君がいる明日 - main
その手を離せ

その手を離せ2


 独房と聞いて、此処へ運ばれる迄は不安に思ったのだが、想像よりは遥かに居心地が良い……とも言えないけど、少なくとも幽霊が出そうな雰囲気では無い事に心底安堵する。
 鉄でもコンクリートでもない木製の窓がない小部屋に、毛布代わりの布一枚、縄で縛られたままの自分。
 なるほど。木製なんて簡単に抜け出せてしまいそうだけど、縄で縛ったままなら問題無いか。軟弱そうな格子を眺めながら俺はそんな事を考える。
 自分ならばこんな縄、簡単に切れてしまうのではと試しに力を入れてみたけど、固い荒縄は肌に食い込むだけでびくともしなかった。
 視線をぐるりと巡らせてみるも逃げ出せる当ても無く。そもそも此処を出た所で海の上なのだから他に行き場も無い。俺はそれ以上力を込めるのを止める。
 それに、身体が酷く重い。こんな良く分からない所に居るのだから当たり前か……そんな事をぼんやりと考えながら、分からない事だらけの中、たった一つ自分が良く知る顔を思い浮かべる。

(イギリス……)

 あれは本当に自分が知るイギリスなのだろうか。
 鬱陶しい程に世話焼きで、独立した事を未だ根に持っていて、酒癖が悪くて、直ぐ泣いて。何だかんだ言って俺にとても甘い――そんな。
 他にする事も無く、床に転がっていた半身を起こして壁に背を預け、此処に至るまでの出来事を思い起こす。



 つい先刻の出来事だ。場所はイギリスの家、彼との口論の末に先に背を向けたのは俺で。
 どうせ怒って真っ赤になった顔で泣きそうにしているのだと、そんな顔をわざわざ見る気になれず、振り返らないで部屋を出た。
 その後、どうにかイギリスの鼻を明かしてやりたいと思い立ち、ふと浮かんだのは、イギリスが奇跡の力……などと言って偶に取り出す先端に星の付いたステッキ。あれの星の部分を握り潰してやろうとか、棒をポッキリ折ってやろうかとか、そんな事を考えながらも実際やるつもりは無く。

(ちょっと慌てさせようと思っただけなのに……)

 こっそり持ち出したステッキを見せた時の反応が、あまりに過剰なものだったから。
 本当に自分がイギリスの持ち物を壊すと思って居るのだろうかと、ムッとして後に引けなくなって、返せと掴み掛かるイギリスと揉み合って、気が付いたら此処に居たのだ。
 お陰で、目当てだった筈の慌てふためいた顔を見たと云うのに全然すっきりしない。
 今だって、あの顔を思い出すと胸の辺りがもやっとする。
 俺が本当にしたかったのは、あんな事じゃなくて……もっと――。

(――考えるのはよそう)

 普段忙しいだけに、こうもやる事が無いとおかしな事ばかり考えてしまうようだ。
 さっきより沈んでしまった気分は易々と浮上してくれる気がしなくて、俺は溜め息と共に目を閉じた。

 木造の船体が、風に揺られる度にギイギイと鳴いている。
 こんな木の継ぎ接ぎで造った船の形の巨大な塊で航海に出るなんて、昔は主流だったが今思えば凄く勇気が居る事かも知れない。こんな船、一体何処の博物館から持って来たのだろうか。

「……っい……!」

 舵を取ったのか、大きく揺れる船体に合わせて身体が傾き、壁に預けた背が擦れる。
 服の下の傷に上手い具合に障った。

(まったく、紳士が聞いて呆れるよ)

 傾いた体勢を起こして再び壁へと慎重に寄り掛かる。
 いつもなら気にならない程度の怪我なのに、暇だと痛覚は過敏になるのか。傷の治りがやけに遅く感じる。
 そうして暫く薄暗い場所で目を閉じて居ると訪れた睡魔に、俺は抗う事なく意識を手放した。




 イギリスの事ばかり考えて居た所為か、夢にイギリスが出て来た。
 昔の夢だ。
 何で分かるかって?
 そりゃあ、彼がこんな穏やかで幸せそうな笑顔を俺に向けてくれる事はもう無いからさ。
 とても懐かしい、けれど、胸が苦しい。

 俺を子供扱いするイギリスが。俺を対等に扱わないイギリスが。
 もどかしく感じるようになったのは、一体いつからだろう。

 嗚呼……そうだ。喧嘩の原因もそれだった。
 いつもの素直じゃない彼にプラスして、今日は昔の事まで持ち出して子供扱いされたものだから。
 俺もつい、「もう君の弟じゃないと何度言えば分かるんだい?せっかく君から独立して清々したってのに、いい加減にしてくれよ」なんて。
 そう捨て台詞を吐いて部屋を後にした。その後も喧嘩になって揉み合って……仲直りしていない。

 目の前の、俺の夢に出て来たイギリスをぼんやりと見遣る。
 あんなに沢山見せてくれた笑顔なのに、それ以上の泣き顔と怒った顔を見てしまった所為で思い出すのはいつもそちらだ。

 謝りたい。……何を?――分からない。
 取り合えずは、さっきの言葉を。
 ……嗚呼、もしかして俺が酷い事を言ってしまったから、イギリスは怒ってこんな妙な真似をしているんだろうか。
 いや、俺の言葉なんて気にしてなくて、彼の変なステッキを持ち出してしまった事を怒っているのかも知れない。
 けれど、イギリスなら俺が謝れば許してくれる筈さ。

 目の前で繰り広げられる古い映画みたいな記憶の映像に、ふと既視感に似た奇妙なむず痒さを覚えて、ぼんやりとしていた視線を凝らす。

(……あれ……)

 まだ幼かった自分の元へやって来たある日のイギリスの服装が、港まで迎えに出た時に見た船が、先程の光景とシンクロする。

(そんな、でも……)

 しかし。船から降りて俺を見付けると、いつだって途端にふにゃりと柔らかく笑んだイギリスの顔と、アーサーと自称したイギリスの冷たい双眸が重ならない。

(――いや……)

 知っている。
 幼かった自分に向けられた事は無かったが、俺はあの顔を見た事がある。
 当時、フランスや……特にスペインと対峙した時の彼は確かあんな顔をして居た。

(……まさかね)

 浮かんだ考えを直ぐさま否定すると、現実では眠っていた意識が徐々に浮上し始めたのを感じる。
 俺は、これでおかしな思考から逃れられる安堵と、此処で考える事を止めてはいけない焦燥に駆られながらも、込み上げる欲求に従って瞼を持ち上げた。

 ――トイレに行きたい。


 瞼を持ち上げると、辺りは薄暗かった。
 どうやら結構長い時間眠っていたようだ。
 格子の向こう、椅子に腰掛けてうつらうつらと船を漕いでいる男に声を掛ける。

「おーい、そこの人! トイレに行きたいんだけど此処を開けてくれないかい? 漏れそうなんだ!」

 大きな声を掛ければ、びくりと肩を強ばらせて男が目覚める。
 最初は渋って居た様子だったが、漏らすと言えば気だるげに腰を上げた。
 木製の格子に掛けられた南京錠が重厚な金属音を響かせて外され、外に引っ張り出される。
 そして後ろ手に縛られていた縄を前で縛り直されると、男は通路の奥を指して「さっさと戻って来いよ」と眠たげに掠れた低音で告げた。
 縄は僅かに緩めてあって、これなら一人でも用を足せるだろう。
 しかし――。

「…………」

 ごくり、生唾を呑む。ゆらゆらと揺らめくランプの灯りだけが頼りの薄暗い通路を前に、暫し立ち尽くす。
 付いて来て欲しい……なんて大の男が言える訳ないし、強面の海賊の隣を歩くのだってある意味ホラーだ。
 俺は諦めて、宵闇の中へと足を踏み出した。


  * * *


 等間隔でランプのオレンジが灯るだけの薄暗い通路を、ギシギシと床板を踏み鳴らして歩く。怖い。
 不安定な船内を壁伝いに緩慢と進んで居ると、不意に不快な異臭が鼻先を掠めた。思わず足を止める。

(焦げ臭い……火事……!?)

 こんな木造船で火災など冗談では無い。
 俺はさっきまで暗闇に感じていた恐怖も忘れて異臭のする方へと駆け出した。
 明かりの点いた一室がある。
 迷う事なく飛び込めば、何か口を開くよりも先に、部屋の隅でびくりと肩を強ばらせるボサボサなヒヨコ頭が目についた。

「っ誰だ! ってお前かよ。……、……いや、つか、おい待て。何でウロついてやがる」

 俺の顔を見て一度は前へ向き直り掛けたアーサーが再び此方を振り向いた顔は剣呑さを湛え、片手にはピストルが、もう片方の手には見覚えのある食物兵器……スコーンが握られていた。
 それだけで焦げたような異臭の原因を察してしまった。呆れると同時に安心する。矢張りこのアーサーはイギリスだ……と思いたい。
 俺は慌てふためいて縄で縛られた両手を掲げながら無害をアピールする。

「っトイレ! トイレに行きたくなったんだよ! そうしたら見張りの人が勝手に行けって……」
「ちっ、アイツ等……」

 銃口の照準をばっちりと当てられた一触即発な雰囲気の中、突如として第三者が乱入して来た。

 ぐうぅぅぅぅう……。

 俺の腹の虫だ。
 思えば此処へ来てから何も口にしていない。


 



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