私には忘れられない人がいる。彼女には謎が多かった。だから彼女がいなくなって十か月が経った今でも忘れられずにいる。彼女が抱えていた秘密が、より彼女という人間の魅力を増大させていた。

彼女は自分の事をほとんど話さなかった。しかし、だからと言って社交的でないというわけではなかった。どんな相手とも分け隔てなく接し、相手の話を聞く時は、そうするのが好ましくない話題を除いて、いつも口元に小さな笑みを浮かべていた。育った環境のおかげか生まれ持った性質か、彼女は何をするにも落ち着いていて優雅で、見ている人間を安心させた。だから、患者は彼女を信頼したし、ナース達は彼女に好意的だったし、同僚は彼女をライバル以前に友人として見た。そして、私は彼女に惹かれた。

だから職場では気が付くと彼女を見ていた。カルテを読んでいる時、彼女は良くペンを小さく指揮棒のように振っていた。それが彼女の癖だった。ある時、私は聞いた。「君、音楽団に所属していた事あったっけ?」「いいえ。どうして?」彼女は不思議そうに首を傾げた。「指揮者をしていたんじゃないかと思って。いつもペンを振っているから」「ああ」納得したように頷いて、彼女は肩を竦めた。「違うの。ちょっとした癖みたいなものよ」「本当に?高校や医大でクラブに所属していたりしてないの?」「いいえ」「そうなんだ。そう言えば、君高校はどこの出身だったけ?」「言っても知らないと思うわ。スコットランドの方にある閉鎖的な寄宿学校だから」彼女はそれ以上、学生時代の事を話してくれなかった。

十か月前彼女がいなくなった後、もっと彼女について知っておくべきだったと後悔した。あれほど熱心に仕事をしていたのに、突然仕事を辞めていなくなってしまうなんて彼女らしくない行動だった。けれど、本当に彼女がどんな人間かを知っているのかと問われれば、頷くのは難しい。

彼女が特に親身になっていた患者が、必要な臓器移植を待つ間に身体が耐え切れず死んだ時の事だ。遺族の前では気丈に振舞っていた彼女も、休憩室では参っていた。パイプ椅子に座り、壁に頭を預け目を閉じながら腿の上で小さく鉛筆を振っていた。私は、病院のカフェテリアの不味いコーヒーではなく、外の店で買ってきたコーヒーをそっと彼女の向かいに置いて隣に腰かけた。「君はできる事は全てしたさ」「そうかしら」彼女は目を閉じたまま答えた。「私達には限界がある。どんなに手を尽くしても、駄目な時もあるんだ。今回は、必要な臓器が手に入らなかった。僕達にはどうする事もできなかったさ」「…魔法を使えたら」「え、魔法?」「なんて、ね」彼女は頭を起こし、僕を見て笑いながら言った。「コーヒーをどうもありがとう」

あの時、彼女の意外な一面を見た気がした。ロマンチストな彼女。勤勉で真面目で理性的な彼女は、意外にも女性らしく夢見るような発想も持っているらしいと、その時思った。私は彼女の表面しか知らなかったと今となっては思う。

結局、私は彼女という人間をほとんどよく知らなかった。その事が私の頭にいつまでも残って彼女を忘れられずにいる。私は今も変わらず、彼女と共に働いていた病院に勤務している。だから、ふとした瞬間に彼女の事を思い出す。今日も仕事を終えて、病院の裏口から出て家へ帰ろうと駐車場へと続く道を歩きながら、彼女の事を考えている。

夜も遅いからか、病院の駐車場は寂しい。車が数台止まっているだけで、人影はない。自分の車まで歩いていると、背後でポンと車のエンジンが火を噴いた時のような音がした。車が通るかと思って端に寄るが一向に車は通らない。振り返って様子を見ると、さっきまで人影がなかったはずなのに、人が立っていて驚いた。突然の出現にも、その人の恰好にも驚いたが、何よりもその人物が彼女である事に目を見開いた。

「…ポートマン?」私はその場で固まったまま、慎重に尋ねた。
「ハイ、久しぶり」その落ち着いた声の調子もゆったりとした佇まいもまさに彼女だった。
「え、あ、ああ、久しぶりだね。どうして、―――どうやって、ここに―――。今まで、どうしてたんだい…?」
「動揺させてごめんなさい。突然現れて驚いているわよね」彼女はすまなそうな表情を作りこちらに歩み寄った。
「いや、そんな…ああ、確かに驚いてはいるよ。どうして、また?―――そんな恰好して、突然?」

彼女はハロウィンの仮装のような恰好をしていた。長いマントを羽織っている。寒いのか、胃が痛いのか、両腕を腹の上で組んでいた。街頭の薄明りの下での彼女の顔は嫌に白く見えた。小さな笑みを浮かべているが、どうしてかそれが痛々しく見える。医師という仕事柄、怪我の痛みや気分不良を誤魔化そうとする人間は見分けが付く。今の彼女はまさにそれに思えた。

「複雑な話なの」話すつもりはないんだと思った。
「そう、かい。うん、何ていうか君、…大丈夫なのか?顔色があまり良くない。今なら緊急外来も落ち着いているから、すぐ診てもらえるよ」
「いいえ、私は大丈夫。私は、大丈夫よ」彼女はトレードマークの小さな笑顔を浮かべていた。
「それで、…急にどうしたんだい?」
「あなたに、お願いがあって来たの。医者としてのあなたに助けてほしくて。どうか、お願い」

十か月ぶりの彼女は、どこか雰囲気が変わっていた。ほとんど彼女の事を知らない私でも、それは分かった。そして、彼女は今も変わらないその瞳で私を覗き込んでいる。それは十か月前まで私が惹かれていた時のままだった。どんな形であれ、彼女との再会を喜ばない訳がない。

「―――私にできる事があれば相談に乗るよ」私は頷いた。「話してみて」
「ありがとう」彼女はそう言って微笑んだ。「でも、どこか人目のない場所で」

考えてみればここは彼女が突然辞めた病院の駐車場だった。彼女は知っている誰かに会いたくないんだろう。

「とりあえず僕の車の中で。それかどこか適当に走らせても良いし」
「そうね」

そう頷いだ彼女を私は自分の車まで案内した。彼女のためにドアを開け、その後私も運転席に乗り込んだ。エンジンを掛け、ステアリングを握って彼女の方を見る。

「それで―――?」
「…あのね、」彼女は数秒躊躇ってから話し始めた。


本当は何処にも行きたくなかった。


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