それでも届かなくて

看護師にお礼を言って、紅とアスマを残して茶屋を出ると太陽はもういなくなっていて辺りは暗く染まり始めていた。雲の隙間から月が覗く。空気は澄んでいて、雲がなかったら星がいくつか見れたかもしれない。彼女を見つけるために、ひとまず里を高い所から見ようと、暗部時代よく立った里の高台に向かう。外階段を音もなく上がっていくと、三年前火影室で見送った背中が見えた足を止める。ああ、生きていると思った。急いていた心臓が落ち着きを取り戻す。彼女の背中が華奢なのは昔からだ。しかしあの頃と違うのは、背中に掛かる髪が伸びたこと。そしてその背中にはもう背負う荷物がないということ。俺の気配に気づいた素振りを見せない彼女は、高台の柵ぎりぎりに立って里を見下ろしていた。わざと音を立てて階段を登り切る。さすがに音は耳に入るだろう。コンクリに転がる小石を足でしっかり踏みつけるように歩けば、彼女が振り返った。

「得意の忍び足はどうしたんですか」
「四六時中そんなことしてたら神経すり減るよ」
「確かに。それにしてもこんな時間にこんな所でどうしたんですか?」
「それは俺の台詞かな」

俺の言っていることが分からないとでも言いたげな表情を浮かべる彼女は達が悪い。

「お前、何しようとしてたの」
「そんな怖い顔しないでください。この一週間ずっとこうしてたのに、一度も動かすことできてないんですから」

ふふふと口角を上げる彼女は、この場に相応しくなかった。右手に持ったクナイを掲げてお手上げの仕草をした。彼女は刻もうとしていたであろう傷が刻まれないままの白くて細い手首を俺に見せてくる。まったく俺の周りは手のかかる奴ばかりだとつくづく思う。

「お前もサスケも、アカデミーでクナイの扱い方習い直しなよ」
「サスケくん?」

壁越しに感じた彼女がサスケから奪った気配を真似して、俺も彼女の手からクナイを奪って足元のコンクリに放った。リノリウムと違って高い音が響いたが、それでも彼女は俺の暗に言わんとしていることが分かったらしかった。盗み聞きは良くないですよ、と気分を害したようにもどうでもいいようにも取れるような表情で言った。あくまで軽い口調で謝れば、カカシさんの気配まったく気が付きませんでしたと、続けた。あの、明るく高い声。

「部下が寝込みを襲うようなことして悪かったね」
「気にしてませんよ」
「クナイはサスケに返しておいたから」
「回収したのもカカシさんだったんですね」
「お前が寝た隙にね」

寝顔も見たよと冗談を言えば、二十歳そこそこらしいわざとらしい恥じらい方で高い声を上げた。あなたの年だとサスケ君と違って犯罪ですよ、と楽しそうに注意された。

「彼、いい動きしますね。一瞬で首にクナイが宛がわれたときはどきりとしました」
「そりゃ、あいつはうちはの人間だからね。担当上忍としてあいつの成長は楽しみだよ。その分手はかかるけどね」
「ふふ、すっかり先生ですね」

笑いを零す彼女。そうやってくだらない話をして、核心に迫る話をする気はないらしい。でも、もうそれを許すつもりはなかった。

「お前はさ、あの時サスケが本気だったらどうしてたの」
「もしそうだったら、まあ死ぬしかないですね」
「怖いくらいに諦めがいいね」
「だって、今の私チャクラ練れなくて下忍以下、というかもはや忍の端くれでもないんですよ」

そう話す声色は三年前よく聞いていたものと変わらない、明るく朗らかな声だった。柵に背中を預け、隣に立つ彼女の顔をのぞき込む。そこに隠された表情を探し出そうとして、里の明かりが映る里の光でいたずらに輝く瞳に捕まる。火影様は休めって言うんです愚痴っぽく続けた彼女の眉間にわずかに皺が寄ったのを見逃さなかった。

「…カカシさんは驚かないんですね」
「え?」
「だって普通、同僚がチャクラ練れなくなったって言ったらビックリしたり心配したりするでしょ」

ああ、確かに。ごまかしてもどうしようもないので、彼女に実は知ってたと告白する。彼女は、火影様ですね、あの人はほんとに口が軽いんですから、と批判的に言うが、言葉とは裏腹に表情は白けていた。

「でもね、俺、心配はしてるよ」
「心配、ですか」
「うん。それにもっというと三年前からずっと」
「いきなりなんですか」

彼女と距離をつめて話出すと、戸惑ったような声が上がった。良いから聞いてよ、と俺が近づいた分横にずれようとする彼女の腕を掴む。

「もうお前は、過去に縛られなくていいんじゃない」
「面白いですね」
「…なにが」
「いや…、あの日サスケ君が『何も知らない奴ほど、説教したがるんだよ』って言ったじゃないですか」

そう言えば、サスケは去り際に、警告してきた彼女にそんなことを返していた。

「それがどうしたの」
「いや、彼の言いたいことが良く分かるなって。何も知らない人に、あれこれ言われるのって不思議な気持ちになりますね」

口調はあくまで穏やかで、それが恐ろしく不気味だった。彼女は楽しそうに俺に拒絶を示した。でももう遅い。俺は彼女のことが気になって、心配でたまらないのだ。彼女を思っている。彼女を導くために伸ばして手を、引っ込める気はない。いくら拒絶されても、届くまで引き下がるつもりはない。

「俺、知ってるよ」
「何を知っているっていうんです?」
「お前の家族のこと」
「…火影様ですか」
「そう。だから、ね。もう父親の言葉に縛られるのはやめなよ」

彼女の父親は息絶えるそのときまで、木ノ葉の里の上層部だった。周りの忍たちから彼の方針を非難され、身内びいきだと中傷され、それでも耐えて里の忍の育成に尽力した。そして、娘にも忍として生きるように言いつけ、そして死んだ。父親というのはどうして死んでまで、子供の生きる道を示すのだろう。そしてその道は残された子が独善で思い込んだもの。かつての俺がそうだったように。
俺の親父は、任務で人命を優先したことで里から謗られ自ら命を絶った。それから俺は、規則を守ることが忍のもっとも遵守すべきことだと親父の死をもって痛感した。でも、それこそが生きていた親父が守り抜いた忍のあるべき姿ではなかった。ひとりでは気が付かなかった。でも、俺には仲間がいて、そばにいてくれる人間がいて、だから道は自分で作れると気が付くことができた。彼女にも、気が付いてほしい。そして、できれば彼女の、俺にとってのミナト先生やオビトやリンのような存在に俺はなりたい。
だって彼女はこんなにも近くにいる。あの星がきれいだった夜。その下で面をして髪をなびかせていた彼女。二人で里の重くて暗い荷物を背負っていた。そして今夜、雲で覆われた空の下で伸びた髪が靡くための風は吹いてない。俺も彼女も素顔を晒して隣に並んでいた。俺も彼女もあの頃の荷物を背中に担いではいなかった。ちゃんと時間は流れている。ものごとは確実に変化していく。あのころ、正しく導けなかった彼女を今度は、今度こそはと思う。だって、彼女はこんなにも近くにいるのだ。

「父の言葉?」
「忍として生きろっていうのが、親父さんのお前に残した最期の言葉だったんでしょ」
「ああ、そう言えば父はそんなことを言ってましたね」

他人事のように言った彼女は空を見つめた。雲が覆っているそこを凝視して、裏側に隠れている星を見ようとしているようだった。しばらくして、俺に視線を投げた彼女は、これ火影様にも誰にも話したことないんですけど、と続けた。

「実はあの日、父も姉も死ぬ必要なかったんです」

そう言う彼女の声色は落ち着いていて耳によく馴染んだ。いつもの子供っぽい甲高い声ではなかった。その声で話されるたびに素顔の彼女とはちぐはぐで違和感を感じていた。こうして彼女らしい音を聞いて、本物の彼女に近づけた気がした。けれど、彼女の紡いだ言葉でどうしてか、より一層の距離が生まれた。

「私が、悪意を持ってふたりを死なせたんですよ」