そうして泥のように眠りに就いて、翌朝。起きたのは俺の方が早かった。
 どうやら廊下を行き交う物音と人の気配に目が覚めたらしい。
「おい、起きろ」
 丸く膨らんだ山を作る毛布を足蹴にして、マントのリボンを顎の下で結ぶ。黒の皮手袋を填め終えても動かない山に、両手で毛布を引っ剥がした。
 アルフレッドはここまで朝が弱くなかったような気がする。悪魔はみんな低血圧なのか?
「いつまで寝てんだ」
「んん、眠いよ……アーサー」
「……甘えた声出してんじゃねえ。早く準備し――」
 眠たげに目を擦る塊にぎょっと目を見開く。
「お、おい!」
「ん?」
 毛布の中から出て来たのは、夜の空より深い闇色の髪の毛だった。重力に従ってさらりと流れる柔らかそうな毛先。瞼の奥から現れた同じ色の瞳と目が合って、金縛りが解けた所で部屋の扉がノックされた。
「朝食を持って来たんだが、開けても構わないだろうか」
「まっ、待て!」
 首根っこを掴んでガクガク揺さぶりながら、自分の頭を指さして唇の動きで伝える。
 おい! てめえ! 髪! 頭! あと目! なんとかしろ!
 翼こそ生えていないし魔力の気配もないが、昨日との違いは明らかだ。
「……うん?」
 だというのに、未だ目を擦っている悪魔に覚醒の様子はない。
「おーいルッツ、まだ終わらねえのか?」
「ああ、兄さん。少し待てと言うものだから……」
 扉の外から聞こえる会話にぎくりと肩が強張る。
 大丈夫、だよな。こっちは金を払って泊まっている客人だ。
「ばっか、後がつかえてるんだっつの! 開けんぞ!」
「だあぁぁぁぁあ!」
 面倒臭いヤツが来やがったと構えていられたのは僅かの時間で、無遠慮に開扉を告げる蝶番の音。
「……何やってんだ?」
 間一髪、一度は剥がした毛布ごとベッドにダイブした俺は、二人の視界から目の前の異常を隠す事に成功した。
「なんでもねえよ!」
 毛布の中に手を入れて、鷲掴むように触れた髪。人化に足りていない魔力を補うべく、少しずつ、少しずつ、手の平から熱を移すようにゆっくりと触れる範囲を広げて行く。
「なんだい煩いなぁ……もう朝なのかい?」
 布団の下からもそもそと這い出た姿は、俺が愛するアルフレッドのものだった。


 人の気配もまばらな朝の風景を、街の出入り口に向かって歩く。
 食事を摂って少しは目が覚めたのか、後ろを付いてくる足取りは、欠伸こそしているもののしっかりとしていた。
 目的地は、街の中を通る何本もの道筋を集約した出入り口付近の広場。ぐるりと見渡せば、街から街へと荷や人を運ぶ馬車と人とが賑やかな活気を作っていた。
「おい、はぐれるなよ」
「はいはい」
 ざっと辺りを見繕い、数ある馬車の中から積み荷の少ない幌馬車を選んで近付く。
「ちょっといいか」
 声を掛けると手を止めて振り返ったのは、軽装の短い袖から日に焼けた肌を覗かせて癖毛の茶髪を風に遊ばせる男だった。
「この馬車はどこへ向かう?」
「北の街までや。なんやお客さんかいな」
「途中まで乗せてくれないか。もちろん金は払う」
「乗るって自分らが?」
「ああ」
 出来る限り余所行きの笑みを作って言えば、御者の男はそれならと後方を振り返って指を差した。大きな馬車と人だかりが見える。
「それやったら、ほれ。あそこにおる、赤い服着た王の馬車が同じ街まで人運んどるで」
「いや、人混みは苦手なんだ」
「せやけど、この馬車は積荷用やから乗り心地めっちゃ悪いっちゅーか……」
「構わない。途中まででいいんだ」
 人混みが苦手なのは本当だが、それよりも危険視しなければいけない連れがいる事が問題だ。
 斜め後ろに立つ相手を見上げれば、どこ吹く風と言った態度で辺りを見回している。
 今は比較的大人しくしているが、油断をすれば何をしでかすか……。
 何人もの人間とコイツを同じ馬車に乗せる訳にはいかない。
「んー……そない言うならええで。元々荷もそんなあらへんし、丁度話し相手が欲しい思っとってん」
「すまない、助かる」
「ええてええて、困った時はお互い様や」
 からりと笑う御者の男は、積み荷の作業に戻るつもりか振り返る間際、真顔を作って続けざまにこう言った。
「ただし、奥の荷には触らんといてな」
 見れば幌の屋根で覆われた木製の荷台の奥には、布で包まれた小さな四角いものが置いてあった。他の荷物とは明らかに違う、何か個人的に寄せる思いがあると分かるもの。
 俺達を乗せるのを少し渋っていたのも、盗人を警戒しての事かもしれない。わざわざ小さな荷馬車を選んだのは確かに怪しんでしかるべきかもしれないが、その荷馬車に金を出してまで乗る盗人もいないだろう。俺は男の緑の目を見て頷いた。
「承知した。──おい、お前も聞いてたか」
「ん?」
 振り返り、街行く人間を眺めていた服を掴んで注意を引く。
「お前だ、お前。ちゃんと聞いてたのか、あれには触るなだとよ」
 荷台の先を指し、一歩踏み出しながらそう念を押した所で、突然馬が暴れ出した。持ち上げていた積み荷を下ろした御者が、慌てた様子で馬の傍へと駆け寄る。
「ちょお、どないしたん? ……なんや怯えとるみたいや、普段は気の強いヤツなんやけど」
 どうどうと馬の首筋の辺りを撫でてやっている御者の男は、そう言って困り顔で笑った。
 ──まさか、何かしたんじゃないだろうな。ちらと見やった隣の男は、素知らぬ顔で今度は空を飛ぶ鳥なんか見上げている。
「奥の荷以外なら触れても構わないなら、荷の整理を手伝うぞ」
「悪いなあ、めっちゃ助かるわ」
 途中だった荷の整理を手伝い、幌の屋根で覆われた木製の荷台へと箱や樽を積み込んだ。率先して荷台の上での作業を引き受け、ついでに自分達が乗る場所の確保も忘れない。
「おい、それ取ってくれ」
 額に浮いた汗を拭い、手前の樽を指す。
「これかい?」
「ああ……ってうおッ!」
 涼しい顔をした男が持ち上げて手渡すそれを受け取ると、大きさの割に重い樽に腰から上がガクリと下がった。
 たぷんと揺れる中身は水か酒か、なんとか落とさずに体勢を立て直して口端を引き攣らせる。
 随分軽々と手渡されたように感じたが、気の所為だったか。ちらと見やれば、そんな俺を不思議がるように首を傾げる相手。沸くのは当然対抗心だ。
「おっ……も、くねえ、重くねえよこれぐらい!」
 ぐっと両足で踏み留まって一息に積み込む。
 ふと、アルフレッドに重い荷物を運ばせた事なんてなかったと思い出した。
 ──アルフレッド……。
 ずくりと痛む胸に気付かない振りをして、ただ黙って作業を続けた。
「おおきに! 助かったわ。俺はアントーニョ。アントーニョ・フェルナンデス・カリエド。二人は兄弟かなんかか?」
「ああ……俺はアーサー。こっちは……――弟の、アルフレッドだ」
「アルフレッドだぞ、よろしく」
 口端の片方を上げた得意気な目配せには気付かない振りをして、俺はさっさと荷台に乗り込んだ。


 昔は他と同じく草が茂っていたのが、馬車や人に踏みならされて地面が剥き出しになった平坦な道程。小気味良い蹄の音と頬を撫でる乾いた風に大きく息を吐き出すと、ああ、あの森を出たんだなと改めて実感する。
 アルフレッドと二人、骨を埋めるつもりでさえいた筈なのに。始まるのも終わるのも、あっけないぐらい一瞬だ。
「途中までなんて言わんと、街まで送ってくで?」
「いや、構わない」
「……もしかして自分ら、森を抜ける気なん?」
「ああ、急いでるんだ」
 ガタガタと響く振動を尻に感じながら小さく座って後ろの木箱に背中を預ける。大人しく隣に座っている悪魔が欠伸をするのを横目で見ながら、俺は御者が投げる言葉にぽつりぽつりと返していた。
「人がぎょうさんおるとこ通ってかんと、魔を引き付けてもうて危ないで」
「どこにいたって同じさ」
「んなことあるかいな」
 眉間を潜める姿に肩を竦める。
「心配しなくても腕は立つつもりだ。寝覚めの悪い思いはさせねえよ」
 魔ならもう連れて歩いてるしな、とは当然言う必要のない言葉。それに腕が立つのは本当だ。
「ならええけど」
 まだ納得していない様子の男に、話を変えようと後ろの荷を指した。
「それより、よくこんな少ない荷で仕事が成り立つな」
「あー、本業はちゃうねん。さっきの街で仕入れとる薬を買うついでに荷物も運んでんのや」
「薬?」
「これや、これ」
 御者が振り向きながら親指で差したのは、さっき触るなと言い含められた包みだった。
「俺にもな、弟やないけど可愛がっとる子分がおって、あの街の魔法道具屋の薬が一番よお効くんや」
「そうか……なら、次からは別の店を探した方がいい」
「なんでや」
 訝しむ緑の目から視線を逸らす。
「あの店に薬を卸していた魔術師は引っ越したと聞く」
「ほんまかいな! あのおっちゃん何も言ってへんかったで」
「残念ながら確かな情報筋だ」
 はっきり言い切ると、御者は片手を手綱から離して頭を抱えた。
「あかーんっ、今すぐ戻って買うた方がええやろか」
「いや……待て」
 伸ばす手に躊躇いはなかった。
 もう、必要のないものだ。
 家から少ない荷物を纏めて出て来た袋の中を探り、取り出した薬を男の目線の高さに掲げる。
「──それ……ええんか、安いもんやないやろ。誰か病気なん?」
「ああ……弟がな」
「弟? 弟って、そこにおるやつか?」
「ああ。長く臥せっていたが……治ったんだ」
 御者の視線の先、横にいる男を見る。ずいぶん大人しいと思っていたら、どうやら眠いのかいいタイミングで人目もはばからない大きな欠伸をしてくれた。思わず肘で小突く。眠りを誘う揺り篭とは訳が違う、悪魔ってのは随分と神経が太いらしい。
「人は見かけに寄らんなあ、どっちかゆうたら自分の方がベッドの上が似合いそうやで」
 けらけらと笑って言う言葉には全面同意で頷いた。
「よく言われる」
「臥せってたって、普段は何して過ごしてたん?」
「そうだな……少し前までは、よく本を読んでいた」
「本なあ、あいつも読むやろか……。代われるもんなら代わったりたいわ」
「そうだな……俺も、ずっとそう思っていた」
「しけた声だしなや、治ったんならええやないの」
「ああ」
 前に向き直って鞭を振る御者。ふと横を向けば、手で覆いもせずに大口を開けて長い欠伸をする相手に自然と眉根が寄った。
「おい……さっきから何度目だ。しゃんとしろ、だらしねえ」
「んー?」
「ったく……しょうがねぇな」
 眠たげに目を擦る姿に俺の知るアルフレッドの面影が重なって、心臓がひとつ跳ねた。それを誤魔化すように急いでマントを脱ぐと、丸くなった背中に投げてやる。
「──……っ……」
 その時、気の所為だろうか……金の髪からじわりと染み出るような黒が、見えたような。
 さっきとは別の意味で胸を叩く心音を落ち着ける間も惜しみ、瞬きをして目を凝らす。黒い液体を垂らしたようにそこからじわりと滲み広がろうとする色が、確かに、見えた。
「っ……お、起きろっ、寝てんじゃねえっ」
 小声で呼びかけながらちらと見やった御者は、幸いにも今は前を向いている。ひとまずはほっとしながら、バクバク煩い心臓よりも早く揺さぶった。
「目ぇ覚ませっ、この……っ」
「んー……」
「お、おい!」
 ぐらりと傾いた身体。倒れる前に引き寄せると、肩に凭れて重みがかかった。
「ふざけんじゃねえぞっ、夜行性かよっ」
「仲ええ兄弟やんなぁ」
 声を潜めて小突いていると、流石に気がついたのか御者が笑いながら横目で視線を向けて来る。
「いや、これは……」
 視界から隠すように両手で頭を抱き込んで、さっき投げたマントを広げながら手繰り寄せた。
「自分ら見とったら早よ帰りたなって来たわ」
「ああ……早く帰って、傍にいてやるといい」
「──なあ、病気の弟と接するってどないするのがええん? 時々な、たまらなくなるんや」
「っ……」
 自分でもよく分からない何事かを言い掛けた口が、ひくりと引き攣った。作った笑みはひどく苦々しいもので、それでもなんとか唇を動かす。
「……あまり、家の中にばかり閉じ込めないで……話はよく聞いて、自由を、感じさせてやればいい。俺達がどんなに不自由をさせないようにと思っても、本当の望みは本人にしか分からない」
 乾いた舌の上を滑る言葉をどうにか返した。
 歪な笑みはとてもじゃないが見せられなくて、顔を伏せれば腕の中の、アルフレッドの寝顔が映る。
 違う、アルフレッドじゃ、ないのに。
 それでも傍らの身体は、温もりこそ違えどアルフレッドに違いなくて。
「せやな……」
 視線を上げて確かめた御者は既に前を向いていた。
 遠くを見つめるように静かな声。「次の休みは……」そう話し始めた御者は、きっともう俺の返事を期待しちゃいない。
 そっと視線を落とす。
 伏せられた瞼に開く気配はない。
「──……ある、あるふれっど……」
 密やかにその名を呼んで。
 今だけ、今だけだからと自分に言い聞かせ。胸に抱えた頭を微かに震える両腕に包み込んで、そっと額を擦り合わせた。
 零れた涙の意味さえ、きっと罪なんだろう。



「──起きろ。おい、おい」
「あれ? 着いたのかい?」
「くそ、ぐうすか寝やがって……」
「ほんまに、ここでええんか?」
「ああ、世話になったな」
 馬上から声を掛ける御者に頷き返して、でかい図体をマントで隠すようにして荷台から引きずり下ろす。恐る恐る布地の下から見た髪は、今は金に染まっていた。
「ほなな。今度街に寄った時は顔出してやー」
 鞭を振るって馬を走らせる馬車を見送り、袋の中から取り出した地図と目の前に鬱蒼と広がる森とを見比べる。
「ったく……てめえふざけんじゃねーぞ」
「何の話だい?」
「ちっ、もういい。この森をまっすぐ西へ向かう」
「はいはい」
 大きな伸びをして後に続く相手を何度も振り返って確認しながら、草木を分け入って森の中を進む。早く、日が暮れる前にと気ばかりが急いて、早足で歩いていると蔓に躓いて足が縺れた。
 前につんのめった身体を咄嗟に近くの木の幹に手を付いて支える。背後から、呑気な声が聞こえた。
「連れて行ってあげようか? 飛べばすぐだろう」
 ばさりと、風を切るような、布地よりも重い質量を伴った音に続いて背筋が粟立つ魔の気配。振り返れば、大きく翼を広げた黒い悪魔の姿が目に入った。
「や、やめろっ!」
 ふわりと足が宙に浮く姿に、身体の芯まで冷える思いを奮い立たせて抱きついて止める。
「バレたらどうする気だ……!」
 悪魔に取り憑かれているのだと。あるいは、悪魔そのものであるなどと思われた日には。顔が知れ渡り、追われ、迫害されたりしたら。その身体が、一体誰のものだと思っているのか。
 アルフレッドが、アルフレッドが、人の里で暮らせなくなったらどうしてくれる。
 震えて滲む視界の先で、黒の髪がじわりと金に戻った。
「はあ……分かったよ」
 そのまま元の、アルフレッドに酷似した容姿になった相手は、そのまま背を向けてどこかへ行こうとする。掴んだままの手がくんと引っ張られた。
「どこに行く気だ」
「用を足すにも君の許可がいるのかい? それとも見たい? 昨日散々近くで見たと思うけど、君の目の前でして欲しかった?」
 愉しそうに笑う声、笑う顔。アルフレッド。
 違う、こんなの知らない。アルフレッドじゃない。
 俺の弟はこんな顔をしない、こんな事を言わない。
 掴んでいたままの手を取られそうになり、慌てて振り解いた。
「い、いいっ! 早く行って来い!」
「あははっ」
 笑みを残して遠ざかる背中。ガサガサと草を掻き分ける音が遠のいて行く。アルフレッド。無意識に一歩踏み出した足を思い留めた。
 ひとり残された空間を、ざあと風が通り過ぎる。
 ──魔術は、成功した筈だったんだ。
 生命の灯火が消えた身体から抜け出た魂と、未だ細い糸で繋がっていた空っぽの肉体。そのふたつを依り代に悪魔を喚び寄せて肉体に新しい命を吹き込み、悪魔の魂だけを弾いてゆっくりと糸を手繰り寄せる筈だった。降霊術や召喚術の応用。成功した筈だった。
 確かな手応えを感じていたし、俺はあの時、間違いなくアルフレッドの声を聞いたんだ。
 けれども現実は、悪魔の存在ばかりを俺に否応なく突きつけてくる。
 失敗したのか。悪魔の爪痕だけを残して。
 魔術師が決して犯してはならない禁忌のうち、群を抜いて危険な術。呪いにも似たこんな邪法、成功していたところでアルフレッドは喜ばなかったかもしれない。
 それでも。
 アルフレッド。どうしても、俺はお前を諦めきれない。
 お前は俺の生きる意味、そのものだったんだ──

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