「ちょ、ちょっと待ってくれよ!」
ソファから飛び起きて、腕を伸ばして、前は掴めなかった手を掴む。 この機を逃してはいけないと、頭の中が、全神経が警鐘を鳴らしていた。多分、きっと、今掴まなければ今度こそ次はない。 俺が必死の思いで腕を掴んで振り向かせたアーサーは、何の感情も灯さない瞳で俺を見た。くるくると彼の心を映して気紛れに色を変えていたエメラルドが、まるで只のガラス玉だ。
「……アーサー?」
確かめるように呼ぶ。 アーサーは、宙に浮いた儘じっと俺を見下ろしていた。
「悪いが俺は、お前のアーサーじゃあない」
「なら君は……っ」
「俺は本来、お前たちと交わす言葉も姿も持ち合わせていない。今見えている姿は、円滑に意志の疎通を図る為、お前の願望が映し出しているに過ぎない」
アーサーの姿をした、アーサーじゃない誰かが背中の翼をパサパサとはためかせて。尚も淡々と続ける。
「信じなくても結構だ。いずれお前にも分かる日が来る」
呟いた相手が僅かに俯くと、頭の輪っかがよく見えた。視線を落とした腕の中、アーサーと同じ白くて細い指が、小さな背を撫でている。 得も言われぬ焦燥感にちりりと胸が騒いだ。
「君の話が本当だとして。……その子を、何処に連れて行くの」
――何処に。自分が口にした言葉でゾッとする。絵に描いたような天使の姿をした彼に連れられる先なんて、一つしか無いじゃないか。雨に濡れて蹲っていた姿を思い出す。あの時俺は、初めになんて思ったんだったっけ。
「っ……や、約束って!?さっき言ってたその子とした約束って何!」
自分が何をしたいのか分からないまま訊いた。 分からないけど兎に角必死で、分からないのに、アーサーと名付けたばかりの猫も、アーサーとよく似た彼にも、何処かへ行かせたくなかった。引き留めていたかった。 そうしなければ何かが終わると、このまま終わる訳には行かないと、心の奥が焦っていた。
「俺は奇跡の力でコイツの願いを叶えた。期限は1年。今日迎えに来る事は、コイツも承知している」
「奇跡?期限……?」
言われた言葉を繰り返し、頭の中で単語の羅列を組み立てる。奇跡の力、願い事、期限、迎えに――。 繋がった一つの答えを、恐る恐る口にした。
「その子は……命に代えるような願い事を、君にしたのかい?」
「……さあてな。その質問には黙秘する」
ふよ、と姿勢を傾けた天使が俺の回りを半周する。 いつの間にか離していた腕は、何かへ縋りたがるように情けなく宙に伸びていた。 後ろから聞こえて来る声に、俺もすぐさま振り返る。
「なあ。お前は気付いてるんじゃないか?俺が起こした、奇跡の正体に」
「そんなの……」
――……アーサー……。 心の中で名前を呼んで、丸くなった小さな姿を捉える。同時に重なって浮かぶのは、俺が恋した彼だった。 1年一緒に……否、共に過ごせた時間は短いけれど、出逢ってからいつだって俺の頭の中を占めていた彼を思い描く。 気紛れで気分屋で、俺の事が大好きなクセにツンと澄まして見せたりして。物陰からこっそり様子を窺うとベンチに座って寂しそうにしているクセに、俺が出て行けば「飽きずによく来るな」なんて憎まれ口を叩いてそっぽを向きながら嬉しそうな顔をする。嘘か本当か猫と会話出来たりなんかして。 ずっと不思議なひとだと思ってたんだ。 それでも良いと思ってた。秘密に触れたら消えてしまいそうだった彼。一緒に居られるなら何も知らないままで良かった……――なんて、嘘だ。 だって俺は、そんな彼とずっと一緒に居たくて告白したんだぞ。
「か、返してくれよ!その子は、アーサーは、俺の大切な……!」
弾かれるように顔を上げて、手を伸ばす。アーサーを抱いた彼がふわりと舞って指先が宙を掻いた。黙って見ていた天使が、静かに口を開く。
「コイツの命が今日で尽きる事は、1年前から決まっている。お前の手に戻った所で、それは変わらないぞ」
「そんな事、関係ない!」
知らない腕に抱かれた物言わぬ体。力ずくで奪い返す事は出来なくて、ただひたすらに腕を伸ばし続けた。 剥き出しの前歯がギリ、と嫌な音を立てる。
「……いいだろう。ただし、条件がある」
「なに」
「俺の質問に答えられたら返そう。……コイツと初めて出逢った時の事を、お前は覚えてるか」
「なんでそんな事……っ」
「奇跡を起こすには、相応の力が必要なんだよ。大切なら答えられる筈だ。いいから考えろ」
何が奇跡だ、奥歯を噛みしめた俺は何も言い返さずに耐えた。エメラルドのガラス玉は何処か真剣な色をしていて、俺も真剣だったからだ。 やってやろうじゃないか。
記憶を巡らせる。初めて逢った時……さっき雨に濡れて蹲っていた姿を思い起こし、次に1年前にアーサーと出逢った日の事を思い出した。落ちてきた彼を思わず抱き留めて、やけに軽いな、なんて思っていたら目を丸めて名前を呼ばれて……。そうだ、アーサーは最初から俺の事を知っていた。 更に記憶を遡ると、次は以前懐かれていた野良猫の事を思い出した。アーサーと出逢った時期からパッタリと姿を見せなくなった野良猫は、いつも遠くから物言いたげに俺の事を見ていた……ような気がするだけだと、その時は思っていた。 元々動物には好かれる方だし、懐かれる事自体は珍しくない。それでも、電信柱の陰から、ブロック塀の上から、餌を強請るでもなくただ見詰めるだけの緑の瞳は印象的だった。 最初にその猫を見掛けたのは、この街に引っ越して来た時……このアパートに荷物を運び込んでいる時に、いつから居たのか丸々と見開いた目で俺を見ていたのが始まりだったんだけ?――……否、違う。
『お前がHERO?……ばか、笑わねえよ、そんな事…俺が一番よく知ってるんだからな』 『ハハ、お前ってホント……いや、……っ子供の頃から変わってねぇんだろうな!って言おうとしたんだよ!』 『む、昔……その、溺れた事があるんだ。ホラ、今はもうねぇけど、あそこに池があったろ?』
『ああ、そういえば子供の頃、その池で溺れていた猫を助けた事があったよ』
アーサーとの会話を頼りに、古い記憶を探る。アーサーは俺が子供の頃、少しの間この街に住んでいた事を知っていたみたいで、それで――。 点と点が、線で繋がった。 俺が何か言う前に、小さな笑みが降る。
「――正解だ。約束通りコイツは返そう」
彼が懐から取り出した先端に星の付いたステッキを振ると、アーサーの体がふわりと浮いて俺の胸の前まで来た。両手でそっと抱き留める。……良かった、まだ温かい。 頭に触れて優しく撫でる。なんで、どうして、君が――言いたい事は山ほどあって、けれど結局何も言えずに視界が滲んだ。
「1年前の今日、ソイツは人間になりたいと願った。死ぬ前に、お前に礼を言いたいと」
「――……渡さないぞ……」
両手で隠すように抱いて身を引く。狭い部屋の中で出来る限り距離を取った。 構わずふわりと舞った天使が距離を詰める。
「っ、俺はまだ、お礼の言葉なんか聞いてない!」
だから連れて行かないでくれ。星のステッキを警戒しながら、祈りを込めて睨み上げる。
「いいから聞けって。……だがそれは、ソイツの本当の願いじゃなかった」
チリチリと胸が焦げて心臓が早鐘を打つ。本当の願い、だって?思わず眉を寄せて見上げた先、天使の瞳はやっぱり何の感情も映していなかった。
「なあ、当ててみろよ。そうすれば、とっておきの奇跡を見せてやるぜ」
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