その手を離せ14
「……戻って来ないな、アーサー……」
けほ、と一つ咳をして寝返りを打つ。
ずっと扉を見ているのは、まるで彼の事を今か今かと待っているみたいなので止めだ。
身動ぎすれば意図せずとも鼻腔を掠めるベッドの主の匂いは、俺が知る紅茶や薔薇の其れよりも潮の香りが強い。
(まあ、海の上なんだから当たり前なんだけど)
それでも俺は、彼には紅茶や薔薇の香りの方が似合うと思う。その方が好きだ。
それと同時に考えるのは、危険な真似ばかりするアーサーをどうすれば大人しくさせられるか、否、いっそ国家らしく黙って国に居て紅茶と薔薇に囲まれていれば良いのに……や、紅茶や薔薇の香りがする彼が好きって言うか……いや、うん、好きだ。
……あ。今、絶対熱が上がった。
(だ、大体っ、紳士はどうしたんだい紳士は……!)
彼の噂は色々と聴いていたつもりだったけど、実際に現役ヤンキーとして活躍中の彼を見ると面食らう事ばかりで。
今のような姿を、イギリスから見せられた事は一度もない。
その事を、以前の俺なら……きっと、此処に来る前の俺なら。面白くなく感じたと思う。
けれど俺の知らない時代の彼を実際に見て、接して、少しずつ心を開いて貰えるようになって。かと思えば全身で拒絶されたりして。
そうしている内に、どんなにイギリスが自分に心を許してくれていたのかが分かって来た。
子供扱いだと思っていたあれこれは、確かに子供扱いでもあるけど。
不器用な彼なりに、何とか想いを伝えようとしてくれていたんだと。
(……イギリスは……アーサーは、……俺の事をどう思ってるんだろう……)
そして自分は、彼の事をどう思っているのか。
好きだ。だが、その好きとは――。
考えるのはもう止そうとした所で、蓋をしようにも彼にばかり埋め尽くされる思考の何処へ蓋をすれば考えずに済むのか判らない。
取り敢えず今分かるのは、俺は彼の事が自分で思っていたよりも好きらしくて護りたいと思ってて、彼も……少なくともイギリスに好かれている事はとっくの昔、幼い頃から知っている。
お互いがお互いの事を好きなら……。
いやいやいや。
「なんか可笑しい、今のは何か可笑しいんだぞ」
俺は自分の思考が徐々におかしな方へと向かっている事に気付いて、声に出して待ったをかけた。
ちょっと落ち着いて気持ちを整理しよう。
イギリスは俺の事を、どうせ独立した今だって弟かなんかだと思っていて。
アーサーは俺を――仲間?……全然自信が無い。
そして。
(俺は……彼を……)
その時、ガチャリと音を立てて扉が開かれた。
「アーサー?」
俺の頭はやっぱり彼の姿しか考えられなくて、既に呼び慣れた名を舌に乗せながら重い頭の向きを変えて翡翠の瞳を探す。
彼を見て、もう一度名前を呼んで貰ったら……何か分かるだろうか。
* * *
キン、キィン、と響く刃の交わる金属音は、その場にいる人数に比べて随分と少ない。
「くそ……ッ!!」
孤島を離れてイギリス本国へ向かっていた筈のカークランド号は、背後から髑髏の旗を掲げて迫る海賊船の挑発に乗って戦闘を開始していた。
砲撃の照準を合わせるも構わず向かってくる相手に白兵戦の意図を察して応じた事を、イギリスは直ぐに後悔した。
当然勝算があっての事だった。
台風による打撃を受けたばかりの船だ。
遠くからばかすか砲撃を打ち合うよりも、選りすぐった船員と、何よりイギリスさえ居れば負けなど有り得ない筈だった。
喩え、片腕が使えなくとも――。
「武器にも痺れ薬、だったよなァ?」
「チィ……ッ!」
イギリスの舌打ちに目の前の男は恍惚と目を細める。
息の根を止めずに逃がしたツケは、随分と大きくなって返って来たようだ。
イギリスと刃を交えているのは、最初に島で二手に別れた時に彼を追って対峙していたあの男だった。
よほど粘着な質だったらしい。
他の味方は痺れる身体を船上に臥して悔しげに目の前の光景を見据えるしかなく。
それは、この、たった今現状を目の当たりにして状況を理解した俺も同じ事で。
「……ア、アーサー……」
「!? なっ……てめぇ……この、馬鹿!」
立っている事もしんどい俺の身体は、両脇を大柄の男達に抱えられて此処まで引き摺られて来ていた。
首の高さに短刀が掲げられていて、もしかしなくても簡単に殺せるんだと意図している。
「……ごめん……」
こんな事なら、もっとハンバーガーを沢山食べてメタボでも何とでも呼ばれて良いからウェイトを増やして於けば良かったと後悔しても遅い。
完全に彼の枷でしかない現状に、俺は悔しさで奥歯を噛み締める。
「へっへ……よし、そこのお仲間を助けたきゃ、取り敢えず武器を捨てて貰おうか」
「ッ……言う事を聞いちゃ駄目だア……ッぐ!」
こんなに弱っている病人に酷い事をしてくれる。
思い切り蹴られた腹を手で押さえる事も蹲る事も出来ずに、けれど黙って項垂れている事なんか出来なくて必死に顔を上げてアーサーを見遣る。
「…………」
アーサーは俺を見て、次に相手を見て、そうしてガシャン、と手にしていた長刀を捨ててしまった。
「アーサー!」
「ひゃはっ! 直ぐにくたばらねェで愉しませてくれよォオ!」
俺と、アーサーと対峙している男の耳障りな声が重なる。
男が武器を構えて丸腰のアーサーへと切りかかった。
「ッ、アーサー!!」
叫ぶ度に眩暈で視界が揺らいだけど、せめて名を呼ばずにはいられなくて俺は馬鹿みたいに何度も彼を呼ぶ。
見ていられなくて、けれど目を逸らす事も出来なくて悔しさに涙さえ滲んだ俺の涙が引っ込むより先に、左右から盛大な笑いが起こった。
「ブッ、ギャハハハ!」
「ダセェ!」
「楽しませて貰ってるぜ〜」
「く、そっ!ちょこまか、と……!」
男が振るう刃を、アーサーがヒラリ、ヒラリと躱して、時に大きく飛び上がってまた躱す。
勢い任せに突っ込んだ相手を紙一重で避けて其のまま足払いを掛けた時、男が盛大にすっ転んで一際大きな爆笑が巻き起こった。
男が手にしていた武器が円を描きながら船上を滑る。
「……こっ、この……ッ!」
羞恥と怒りでか男が顔を真っ赤にしながら立ち上がった。そんな姿を仲間達が囃し立てている。
こんな時、真っ先にからかいそうなアーサーは、さっきから表情を変えずに鋭い空気を纏っていた。
俺も笑えなかったけど、それでも胸を撫で下ろす。
(そうだ、彼は国家なんだ。このアメリカの元兄なんだぞ。滅多な事じゃ――)
なんとか、なるかも知れない。胸に宿った希望の灯火。
全然解決策なんか見出せていないのに、頭は相変わらずクラクラするのに。
視線が合ったアーサーに笑み掛けようとした其の時、俺は直ぐに自分が浅はかだった事を知る事になる。
「っアーサー後ろ!」
そうだ――、アーサーは一人だけれど、敵は一人じゃない。
何やらジェスチャーで指示を出し合っていた男達が数人がかりでアーサーを抑え付け、アーサーの身体を船上へ引き倒した。
「抵抗したら他の奴等がどうなるか分かってるよなァ!」
アーサーに執着を見せている男が、彼の細い腰に跨ってマウントポジションを取った。
このまま殴り掛かる気か、そう思った俺の予想は大きく外れる。
より悪い方に。
殴打音の代わりに響き渡ったのは、布を裂く音。
感情を殺したように冷静に対峙していたアーサーの顔も驚愕に強張った。
「「なっ!?」」
俺とアーサーの声が重なった以外で分かる事は、左右からムカつく程に愉しげな雰囲気が伝わって来るぐらい。
その他にまで気を回す余裕はない。
俺に背を向けている男の手元は何をしているのか分からないけど、アーサーが固く目を閉じて顔を逸らした。
アーサーの手を押さえ付けている男の一人が、その頭を掴んで無理矢理元の位置へ戻し正面を向かせる。
ざわざわと、嫌な予感に胸が締め付けられた。
「止めろ! アーサー!!」
振り解いて助けに向かおうにも、二人掛かりで押さえられた身体はビクともしない。
血が沸騰する、そんな言葉が生まれた訳を俺は自分の身を以て知った。
頭に血が昇って、その侭こめかみの血管がブチ切れて血が噴き出してしまいそうだった。
腹の奥でグルグルと嫌な感情が渦を巻いている。
汚い手で、彼に触れるな。
「アーサー……ッ!!」
だと云うのに、アーサーが俺をちらと見る視線には微かに揺れる翠に俺への心配が含まれているように見えて。
本当の本当に本気で腹の中がどうにかなるんじゃないかと思った。
もう喉元に刃が宛がわれている事も忘れて身を乗り出そうとした時。
(っ……なん、だ……?)
ドクン、と誰かの鼓動が重なったような錯覚に襲われる。
「おい! ちゃんと立て!」
一瞬、脚から力が抜けたのを何とか持ち直す。
そんな俺の様子の変化に、アーサーが翠を見開いて小さく口を動かした。
"アル"
音のない声がそれでも俺の脳裏に響いたその時、
「……ッ!」
再び、自分の心臓の更にその奥で芽吹いた生命が鼓動するように、誰かの心音が重なった。
其処から全身に送られる血液が一気に身体中を駆け巡る。
じわり、末端まで染み入る其れに何故か懐かしさを覚えた。
知っている。俺はこれをずっと昔から知っている。
(ああ……そうか、俺は……)
俺は、今生まれたのか。
この瞬間、あの広大なアメリカ大陸の何処かで。
ねえ……アーサー、どうして俺は力が強く生まれて来たんだろうね?
きっと、君を護る為に違いない。
俺はそう思う。
そして反対意見は認めないから、それが答えさ!
彼を好きな想いと、彼の弟に戻る気はない思いはいつも矛盾して相反する気持ちとなって俺の中で存在していた。
好きなのに、好きじゃない
(彼の事は好きだけど、俺を弟としてしか見ない彼は好きじゃない)
見て欲しいのに、見て欲しくない
(今の俺を見て欲しくて、俺を見て過去に想いを馳せて欲しくなくて)
昔からこの想いの正体に、ずっと答えを出せずにいたけど。
今まで知らない振りをしてたけれど、認めるよ。
俺は……俺は彼が、アーサーでイギリスで元兄で寂しがり屋で素直じゃなくて一度懐に入れた相手は自分そっちのけで尽くそうとする割に不器用で空回ってばかりいる彼が――。
――好きだ。
最後に一つ鼓動が大きく胸の内側を叩いて、そうして二人分だった心音は完全に新しい鼓動へと取って代わった。
徐に腕を振るうと、左右から押さえ付けていた男達は簡単に持ち上がって吹っ飛んだ。
あんなに調子が悪かった頭痛も寒気も、今はもうない。
俺はこの場にいる全員の唖然とする視線を身に受けるのを感じながら、アーサーに跨る男の直ぐ後ろまで歩み寄った。
呼吸も忘れて見下ろしながら思い切り背中を蹴り飛ばす。
するとその人間の身体は船上を二度、三度と跳ねてカークランド号を僅かに破壊して船外へと消えた。
大きく響く水音が、海に落ちたのだと知らしめる。
嗚呼、今度はこちらの身体の力加減が出来なくなっている。
けれど、恐らく出来ていた所で、俺はそんな事しなかっただろう。
「――悪いけど、手加減できそうに無いんだ」
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