよ!」
「ん? いや、平気だ」
鞄を片手に、上着も纏って準備の整ったイギリスが笑顔で俺を制する。
倒れていた彼の傍に落ちていたという其の鞄は、慌ただしく必要最低限の物だけ詰めて来たような、とても海を越えてやって来たとは思えない小さな鞄で。
上着を纏う前の彼の身体は、俺の知る記憶の中のどんな彼より痩せてしまった酷く頼りないものだった。
本人も「ンでこんな細っせーんだよ!」と不満を露わにしていたけど、俺もフランスも理由を問う声には閉口するより他なくて。
「……けど……」
「心配すんなって、」
さっきまで青白い顔で眠っていた彼は、嫌なこと全て忘れてしまった何でも無い顔で笑う。
聞いたところによると、今彼はスペインをボコボコにし終えて俺に、幼いアメリカに逢いに行く所だったらしい。
医者の診断結果は、分かってはいたけど記憶喪失。
目立った外傷は無く、倒れた時の打ち所が悪くて記憶喪失に……の線は薄い。
分かってる、きっと原因は俺にある。
遡った記憶は約300年。
俺が彼に総てを委ねていた時期。
治療法、不明。
いつ元に戻るのか、不明。
そもそも元に戻るのかさえ……、不明。
取り敢えず医者は、体力の消耗が激しいから暫くは安静に、との事で。
そうして今、イギリスの希望で彼をロンドンに帰す事になったんだけど……。
「お前さ、んなヘロヘロでちゃんと帰れんのかよ」
フランスが云う。
呆れた風を装うのは、彼にとって逆効果にしかならないとはフランスだって分かっているだろうけれど。
それでもそうしてしまうのは、心配している事を隠すフランスなりのポーズなんだと思う。
俺に何だかんだ云いながら、フランスだって大概素直じゃない。
案の定、イギリスは俺に向けていた笑みを潜めてフランスに対し眉を顰めて見せた。
「馬鹿にすんな。馬車で港まで行きゃ後は船で………あ? ンだよその顔」
「……イギリス……お前、やっぱアメリカに送って貰え」
ぽん、と肩に於かれたフランスの手を煩わしげに払ったイギリスが首を傾げる。
けれど迷っていた俺の心も決まった。
俺の所為で記憶を失ってしまった彼に途惑うより先に、俺にはやらなきゃいけない事がある。
「……俺も様子見に行くけど、しっかりやれよ」
そっと囁くフランスに頷き返し、イギリスの手から荷物を奪って。
「あ……おいっ、」
「行こう、イギリス」
「……ったく、何なんだよ……」
病院に駆け付ける直前までカナダに滞在していたらしく、「荷物も全部置いて来たから一旦戻るわ」と告げるフランスと別れ、俺はイギリスと二人、英国の地を目指した。
* * *
彼と一体何を話せば良いのか、どう接すれば良いのかと心配していた空の旅は、なかなかに充実した時間だった。
「すげーな、あのヒコーキって乗り物は」
興奮醒めやらぬ、と云った様相で頬を紅潮させる彼が、飛行機の素晴らしさを力説する。
俺達は今、その飛行機を降りて彼の自宅へと向かっていた。
「君、はしゃぎ過ぎで凄く恥ずかしかったんだぞ」
楽しそうな彼に俺まで楽しくなって、いつもは「金が勿体無いだろ!」なんて貸し切りを嫌がる彼の事を今日だけは忘れて、二人きりで乗れば良かったと少し悔やむ。
そうすれば、彼が人目を気にせずに済んだのに。
離陸する時の衝撃に驚いて俺に身を寄せたり、窓の外を見てはしゃいでいるのが自分以外には子供しか居ないと知った時の彼の反応は可愛かったけど。
「う、しょ……しょうがないだろ。あんなん初めてだったんだから……、……悪いな」
「え?」
不意に彼が表情を陰らせた。
「恥ずかしい思いさせてよ……」
「ッ! ちがっ……」
まただ。どうして俺は素直にものを云えないんだろう。
焦る俺の耳に、寂しげな呟きが届く。
「こんなんじゃ、兄貴失格だな……」
「……え、」
苦く笑う彼の横顔は、兄の顔だった。
嗚呼、そうか、そうだったね。
今のイギリスにとって俺は、身体が大きくなっただけの弟で。
兄弟という事を、「──兄貴なんか失格でいいじゃないか」そう心の底で否定したがっている自分がいる所為で、上手い言葉を返せない。
兄弟なんかじゃなくたって、俺は――。
「……イギリ……、」
「なあ、俺達……上手くやれてんのか?」
俯き加減だった彼の横顔が、くるりと俺を見る。
不安そうに眉を下げた分かり易い顔で、彼はひたとその翡翠を俺に注いでいた。
「あ……当たり前じゃないか!」
心臓が、ドキリと一つ跳ねて。
一瞬俺までつられて同じような顔をしそうになったけど、そんな自分を吹き飛ばして拳を握って力説する勢いで断言する。
「そ、そうか。……良かった……」
俺の言葉に、多分声の大きさと必死な形相に驚いたんだろう瞬きを何度かした後、彼は照れ臭そうに頬を掻きながら前へと向き直った。
「はは、そ……そうだよな、当然だよなっ! ――けど、良かった……不安だったんだ。お前が大きくなって、一人前んなっても……一緒にいられるのかって」
じわりと涙が込み上げて来るのを、瞬きをせずにいて乾かす。
いられるよ、ずっと一緒にいられる……君と一緒にいたいんだ。
「……アメリカ?」
「なんでもないよ」
俺が何も返さずにいる事を不安に思ったんだろう、名前を呼んで僅かに視線を寄越す彼に笑って見せると、彼は満足気に「そうか」と頷いてまた前を向いた。
横顔は、兄の顔をしていた。
「初めてお前をこの手に抱いた時に誓ったんだ。これからは……二人支え合って生きて行こうって」
誇らしげに微笑う彼に、俺は言葉を返せなかったけど。
胸のつかえが取れたように、周囲の……300年後の景色に気を取られ始めた彼は、俺が意図して言葉を返せずにいた事には気が付かなかった。
* * *
「どうした?」
「いや……」
彼の家へ行くに当たって、俺には気懸かりが幾つかあった。
例えばそう、妖精──。
もしかしたら、フランスが云っていた通り俺は彼の家に入れないんじゃないか。
あるいは、もし妖精が彼に俺と仲直りしたのかとか、別れたんじゃなかったのか……とか、そういった類の質問をしたら。
自ずと露見してしまう俺と彼が付き合っていた事実に、兄弟だと信じて疑わないこのイギリスは、一体どんな反応をするだろう。
既に扉の前に立って訝しげに俺を振り返る彼に向かって、緊張の一歩。
「…………あれ?」
「? なんだよ、変な奴だな」
けれど俺はあっさり彼の敷地内にも、家の中にも入る事が出来た。
扉を開けた瞬間に彼の家に住まう俺の目には見えない得体の知れない妖精とやらがすっ飛んで来て、俺について訊ねたといった様子も無い。
そして、そうやって家の中に入ってしまえば、俺が心配していた色々は杞憂に終わった。
勝手知ったる彼の家。
300年前と何処が変わっているのかなんて俺には分からないけど、彼と二人で手当たり次第に家の中を探検して、彼の目についた彼の知らない物の存在……主に家電なんかの使い方を片っ端から説明した。
機器にいちいち驚いては俺を楽しませてくれ、昔はあった筈らしい物が無いと寂しげに瞳を陰らせる。
沈んだ横顔を見る度、なんと言葉を掛けて良いのか判らず只彼を見詰めるしか出来ない俺に、彼は決まってこう云うのだ。
「けど、ま……アメリカがいてくれるなら良いか」
諸々を済ませる頃には、全然寝てなかった俺の目蓋は物凄く重たくなっていて。
多分、久し振りに間近で感じる彼の存在も大きかったんだと思う。
何時の間にか眠ってしまっていた俺が次に気が付いたのは、翌日の朝になってからだった。
遡った記憶は約300年。
彼が俺に精一杯の優しさと慈しみを注いでくれていた時期。
俺もフランスも、目を覚ました彼に敢えて告げずにいた事があった。
それはわざとだけれど、決して悪気あっての事じゃ無くて。
でも其れは、ちゃんと俺の口から伝えなければいけない事だったんだ。
その事に、俺はまだ気が付けずにいた。
『………を………に……なきゃ……』
夢の中で誰かが教えてくれた気がしたけれど。
『……もし……たら、きっと……』
目が覚めた時の俺の記憶には、残念ながら欠片も残ってはいなかった。
『今度はゆるして貰えないかもしれないよ』
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