その手を離せ6
夜、俺は昼間の1件でアーサーと顔を合わせ難くて、自ら見張りを申し出てマストの天辺に居た。
嵐が来るから無理せず適当に切り上げろと言われたけれど、雨が降っても風が吹いても、見張り台にぼんやりと腰を降ろして視界が悪い中、暗い水平線の彼方を見遣る。
横殴りの雨が少し痛くて、吹き付ける風に体温を奪われた。遠くに小さな島のように盛り上がった陸地が見える。
しかしそれらは五感が勝手に感知しているものであり、考えるのはアーサーとイギリスの事ばかり。二人は同一人物である筈だから、結局俺の脳内はたった一人に占拠されている事になる。
いい加減自分の思考が嫌になって来た頃、それを見つけた。
強風に煽られてよたよたと歩くあのボサボサ頭は――。
「アーサー!?」
俺はどんなに天候が悪化してもテコでも降りようとしなかったマストの天辺から慌てて降りると、腕を額に翳して雨を凌ぎながらアーサーの元へと向かった。油断すると直ぐに足を取られてしまいそうな程、風が強い。
見つけた彼はなにやら作業中のようで、昼間は自分も似たような物を使っていた工具から、船の補強作業を行う気でいる事が分かる。
「何してるんだい!? 戻りなよ! そんな身体で……!」
「うるせぇ! これくらい……っ!」
思わず伸ばした手は速攻で払い落とされた。
睨み付けられる眼光の鋭さはいつもに比べると弱いもので。肩で息をする姿はどう見ても辛そうだ。
俺の語調も自然と強くなるが、アーサーには全く堪える様子がない。
徐々に強くなる雨脚が俺達二人をずぶ濡れにする。こうなったら引きずってでも部屋に連れ帰ろうとしたその時、俺の気配を察してかアーサーが立ち上がった刹那、突然の疾風に船体が大きく揺れてアーサーが体勢を崩す。
「危ない!」
腕を伸ばして自分の方へ引き寄せると、アーサーの身体は力無く俺の胸に収まった。
こんなにふらふらで、本当に何を考えているんだ。
「あ、さ…さんきゅ……」
小さく礼を紡ぐ彼は、しかし直ぐに俺から視線を外すと腕の中から逃れようとする。
こんな嵐の船の上、いつ海に投げ出されてしまうとも知れないじゃないか。
「どうして……っ!」
「っ…いてぇよ! ゴホッ……昼間から、嵐の予兆はあったんだろ? ……そん時俺は寝て過ごして――」
痛みを訴える抗議に応じて力を緩めると、眉間に深く刻まれた皺が震えるのが至近距離から見て取れた。
泣くか……と思ったが、アーサーは歯を食いしばると、工具を握る手に力を込めて再び作業に戻ろうとする。
──どうして……其処まで?
まさか作業に参加できなかった罪悪感か?それとも他の者の手は信用出来ないのか――。
否、他人を信用出来ないのであれば其れは『自分の為』だ。ならば彼がこんな、却って自分の身を危険に晒す事などする筈が無い。
となると、彼は自分の身も省みず……誰も呼ばず、一人でこの嵐に対抗する術を講じる気でいると云うのか。
普段ならばこんな無茶はしない筈だ。彼の指示はいつも的確だった。余りに効率が悪すぎる。
風邪で弱った心が、何かを掻き立てるんだろうか。
「っ君って奴は! もっと……!!」
叫ぼうとして口を噤む。
もっと……なんだ?
周りに頼れ?自分を大事にしろ?
そんな事を言って素直に聴く彼であれば、今頃こうはなっていなかっただろう。
しかし、掛ける言葉を探して迷う最中も嵐は悪化するばかりで。
俺が自分の思考に気を取られて居ると、突然アーサーに突き飛ばされた。
甲板へ強かに背を打ち付け、そのまま雨で濡れた床板を滑る。
俺が顔を上げた、その時――。
「なっ……!? アーサー!?」
高波が船上を薙ぎ払うように襲って来て、甲板に叩き付けられるけたたましい水音が辺りに響く。俺は咄嗟にマストの主柱にしがみ付いてやり過ごした。
「――アーサー!」
俺は船上にアーサーの姿が確認できないと見るや否や、甲板の端ギリギリまで近付いて眼下に広がる暗い海を見下ろす。
先程の波で、甲板にぐるりと巡らされていた柵の役割を果たす部分が抉れてしまったから、こんな所に居ると俺も危ない。
「アーサー! どこだい!? 返事をしてくれ!」
俺はたった一人しか居ない船上で雨音に負けないくらい声を張り上げ、もう一度暗い海面へ目を凝らした。
アーサーはいつまで経っても浮かんで来ない。
当たり前だ、こんな嵐じゃ――。過ぎる不安を、頭を振って打ち払う。
「泳ぎは得意だって、言ってたじゃないか!」
右へ、左へ、忙しなく視線を巡らせて。
1秒がとても長いような、短いような、そんな感覚に襲われる。
心臓の鼓動が先程からバクバクと煩く胸を叩いていた。
――居ない、居ない、何処にも。
海は、怖い。つい先日、自分は溺れたのだ。
けど──。
「……Shit!」
俺は冷たい夜の海へ飛び込んだ。
泳ぎ方を思い出すように一つ一つの動きを丁寧に、けれど水の流れが早い海中を必死にもがいて目を凝らすと、力無くその身を水流に任せるアーサーの姿を見付けた。
見失わないよう瞼を抉じ開け、俺は漸く彼の身体を胸に抱くと海面へ顔を出す。
だいぶ流されたらしく、船の姿は遥か彼方に見えた。
(だったら……)
船とは逆の方角を見遣る。目当てはさっき見張り台から見えていた島だ、こちらの方が、まだ距離が近い。
俺は自分よりも小さな身体を抱え、無我夢中に泳いだ。
「うっ……ゴホッ、くっ……アーサー、」
漸く海岸まで辿り着く。
アーサーはと砂浜へ降ろした隣を見れば、何の反応もなく只ぐったりと横たわっていた。
「……アーサー?」
仰向けに転がして呼吸を確認する。ふらつく身体を叱責して口元に耳を寄せた。
――息をしてない。
「なっ……ちょっと待ってくれよ!」
冗談ではない。頬を叩いては横たわる胸に手を当て、心臓の辺りに耳を当ててみるが、自分の鼓動が五月蠅すぎて確認出来ない。
駄目だ、焦ってはいけない。
俺は大きく深呼吸をすると、片手でアーサーの鼻を摘んでもう一方の手で顎を掬った。
大きく息を吸い込み、アーサーの冷えた唇を同じくらいに冷えた自身の唇で塞ぐ。
「──……アーサー……っ」
やり方なんて良く知らない、けれど止める事も出来ずに無我夢中で拙い人口呼吸を繰り返して居ると、「ゴホッ」と咳き込む音がしてアーサーが水を吐いた。
「アーサー! しっかりしてくれよ!」
次に何をすれば良いのか分からず、俺はただアーサーの身体を揺さ振り、名を呼ぶ事しか出来なくて。
暫くすると咳は収まったが、触れる身体は相変わらず熱が高く、肩を上下させながら時折苦しげに眉間を歪めて呻き声を漏らしている。
「どうすれば……」
途方に暮れて辺りを見渡す俺の視界が信じがたいものを映した。
自分の腕が、横たわるアーサーを抱える自分の腕が、まるで今にも消えてしまいそうに透けていて、向こう側の景色……砂浜が見えている。
俺は慌てて反対の手で押さえた。感触はある。
(戻る……のか? 元の世界に。何もこんな時に……っ! 否、それとも――)
俺は自分の考えに、一瞬で血の気が引いて蒼くなる。
今の俺は、イギリスなくして存在しない。
"アメリカ"という国は彼が居ても居なくてもいずれ出現し、存在し続けるのだろうけど。今ここに居る俺は、紅茶よりも珈琲派で、彼の所為で味覚音痴と称されて、本当はあまり彼の事ばかり言えない位……倉庫に閉じ込めた思い出を大切にしてるこの俺自身は、彼なくしては存在し得ない。
(もしアーサーが、イギリスが……俺と出会う前に──)
俺は元の力さえあれば軽々抱き上げられただろうアーサーを、彼の腕を自分の肩に回させて立ち上がると、半ば引き摺るようにして歩く。
腕はいつの間にか色を取り戻していたが、あれが気の所為や見間違いだなんて思えなかった。
けど今、一番大事なのは――。
「絶対に死なせない」
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