その手を離せ1
これは、きっと夢に違いない。
それは何て事無いいつもの言い争い、いつもの小競り合いから始まった。
相手は誰か、なんて決まってる。イギリスだ。
今日は仕事のついでに彼の家に寄って、頼んでも居ないのに出されたいつものように不味いスコーンを食べて、まともな会話なんてどれ程続いただろう。
直ぐに始まるお馴染みの軽口の応酬。
いつもと変わらない事なのに、その日は何故だかいつも以上に不愉快で。
ああ…何を言いわれたんだったかな。
痛みに気を削がれて思い出せない。
兎に角、だから……そう、俺はちょっとした仕返しを企んだのだ。
其れは俺にとって、彼の額を小突くのと同程度の可愛い悪戯のつもりで、なのに彼が余りにも過剰な反応をするものだから後に引けなくなって。
こうして後から思い返すと、それこそ正に彼が言うような「子供」だと思うけれど……俺だって、こんな事になると分かって居たらしなかったさ。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
「うっ! ……っい、たた……」
どさ、と重い落下音で自分の身体が落ちた事を知る。
って何処から?
気付けば視界一杯に青空が広がっていて。身体を起こすと此処が船の上である事が分かった。
「此処は……」
可笑しい、俺はイギリスの家にいた筈だ。
何度か目を瞬かせてみるも、視界は変わらず白い雲、青い空。先まで居た筈のイギリスの家の天井など何処にもない。
降り注ぐ太陽光から逃れるように眼前に手を翳す。
(イギリスは何処だろう……)
一緒に居た筈の彼の姿が見当たらない。ついでに手に持っていた筈のある物もない。
強かに打ち付けた全身には未だ痺れるような痛みが残るが、このまま此処にいては干上がってしまう。
兎に角イギリスを探そう。そう思い半身を捩って体を起こせば、タイミング良く目当ての人物の声が聞こえて来た。
どうやら彼も此処に居るらしい。
(良かった……なんて、絶対言ってやらないけど)
こんな訳の分からない場所に自分1人だったら――そんな心配は無くなった訳だ。
安堵さえ得られれば切り替えは早い。
事態に付いて行けなくて混乱していた脳内が落ち着きを取り戻す。
彼の顔を見たら、開口一番文句を言ってやろう。
「突然でかい物音がしたのはこっちか?」
ガツガツ、固い足音を響かせて目の前に現れたのは確かにイギリスその人で。
しかしこの違和感は何だろう。
俺は二度、三度と瞬きを繰り返してから半身を捩った体勢のままイギリスの翡翠色の瞳を見遣る。
イギリス、だ。
いやしかし。何処か懐かしささえ感じる奇妙な不安を押し隠して、取り合えず目についた疑問を口にしてみる。
「……イギリス、どうしたんだい? その格好、まるで海賊じゃないか。わざわざ目の前で表現してくれなくても、君の武勇伝は聴き飽き――」
俺は彼の纏う、海賊を思わせるコスプレ衣装を指摘した。頭の上では彼の顔よりも大きいんじゃないかっていう幅広のパイレーツハットに装飾された羽根が微かに風に揺れている。冗談にしては本格的過ぎる。
笑いながら叩く軽口は、しかし最後まで言わせては貰えなかった。
「――おい、お前。……その名を何処で聴いた」
ガチャリ。冷たく黒光りする銃口が向けられる。そして、そんな無機質よりも更に鋭利に冷めた眼差しで見下ろすイギリスと、目が合った。
思わず息を呑んで我が目を疑う。
イギリスに……何だかんだと独立後も手の掛かる弟として見て甘やかそうとする彼に、こんな目を向けられたのは初めてだ。
「俺を大英帝国様と知って居ながらンな口を利くとは、良い度胸じゃねぇか。……お前、誰だ」
呼吸すら忘れるような鋭い翠眼が、目を見開いたまま固まる俺の姿を映している。
他のどんな感情よりも驚きが勝った。
今ではすっかり身長を追い抜いて小柄な彼を見下ろすばかりの自分が、逆に見下ろされて居るのは珍しい。否、懐かしい。
しかし記憶の中に残る穏やかな翡翠と、今、目の前で殺気を放つ翠眼はどう見てもイコールでは繋がらない。
身体を起こしかけた半端な体勢のまま呆然と見上げて居ると、痺れを切らしたのかイギリスが低く命じた。
「……、……コイツを捕らえて俺の部屋に連れて来い」
軽く顎をしゃくって指示を出す。
何か……何か言葉を。
「……イギリスっ! ちょっと待……」
さっさと背を向けて行ってしまうイギリスの外套から目を逸らせずに投げ掛けた声に、彼が振り返る事は無かった。
* * *
「ハハッ、うちの奴等は皆威勢が良いからなァ」
悪いな、なんて全く誠意の籠もらない謝罪が、緩く口角を持ち上げて双眸を眇めるイギリスの唇から発せられる。
あの後、イギリスが去って此処へ連れて来られる迄の間、ろくな抵抗もして居ないのに殴られたのだ。理由は「張り合いが無いから」らしい。何だいそれ、結局殴られるんじゃないか。野蛮にも程がある。
言われっ放しは悔しいので、口の中が切れて痛む表情筋に無理を強いて笑みを象る。どうって事ない、そんな感情を込めて。イギリスの顔に険が増す。
俺は縄で縛られて自由の利かない体躯を床に伏したまま、顔だけ上げてイギリスを睨み返した。
って、喧嘩腰になって如何する、俺。
「さて、そろそろ俺の質問に答えて貰おうか。……お前は俺の事を何処まで知ってる。何の目的でこの船に潜り込んだ」
再び取り出された黒い銃口の先が俺を捉える。
随分と古いデザインのようだ、それにこの訳の分からない質問。まさかと云う疑問が浮かぶが、俺は自分が導き出したそれを直ぐに心の内で否定した。
「名前は……君から聴いたんだぞ。此処には気が付いたら居たんだ。――っ本当さ! 信じてくれよ!」
事実を正直に告げたと云うのに引き金に指を掛けるイギリスを見て、慌てて言葉を重ねる。
今の彼なら、あの日躊躇った引き金を簡単に引いてしまえそうだ。
わあわあ騒いで居ると、イギリスが銃を構える手とは反対の手を耳に宛がって眉間に深い皺を刻んだ。
「ッあーっ! くそっ、煩え! ……ちっ、んじゃ次、お前の名は」
「俺はア……アルフレッド」
アメリカ、と。答えようとして途中で止める。何だか言ってはいけない気がする。
代わりに先日見た映画の主人公の名を答えた。
「そうか、俺の事はアーサーと呼べ。――で、アルフレッド。同じ事を二度言うつもりはねぇ、さっきの質問に正直に答えな。さもなけりゃ……」
「何処までって……わーッ! ちょ、ちょっと待って!」
何処まで知ってるか……とは、正式名称がやたら長い事だろうか、それとも料理が不味い事か?はたまた趣味が刺繍なんて実は乙女……乙女と云えば彼は妖精やユニコーンなんかの幻覚が見えるんだっけ。嗚呼、一体何と答えればこの窮地を脱せられるのか。
兎に角下手な事を言ってしまえば即BANG!は間違いないだろう。
「俺にも本当に何が何だか分からないんだ! 信じてくれよアーサー!」
「っ馴れ馴れしく呼ぶんじゃねえ!」
ぐぐ…。先程から俺の視線を奪って止まない引き金が僅かに動く。
俺は最早悲鳴に近い声を上げて抗議する。
「君が呼べって言ったんじゃないかー!」
「ああもう煩ぇ! おい! こいつを独房にぶち込んで於け!」
ダン!アーサーが机を叩くのと同時、俺の後ろで見張りのように控えて居た筋肉ムキムキの男達が一斉に動き出した。
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