――――1年と少し前。




「やあ!キミをむかえに来たんだぞっ」

 目の前でパタパタと小さな翼を羽撃かせて浮かぶ、蒼い目をした金髪の子供。白い布地の衣装に身を包み、頭の上には金の輪っか。アーサーはその容姿に…否、その顔に見覚えがあった。

「……俺は死んだのか?」

 空飛ぶ子供を見上げ、アーサーが訊ねる。子供は小首を傾げて見せた。

「あれ?キミはずいぶん物分かりがいいんだね」

 幼い姿と不釣り合いの流暢な滑舌。アーサーが周囲を見渡すと、其処は慣れた公園ではなく、花畑でも川でもなく、ただ一面真っ白で。何の匂いも、音もしない。
 目の前の子供が所謂天使と呼ばれるものなのだと、アーサーには何となく分かった。

「それなりに、長く生きたしな」

「面倒がなくて実にいいぞ!うん、正確に言うとキミはこれから死ぬんだ」

「そうか」

「おどろかないのかい?いやがったりとか。つよい未練があったら途中で迷子になってしまうから、すこしだけなら力を貸してあげられるよ」

 言われて不意に胸中を過ぎった人物の姿を、アーサーは頭を振って払う。全く未練がないとは言えないが、所詮は過ぎた願い。

「……いや、いつでも連れてけよ」

「そっか…うん。じゃあせめて、苦しくないようにしてあげるね。時間までゆっくりお休み、アーサー」

 小さな天使が先端に星の付いたステッキを振ると、急激な眠気が訪れて目を開けていられなくなった。
 完全に瞼を閉じてしまう直前、幻のように現れた人物が屈託なく笑みを浮かべる。分かっている、これはただの記憶で、願望だ。
 晴れた空をそのまま宝石にしたようなスカイブルーの瞳。いつの頃からか掛け始めた眼鏡に、気に入りなのかよく着ている姿を見掛けるファー付きのジャケット。金髪の毛色に、まるで尻尾みたいに彼が動くにつれてピコピコと揺れるクルンとした一房。彼の名前はアルフレッド・F・ジョーンズ。
 思い出すだけできゅうと苦しくなる心音につられてパタリと揺れた尻尾を最後に、アーサーは意識を手放した。







「やあアーサー。目覚めの気分はどうだい?」

 次にアーサーが目を覚ました時、目の前にはアルフレッドのミニチュア…否、アルフレッドを子供の姿にしたような天使がいた。

「今日はキミにとってちょっとイイ話と、どうでもイイ話と、すごくイイ話があるんだ」

 てっきり迎えに来たものと思っていたアーサーは、それを聞いて困惑する。

「どの話から聞きたい?」

 どうやら拒否権はないようだ。

「……なら、どうでもイイ話から」

「オーケーだぞ」

 パタパタと背中の羽根を動かして何もない空中に浮かぶ天使は、見上げるアーサーの視線をものともせずに続ける。

「ほんとは死ぬ予定のない魂を連れていくのは、一番やっちゃいけないことなんだ。極刑に値すべき重大な禁忌と言い換えてもいい。……どうだい?キミにとっては実にどうでもイイ話だろう」

「はあ……――じゃあ、ちょっとイイ話ってのは?」

「それがねアーサー。なんと、キミの命日は今日じゃなくて、来年の今日だったんだ!」

「……」

「どうだい、ちょっとイイ話だろう?」

 記憶の中の子供は、もっと太陽のように笑っていたものだが。今アーサーの目の前にいる子供は、双眸と口元だけを動かして器用に笑みを浮かべて見せた。その悪びれない仕草に脱力してアーサーは四肢を伏せる。

「話はここからが本題さ。こんな類を見ない非常事態にみまわれてしまったキミの悲運は、まさに奇跡と言ってもいい。分かるかい?キミは奇跡の力を手に入れたんだ」

「……つまり?」

 天使はにこりと目を細めた。

「キミが強く願えば、なんだって叶える事ができる」

「なんでも……?」

「そうだよ」

「なら、俺は……人間になりたい。一度でいい、話してみたい奴がいるんだ。礼を言いたい。そうすれば……本当に思い残す事は何もない」

 昔、小さな人間の子供に命を助けられた。以来、アーサーの心を支配するのは、何時だってたった一人の人間だった。見上げる先で、天使が目を瞬かせる。

「そんな事でいいのかい?」

「へ?」

「――ううん、なんでもないぞ!よし、キミの願いを叶えよう」

 天使がステッキを振ると、アーサーの周りに一陣の風が起こった。

「ま…まままま待て!まっまだ心の準備が……!」

「期限は1年。――それと条件がある」

「条件!?聞いてねーぞ!」

「キミの奇跡は、キミだけのものだからね。あまり他人に影響を与えると、相手の運命をねじ曲げてしまう恐れがあるんだ」

 風は徐々に強くなって、四つ脚で踏ん張るアーサーの身体を吹き飛ばそうとする。

「一つ、キミの体は奇跡の力がつよい昼間は人の姿でいられるけれど、日没と共に猫の姿に戻ってしまう。二つ、キミが死に行く運命である事も、キミが叶えた奇跡も、誰にも知られてはいけないよ。……最後にこれが一番重要、水に濡れると猫の姿に戻ってしまうから、気をつけるんだぞっ」

「ふざけんなよっ!おい!」

「――半端な願いじゃ、半端な奇跡しか起こらないのさ」

「……っ?今、なんて――」

「不完全なくらいが丁度いいんだ。その方が、奇跡の条件がそろいやすいからね。それじゃあアーサー、1年後にまたあおう」

「だから俺の話を聞けって!……っ!?べああああああ!!」

「こう見えて、キミには悪い事をしたと思っているんだ。健闘を祈っているよ」

 遂にふわりと脚が浮いた身体が、次の瞬間まるで足元が抜け落ちたかのように何か強い重力に引かれて行く。





「べあああああ!…………あ、れ…?」

「……君、どこから落ちて来たんだい?」

 ぼすんと音が聞こえた筈なのに何時まで経っても訪れない衝撃。あたたかい温もり、知った声。

「あ…ある……?」

 動かした口は普段と違って動いて、違う音を紡いだ。
 長い間ずっと遠巻きに見つめていたスカイブルーの双眸が、初めて出逢った時のように直ぐ傍に、あった。


 それからの毎日はアーサーにとって掛け替えのないものだった。

「明日も俺に逢いたいと思ってくれるなら、何も訊かないでくれ。……此処にいられなくなっちまう、から」

 与えられた条件は厳しく、秘密を隠し通さなければならない事に何度も胸を痛めたが。

「んー、ふぁあ……ってやべぇ!もうこんな時間じゃねえか!ばかアル何で起こさなかったんだよっ!……ん?…っ…ベッドより、こっちのソファーで…お前の隣に丸くなってた方が落ち着くってか……ッ、と、兎に角また明日な!……公園で、待ってる」

 それでもアーサーは幸せだった。だから――。

「アーサー、気付いてるかもしれないけど……俺、」

 アルフレッドの言葉を聞いたアーサーは逃げた。夢みたいに幸せだったのだ。夢は、夢でしかない。その夢のような奇跡は、もう少しで終わりを迎える。
 楽しかったって、ありがとうって、お礼を言ってアルフレッドの前から姿を消すんだって。最近ずっとそんな事ばかり考えてぼんやりしていて、アルフレッドに心配されていたっけ。
 漸く少し冷静になれたのは、アルフレッドの前から逃げて数日が経った後だった。

 怖かった。ずっと自分だけがいい思いをさせて貰ってるんだと思ってた。そうやって、いずれ来る終わりの日から目を逸らしていた。アルフレッドを悲しませてしまうかもしれないと知って、なのに何も言えない自分――。

 それでも気付けば結局は、アルフレッドといつも逢っていた公園に戻って来ていた。1年前に見ない振りした我が儘が、溢れてしまいそうだった。

「天使、いるんだろ?早く連れて行ってくれよ……なあ」

 しとしとと雨が降り注ぐ中、ベンチの陰に隠れるように、アーサーはそっと身を伏せた。






「やあ、呼んだかい?1年振りだね」

 天使を呼ぶ事に成功したのか、アーサーの方が天使に呼ばれたのか、1年振りに顔を合わせたのは、前回と同じく何もない真っ白な空間だった。

「………お前、1年前の天使か?…でかくなるの早……」

「へえ、今の君にはそう見えるんだ。うん、実にいい傾向だね」

「?何の話だ…?」

「こっちの話さ。アーサー、君には言っていなかったけれど、俺にとって言葉と云うものは本来不要なんだ。君が何を願っているのか、俺は手に取るように分かる。けれどどんな願いだろうと、君が強く願わなければ意味がない」

「だから何の話を……」

「1年前、敢えて君から願いを引き出さなかったのは理由がある。君が手に入れた奇跡の力だけじゃ、足りない願いだったからさ」

 アルフレッドの姿をした天使がじっとアーサーを見下ろす。変わらない無機質な目の色は、それでもどこか温かだった。

「君達の言葉で云う神様ってやつは、奇跡が好きなんだ。それも何かに頼って叶える奇跡じゃない、自分の力で掴み取った本当の奇跡ってやつがね」

「奇跡……俺は……」

「ほら見て、アーサー」

 天使が手にしていた星のステッキを懐に仕舞うと、代わりに手が伸びてきてトンと肩を押された。ふわ、と身体が浮く感覚。
 視界一杯に、光の渦が巻き起こった。

「1年前に叶え損ねた本当の願い、利子を付けて叶えてあげるよ」


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