綺麗に閉じ込めた愛憎

「退院、…おめでとうございます」

病院の入り口まで見送りについてくれた看護師がぎこちなく言葉を紡いだ。そんな顔をされるのも仕方がないなと思う。私の退院は全快したからではなく、これ以上入院していても変化がみられないと医師が判断したからだった。私に掛けられた術は、医療班の手に負える代物ではなかった。

「経過観察が必要なので、診察にはいらしてくださいね」
「はーい」

努めて明るい声で返事をして、病院を後にする。私の担当だったこの看護師も、術を受けた私自身も、どちらも術が自然に解けることがないのは分かってる。診察を受けても、ほとんど意味はない。いい機会だから、ゆっくり休めと言った三代目。なにが、いい機会なのだろう。この術が解けない限り私はチャクラを満足に練ることもができない。術のひとつも上手くできなくなった私は、もう何者でもない。ゆっくり休めなんて、息のつく暇も与えてこなかったくせに。休む方法なんて、知らない。こんな太陽が明るい時間に、素顔で外に出る歩き方なんて、忘れてしまっている。

人を避けて足を進めて、演習場の奥にある慰霊碑の前にたどり着く。刻まれた名前は、皆里のために命を落とした忍達。そのうちのいくつかは、私と一緒に任務について殺された人たちのはずだった。だけど彼らのコードネームしか知らない私は、刻まれた名前の淵をなぞることくらいしかできない。死を持って英雄と呼ばれる彼ら。きっと、家族や仲間や恋人が彼らの帰りをまっていたはず。どうして、私が生きて、彼らが死んでしまうのだろう。待つ人なんて私にはいないのに。とうの昔に死んでいた。

里の上層部として働いていたのに、最期は自分の娘に見殺しにされた父。期待に応えようと毎日修行していたのに、実の妹に殺された姉。父を愛し私達を分け隔てなく大切に育て、抗いもせず息を引き取った母。誰一人、この石に名前が彫られることはなかった。



すっかり夜になったころDランクの任務から帰ると、家には珍しくみんな揃っていた。母も父も姉も。テーブルには夕食が出来上がっていた。里の役職に就いている父も珍しく夕食の時間にいる。私がアカデミーを卒業した頃から、今まで以上に修行して夜遅くに帰ってくる姉もいる。久しぶりに家族四人で囲む夕食が嬉しい反面、父と姉のことが気になった。

「お姉ちゃん、今日の任務すっごい大変だった!」

お母さんのよそうご飯を受け取りながら、今日の任務の話をする。私の目標はいつも姉だった。父はいつも、姉のことばかりだった。アカデミーの成績も、忍術の上達も、任務の達成度も、いつも姉ばかり聞かれていた。それに応えようとする姉が私の忍としての目標だった。私はずっと姉のあとを追っていた。アカデミーを卒業して、姉と同じ下忍になれた。初めて、姉に追いついたような気がしていた。

「もう私達みんなくたくたで、追いかける力が残ってなかったの。ずっと見てるだけだった先生が、もう日も暮れたし俺が捕まえるってなったときにね、私が最初に仕掛けておいた罠に引っかかったの!」
「お前の作戦勝ちだな」

姉より先に、父が反応した。それがいやだった。私は姉に褒めてほしかった。父の言葉で今まで笑って聞いてくれていた姉の顔が暗くなった。

「お前もいつまでも下忍でいると、あっという間に妹に抜かされるぞ」

最近の父はずっとこんな感じだった。姉のことを気にしているのは変わらないけれど、引き合いに私を出すことが多くなった。そのたびに姉は苦り切った表情になる。私の努力は姉のそれに到底及ばないから、抜かすことなんてないのに、と思う。二人の間にひんやりとした沈黙が流れていて、居心地の悪くなる私。

「私、先生と話して、今年の中忍試験は受けようと思ってます」
「お姉ちゃん、すごい!」
「やっとか」

冷え切った食卓がいやで声は張り上げたのに、父はそんな私を黙殺して姉に言った。

「ジュリの担当は、ジュリを今年、受験させるつもりだと言っていたぞ」
「でも、ジュリはまだ一年目の新人なのに」
「新人でも、能力があるということだ」
「、でも―――」
「でもじゃない。お前だって、自分より妹の方が才能があることくらいもう分かってるだろう」

その言葉で姉が立ち上がった。弾みでテーブルに置いてあったお箸が床に転がった。イスに座ったままの父を、立っている姉が見下ろした。姉は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて、泣いていた。

「やはり、お前は忍には向いてない。忍の端くれなら、感情を隠すことぐらいできて当たり前というのに」
「お姉ちゃんは、もともと虫も殺せないような優しい子だから仕方ないんですよ。お父さん、この子を煽るようなこと言わないでくださいな」

母が止めに入った。姉の腕を掴んで優しく席に座らせようとした。優しすぎるのが問題なんだ、と言う父の言葉と同時に、母が倒れた。テーブルの食器と一緒に音を立てて床に落ちた母の胸元は赤い色に染まっていた。鼻につく生臭い、鉄の匂い。

「私だって、ひとくらい殺せます」
「…お前、何をしたか分かってるのか!」
「忍ですから、感情を殺して親を殺すくらいできます」

血のついたクナイを握る姉の顔には何の表情も浮かんでいなかった。立ち上がって構えている父とにらみ合っている姉。私が目標としてきた姉の姿はどこにもなかった。ただ、父と姉の間に走る感情に恐怖を抱いていた。怖くて、怖くてたまらない。

「ジュリ、クナイを取れ!」
「……え、なん、で」
「見ただろ!母さんが殺されたんだぞ!」
「でも、…だって、お姉ちゃんなのに、」

いまだに椅子に座ったまま、何もできずにただその場にいる私を姉が見た。その眼の冷たさに弾かれたように、席を立った。ほとんど転がるように、床に足をついた私は二人に背を向けて走りだす。敵に背中を向けるな、というアカデミーでの教えが頭に浮かんだ。誰も敵じゃない。ここにいるのは誰も、敵じゃないはずなのに、どうしてか警告のようにその言葉が鳴り響く。這いつくばって玄関に向かう私は、ついた手のほんの数センチ先の床にクナイが刺さって動きを止めた。振り返ると、母の傍で仰向けに倒れている父がいた。腕から流れる血を使って口寄せをした父に、姉がクナイを振り下ろした。父が苦しそうに呻いた。口から血が零れるのを見た姉は、ゆっくりと私に向き合った。ホルスターから新しいクナイを取り出して歩み寄ってくる姉。何が起きているのか頭が追いついていない状態のまま、本能的に震える腕でクナイを構えた。

「ジュリ、それでどうするの。私のこと殺す?無理だよね、下忍になって何年にもなる私だって今日初めて人殺したのに」

床に腰をついている私に跨ぐ姉の服は血で濡れていた。

「おね、…ちゃん。やめて」

その言葉は聞き入れてもらえなかった。振り下ろされたクナイに反射的に対抗する。金属のぶつかり合う音が耳に響いた。必死で姉の攻撃を受け流す。何度も、何度も向かってくる姉のクナイが怖くてたまらない。そして、大好きだった姉が怖くてたまらなかった。涙で視界が良く見えなくなっていた。不意に構えていたクナイに金属じゃない衝撃を受けて、目を大きく見開いた。私のクナイが姉の胸に刺さっていた。自分のしたことに驚いて手を離すと姉はクナイを刺したまま後ろに倒れた。

「…おねちゃん!ごめんなさい、ごめんなさい」

止血をしようと駆け寄る。確認すると、幸い深くは刺さっていなかった。姉が何かを喋った。切れ切れでささやき声にしかなっていなくて、よく聞き取ろうと姉の口もとに耳を寄せた。



姉はただ、父に認められ里から必要とされる忍になりたかっただけだった。きっと死ぬときは、里の英雄として死にたかったはず。この慰霊碑に名前を刻まれたのなら本望だと思ったはず。ただ忍として生きようとしていた彼女の真っ直ぐな夢を私は奪った。その日から、ただ生きるようになった。誰かを愛するも、誰かを憎むのもやめにした。その後にくる感情に耐える心は私にはなかった。忍として生きるのが姉に対する唯一の罪滅ぼしだと思いながら、いっそあの時私も死んでいたら良かったのにと思っていた。あの日、家族と一緒に私の心も死んだ。そして、いま忍ですらない私は、ただの空っぽな存在だった。そんな私に生きている意味があるのか分からない。