生活開始
「それで、君は何度言ったらこの問題がわかるのかなぁ?メイ?」
ねっとりと、馬鹿にしたような口調で私の名前を呼ぶ、全身紫男。
せっかくアガーテ様に素敵な名前をいただいたのに、この男に呼ばれる度に名前が紫色に染まる気がする。
仮にもお世話になっている身なので、そんな失礼なことは口には出さないけれど。
今私は、自室でサレにカレギア王国についての歴史や常識について、勉強を教えてもらっている。
あの本を一晩で読んだ昨日の今日でこの王国について網羅できることなど当然できず、こうしてさっきからねちねちと嫌味を言われているという訳だ。
「あのね!昨日の本を一通り読破できただけでも褒めてもらいたいわ!」
テーブルの上に積んである古ぼけた本の山を指差しながら反論する。
するとサレはわざとらしく本の山を見つめたあと、口元に手を添えてニヤリと笑った。
「まぁ、とてもじゃないけど一晩で人間が読める量じゃないからね。それは純粋に驚いたよ」
サレの口から出た言葉にびっくりしすぎて、一瞬動きが止まった。
「…もういっぺん言ってください?」
「一晩で人間が読める量じゃないから驚いたって言ったんだよ」
ああ!もう本当にこの人は!
悔しくて悔しくてぎりぎりと奥歯を噛みしめる。
昨日アガーテ様とのお話が終わった後部屋に戻って、どれだけ頑張ってこの本の山を読破したか!
確かに本の内容に興味があったことも事実だったし、読んでいて苦痛しか無かったと言えば嘘になるが、如何せんあの量だ。
最初から最後まで楽しんで読める量ではない。
最後の方は眠気との戦いだった。
「君は従順でいいねぇ。気に入ったよ」
サレはソファに深く座り、脚を組みながら笑う。
「気に入る動機がひどすぎる!」
「良いから、さっきの問題がわからないならこの本を明日までまた読み直しだね」
私が叫ぶのも気にせず、サレは本の山の中から歴史に関する本を5〜6冊抜き取って、私の前に積んだ。
「これで今日の僕のレッスンは終わりにするよ。」
「レッスンって言うかなにか教えてくれましたっけ?」
「教えるなんて言ったかい?この時間は君は本からどれだけ知識を吸収しているか僕が問題をだして甚振る時間だろう?」
どうにも見当違いな返答が聞こえたが、きっと彼にとっては間違いなくこの時間はそういうものなんだろう。
今度こそちゃんと時間を取って本を読んで自力で勉強しようと、溜息を吐きながら改めて誓う。
「これで歴史と常識が終わりだとすると、次は?」
「…体術系になるけど…まず歩くことから始まるんじゃないかなぁ?」
サレが舐めるように私の足を見る。
気持ち悪い。
昨日の白いワンピースはメイドさんに預けて、今は丈の長いシンプルなドレスのようなものを着ていたので、生足を晒していたわけではないけれど。
「こういうのは体力馬鹿なトーマが担当するべきなんだけど、きっとただ歩かせるなんて訓練嫌がるだろうからねぇ…歩けるようになるまでは別な奴に頼むことにするよ。」
ついてきなよ、といいながら、サレはさっさとドアの方へ向かってしまう。
「あ、あのぅ…」
早くしないとこの人私を置いてさっさと行ってしまうのでは…!
焦って椅子から立ち上がろうと四苦八苦している私をしばらく眺めた後、とうとうよろけて転びそうになった私を慌てる素振りも見せずに支えながら、サレは笑う。
「冗談だよ。君みたいに一生懸命で真面目な奴って本当に面白いよね。」
笑うたび覗く貴方の白い歯が憎たらしいです。
…仮にもお世話になっている身なので、口には出さないけれど!
サレが私を支えながら、ある一室の扉をノックする。
「…開いている。」
耳を澄まさなければ聞き逃してしまうほど小さな声が、部屋の中から聞こえた。
部屋の中に入ると、会議の時に見かけた四星の女の人が、椅子に座って本を読んでいた。
女の人の部屋だというのに、アガーテ様のようにレースのあしらわれたカーテンやベッドは見当たらず、非常に簡素というか、シンプルな部屋だ。
女の人はミリッツァというらしく、褐色の肌に深い茶色の髪の毛を一本の三つ編みにして纏めている。
サレに、ミリッツァの向かいの席に座らせてもらった。
スカートの皺を少し整えながら、ミリッツァをチラチラと観察してみる。
それに対してミリッツァは、あくまで私に興味のなさそうな虚ろな目でこちらを見ていた。
「昨日の会議で聞いたから知ってるよね?歩けないから、君に訓練をお願いしようかと思って連れてきたんだよ」
サレがミリッツァに説明している間も、ミリッツァの瞳はガラス玉のように微動だにしない。
「あの、メイといいます。よろしくお願いします。」
昨日アガーテ様からもらったばかりの名を名乗ることに多少のくすぐったさを感じながら頭を下げる。
ミリッツァは「あぁ」と短く返事をすると、やはり興味がなさそうに視線を逸らした。
ミリッツァは顔立ちはヒューマに近かったが、耳と角が見受けられることからガジュマであろうと判断する。
しかし、私の視線が角に移った瞬間、ミリッツァは明らかに不快感を露わにしてこちらを睨んだ。
ミリッツァの意図がわからず、チラリとサレを見る。
助けを求めるわけではないが、このままミリッツァをじろじろと見ているよりは良いと思ったのだ。
するとサレは、ニヤニヤしながらミリッツァの様子を楽しんでいるようだ。
そこで気付く。
ミリッツァは、昨日本で少しだけ読んだ、ハーフではないかと。
急いで読んでいたためうろ覚えだが、ハーフの外見的特徴はヒューマに近く、角や尻尾、耳など一部に親のガジュマの外見特徴が現れると記述があったはずだ。
ヒューマとガジュマの婚姻自体が稀であることに加え、子供の頃のハーフは体が弱く死んでしまうことも少なくないため、ハーフはほとんど存在しないらしい。
また、無事成長した場合も、ヒューマでもガジュマでも無いという立場から双方の人種から忌み嫌われ、差別されるケースが多いという。
私の視線を、おそらくその差別や侮蔑の類と取ってしまったのかもしれない。
これからお世話になろうという相手に、なんて失礼なことをしてしまったんだろうと、血の気がひいていく。
昨日から本当に、わからないことだらけで失敗ばかりだ。
「ご、ごめんなさい!」
慌てて勢い良く頭を下げて謝罪すると、ミリッツァの虚ろな瞳に少し戸惑いがよぎる。
「あ、の、失礼なことをしてしまったと思って…ごめんなさい!」
「…いい。顔をあげてくれ」
ミリッツァから声を掛けられ、恐る恐る顔をあげる。
すると、その表情に先程のような嫌悪感は見受けられず、虚ろだった目に少し光が宿ったように見えた。
「私のほうこそ、記憶喪失のお前に見当違いな誤解を…すまなかった。」
思いもよらぬ相手からの謝罪に、私は頭をぶんぶん振る。
「記憶喪失とはいえ失礼なことをしたのは事実です!え、えーと、こんな常識知らずですが、よろしくお願いします!」
再び頭を下げると、さすがに勢いがありすぎたのかテーブルに頭を打ち付ける。
なんて定番で笑えないアホなことを…と少し涙を流しながら、恥ずかしくてテーブルに額を擦りつけたまま、何度も「お願いします」と呟いた。
「メイと言ったな…歩けないとは、どの程度だ?」
ミリッツァが私の失態を何も無かったかのようにスルーして話を進める。
背後でサレが鼻で笑ったような気配を感じた。
「何かを支えにすれば立ち上がることはできますが、二・三歩しか歩けなくて…」
ゆっくりと顔を上げながらミリッツァに返答すると、ミリッツァは難しそうな顔で何かを少し考えるように俯く。
「身体的に問題がある場合、いきなり歩く訓練を始めてしまうのは危険かもしれない。一度医者に見せる必要があるな」
予想外に飛び出した医者という文字に、多少不安を覚える。
訓練すればきっと歩けると思いこんでいたけれど、身体に異常があれば歩けないかもしれない。
記憶喪失の件もあるし、脳に異常があったらどうしよう。
もしかして、いきなり手術…だなんてことは…
考えれば考えるほど恐ろしい妄想が頭をぐるぐる廻り、不安が蓄積されていく。
ミリッツァはそんな私の様子をみて気の毒に思ったのか、椅子から立ち上がり私の肩に手を置いた。
「お前が気に病んだところで何の解決にもならないだろう。大丈夫だ。この城には腕の良い医者が居る」
一見慰めてくれたようにも聞こえたが、「腕の良い医者が居るから重病でも大丈夫」とさりげなく身体の異常を肯定されたような気分になり、私は力無く頷くことしかできなかった。
そうして連れてこられたのは、ドクターバースというお医者様の部屋だった。
昨日と今日だけで様々な部屋を回り、城の中を歩いているが、全く城の間取りが頭に入らない。
いつかこの城で迷子になる気がする…と、どうでも良い可能性を懸念しながら、部屋の中を見回す。
白で統一され洗練された部屋は、医務室らしい消毒液の匂いがした。
ドクターバースはとても優しそうなおじさんで、診察中も私を安心させるために定期的に声を掛けてくれる。
「身体に異常は無いようですね。これならリハビリをすればすぐに歩けるようになるでしょう。」
ドクターバースの穏やかな声色で告げられる「異常無し」の結果に、私はほっと胸を撫で下ろした。
「記憶喪失のほうは…残念ながら原因はわかりません。心因性か…外傷性か…その他の原因か…」
「そうですか…」
「メイさんの場合は発症より昔の記憶が抜け落ちた状態。つまり記憶を呼び出す想起の障害で、健忘の期間内の記憶すべてが思い出せない状態ですね。
この場合は多くは心因性、つまり精神的ショックやストレスが原因と言われています。
まれに、頭部外傷をきっかけとして発症することがありますが、頭部に外傷は見られなかったので、考えられるのは心因性のものか…
脳に異常がないことから症候群の可能性も低いので…」
「記憶が戻る可能性は…ありますか?」
恐る恐る、尋ねてみると、ドクターバースはにっこりと笑って私の手をとる。
温かくて大きな手で、なんだか気持ちが落ち着く。
「可能性はありますよ。具体的な治療法はありませんが…考えすぎずに、普通に生活していたら記憶が戻るケースもありますから」
ドクターバースの言葉に、少し気分が軽くなった。
今の私にできることは、早く歩けるようになること。
ここでの生活のために、この国について知ること。
そして、普通に生活をすることなのだ。
「ありがとうございます!少しでも早く歩けるようになります!ご指導よろしくお願いします!」
ドクターバースとミリッツァに頭を下げると、ドクターバースは顔をくしゃくしゃにして笑ってくれた。
ミリッツァも、少し柔らかい表情をしていた気がした。
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記憶喪失のくだりはデタラメです。
この世界の医療ではこうなんだと思ってください…
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