その手を離せ3
「んだよ、緊張感のねぇ奴だな」
アーサーは呆れ顔で呟くと、俺への興味が失せたようにピストルをホルスターへと戻して皿の上のスコーンへ向き直った。
照準が外され、安堵に胸を撫で下ろす。
驚きのあまり尿意が引っ込んでしまった。
恨みがましい視線をちらりと向けると、殺気の失せた彼は矢張り自分が知るイギリスと良く似ていて。
暫しそのまま立ち尽くしていた俺は、しかし一度自覚してしまうと抗いきれない空腹感に負けてアーサーへと歩みを寄せた。いかにも不味そうなスコーンを注視する。
「っおい! 勝手に喰ってんじゃねえ!」
(……やっぱり不味いんだぞ)
俺は無造作に伸ばした腕で皿の上のスコーンを一つ攫うと、一口齧り付いてもぐもぐと咀嚼する。
さっきは生命の危機すら感じたと言うのに、姿がイギリスに似ている所為かどうにも緊張感が続かない。
そしてアーサーはといえば、まさか俺がスコーンを……訂正、一見すると正体不明な黒ずんだ物質を食べるとは思わなかったのか、条件反射のように叱責を飛ばした後はわたわたと慌て始めた。
(そうしてると、益々イギリスに見えて来るよ)
しげしげと見遣る俺の中に悪戯心が芽生える。
俺の知るイギリスは、自分の手料理を美味いと食べて貰えたのは俺が初めてだと言っていた。
なら今目の前にいる彼は、誰かに言われた事があるだろうか。
さっき昔の夢を見てしまった所為か、幼い頃にイギリスの手料理を「美味しい」と言った時に見せてくれた笑顔や、その事について現在も聞かされる酒の席での言葉を思い出す。
どんなに嬉しかったと言われても、過去の自分を引き合いに出されると何故か嫌味しか出て来ないけれど――。
俺が無言で居ると、アーサーはその太い眉をキッと吊り上げて俺を見遣った。
「な、なんだよ……言いたい事があるならはっきり……!」
「美味しい! これ凄く美味しいよっ」
にっこり。
仮に。仮にこれが俺の見る夢の世界で。アーサーは俺の持つイギリスに関する記憶が作り上げた登場人物だとしたら。
そんな仮定をしてみる。
手料理を食べて貰うのが好きな彼の事だ、悪いようにはならないだろう。そう思って満面の笑みを浮かべた。
「っっ!! なっ……ななっ……」
「もう一つ貰って良いかい?」
「お、おおおおう、しょうがねぇな……!」
訊ねながら二つ目へと手を伸ばす。
反応は上々。耳まで赤くしたアーサーが不審者さながらの所作で皿を差し出してくれた。
イギリスの作る料理は非常に不味い。これは世界共通の、ある意味で常識だ。
けれど、俺はそんな彼の手料理が別に嫌いではない。
勿論、不味い事に変わりはないから文句は言うけどね!
それを日本にだけこっそり教えた事が有るんだけど、そうしたら日本は「アメリカさんはイギリスさんの事がお好きなんですね」なんて見当違いな事を言って微笑った。
冗談はよしてくれよと俺が即座に否定すれば、日本は少し考えた後に「では、幼い頃からイギリスさんの手料理を食べて育ったアメリカさんの味覚は、既に壊れてしまって居るんですね」と言ってきた。
これも否定したかったけど、日本が絶えず浮かべる見透かす様な笑みに、俺が何を言ってもロクな言葉は返らないと悟ってそっぽを向いた事を思い出す。全く、これだから老大国は。
もそもそと咀嚼していると喉が渇いて来た。
此処に来てから何も飲んで居ないし、パサパサのスコーンに口中の水分を奪われてしまったのだ。
「アーサー、喉が渇いたんだぞ」
「お前、捕虜のクセに生意気な奴だな……ったく、親の顔が見たいぜ」
(君だよ)
なんて言える筈がない。きっと俺の知るイギリスに言えば喜ぶんだろうけど。……ああもう、何だか訳も分からずムカムカしてきたんだぞ。
俺は即座に自分の考えを打ち消す。イギリスとは親子でなければもう兄弟でもないのだから。
何が良いかと訊ねる声に、暫し逡巡してから「…紅茶」と呟く。
スコーンを褒めてからのアーサーは纏う空気が柔らかくなった。
気分は勿論コーヒーだったけど、出来るならばこのまま穏便に事を進めたい。
別に、こんな訳の分からない状況下に於かれて今だって頭が混乱してて、懐かしいイギリスの紅茶を飲みたくなった……なんて訳では決して無い。
「そうか。……自分の選択に誇りを持って喜ぶんだな。俺の前で紅茶以外なんて言ってみろ、お前の身の安全は保証できなかったぜ?」
アーサーは物騒な事を言いながら腰のナイフを抜く。
俺は反射的に肩を跳ねさせて一歩後退った。いちいち得物を出さないで欲しい。
邪悪な笑みだが愉悦の滲む双眸で冗談と読み取る事は出来るものの、これでは心臓が幾つあっても足りない。
両手を挙げて降参のポーズを取ると、アーサーが声を上げて笑った。
「ははっ、ばーか。冗談に決まってんだろ」
(……あ……)
何か言葉を返すよりも先に視線が奪われる。見たことの無い表情だと思った。
独立前に見た柔らかな笑顔や不慣れなぎこちなさが滲む微笑みとも、独立してから新しく見るようになった皮肉めいていたり酒で理性を飛ばした時に浮かぶ笑みでもない。
今まで見た中で、一番自然体なんじゃないかと思えた。
彼、アーサーが俺……アルフレッドに向ける笑みが。
珍しい笑みは直ぐに元通りの眉間に皺を寄せたそれへと変わり、咄嗟に反応を返せずに居ると、アーサーが淹れ終えた紅茶を俺の目の前に置いた。そして。
「……え?」
再び彼が手にしたナイフが、ヒュッと乾いた音と共に空を切っ俺のて鼻先で一閃したかと思うと、両手を拘束していた縄が床に落ちた。
「ふん、邪魔だろが」
目を白黒させる俺には視線を合わせず、残骸を拾い上げながら告げる姿は日本がイギリスを見て偶に言う『つんでれ』な時の顔をしていたのに。
「――ただし、妙な真似すんじゃねえぞ」
そう言いながら手にしたままのナイフの切っ先を俺に突き付けてみせる彼の顔は、一変して酷く冷めた目をしていた。
まるで、今目の前に居る俺ではない……他の何かを見ているような。
(ちゃんと、あんな風に笑えるのに)
思い浮かぶのは先ほど見たばかりの楽しげな笑み。純粋に友達同士でバカをやるような、そんな。
それが酷薄な無表情に塗り替えられて行く。
「誰も信じていない」そう言外に告げるような冷めた色で俺を映す双眸。
何が彼をそうさせるのだろうか。
紅茶はミルクが先に入れられて居て、丁度良い温度だった。
俺は空になったカップを机へ置き、苦笑を一つ残して食堂を後にした。
* * *
翌朝。昨夜はあのまま色々と考え込んでしまってなかなか寝付けなかったと云うのに、叩き起こされて甲板に連れて来られた俺は今、波に揺られる度に傾く身体を両足で踏ん張って立ちながら、片手で剣を構えたアーサーと対峙して居る。
俺の手にも同じ剣。
イギリスに聞いた事がある。幅広で湾曲した刀身を持つこの短刀はカトラス、人を切るのに適した武器だ。
周りには野次を飛ばして来る海賊達が、俺とアーサーを囲うように群がっている。
どうやら船長であるアーサーが直々に俺の力試しをする流れらしい。
今は本調子ではないのだから、出来るならば数日待って貰いたい所だが、そんな事を言った所で叶う筈も無いだろう。
「船内をくまなく調べてみたが、他に怪しいモンは一つも無かった。お前の存在以外は、な。だが、お前は何を訊いても『分からない』『気が付いたら此処に居た』しか言わねえ。……なら、身体に訊いてみるのが一番早ぇだろ? ――来いよ。俺の帽子を落とせたら、お前の言い分を信じてやる」
アーサーが昨日と同じ海賊帽を指先でくいと持ち上げて示す。
「……もし、出来なかったら?」
「そうだなァ……俺が思い付くまでは粘れよ!」
言い終える前からアーサーが固い靴音を響かせて床板を蹴る、小柄なだけあって身軽な彼は一瞬で間合いを詰めると、重心を低く構えた体勢から斜横に薙払うように刃を振り上げた。
「くっ……! いきなり……!」
寸での所で上肢を逸らして避けた俺は、そのまま後方へ飛び退いて間合いを取り顔前で手の中の得物を構える。
半ば遊びのつもりなのだろう。大胆なアーサーの攻撃は読み易い。このまま彼が本気を出す前に蹴りを付けたい所だ。
体勢を立て直すのも煩わしげに直ぐさま追撃を仕掛けてくるアーサーの猛攻を、刃で受け流せば今度は彼の方が後ろへステップを踏んだ。俺達の間に適度な距離が空く。
――この勝負、恐らく……勝てる。
だが其れは、昨日否定したばかりの自分の予想を認める事に繋がってしまう。
俺は直ぐ後ろから聴こえる波の音に背筋をひやりとさせつつ、愉悦の滲む口許を隠そうともしないアーサーを見据えた。
「なかなかやるじゃねぇか」
アーサーは短い口笛を吹いて刀身を肩に乗せると構えを解いた。一見隙だらけだが、此処で突っ込むと痛い目を見ると俺の古い記憶が告げる。
(やっぱり、君は……)
俺の剣技はイギリス仕込みだ。
当然、基礎から手の内までその殆どを掌握している。更には独立を決めた時に其れに対抗し得る術も磨いた。それに――。
「――んだよ。来ないならこっちから行くぜ! ……っ!?」
癖が、昔のイギリスと同じなのだ。
まだ純粋だった俺は彼の癖を本人に指摘してしまい、その後イギリスが癖を克服してしまったが為に容易に隙を突ける術を失ったのだけど、アーサーにはその癖があった。
正確に表現すれば、「まだ残っている」だろうか。
(此処は本当に……)
心の中でいくら問い掛けた所で返る言葉は無い。
迫り来るイギリスの、上手い具合に横を抜ける間際。俺の目算では確かに掴み取った筈の帽子が、けれど踏み込みが甘かったのか後一歩届かずに鍔を掠めただけで指先が空を切る。
思わぬ失態につい舌を打つが、天は俺に味方してくれるようだ。
ずれた海賊帽はそのまま不意の突風に煽られて宙に舞う。
俺は今度こそ掴もうと手を伸ばす、そこまでは良かった。
「あ……」
「っな!」
俺の間の抜けた声と、アーサーの驚きを滲ませた声が重なった。
一度は味方してくれたかに思えた突風は、目当ての帽子を飛ばすだけでなく船体を大きく揺らし、船上に不慣れな俺の足下をおぼつかせて船外へと放り出してくれたのだ。
「……っ!」
息を呑んだ瞬間、水飛沫と共に海面へ叩き付けられる落下音が辺りに響く。
俺は痛覚に気を回すより先に海面へ出ようと四肢を動かすけれど、何故か思う通りの力が出ない。
着衣水泳だから?否まさか、そんな筈は無い。
プロイセンに鮫のように早いと言わしめるほど、泳ぎは得意だ。
なのに、本当にこれが自分の手足かと疑いたくなるくらい力の入らない身体は、泳ぎ方を忘れてしまったかのようにとても重くて。
焦るあまりに、此処が海中である事も忘れて口の中の酸素を吐き出してしまう。
(……っ!)
唐突に。此処まで来て漸く俺は昨日から続く不調の原因を理解する。
昨日自分が描いて否定した予想を、可能性の一つとして認めるではなく、事実として受け入れざるを得なくなった。
(此処は、"過去"なのかい……?)
自分は今"アメリカ"では……"国"ではない。
だから、国家として持つ力が出せていない。
何故ならこの世界にはまだアメリカが、あの、気が付いた時には大草原の中に居た自分が居ない、まだ出現していないのだ。
此処にいるのは一つの生命で、歴史と共に滅びない代わりに国家のように身体が頑丈ではない、只の人間。
そう気付いた瞬間、頭で考えるより先に更に体が重くなった俺の意識は此処で途切れた。
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