追憶する夕暮れ



『飲みに行くわよ。無断帰宅厳禁』

ロングで働いて遅番の子と交代で上がり、バックルームの自分のロッカーの前に立つと、アンコさんらしい止めハネはらいがはっきりしたポストイットが貼ってあった。

言ったら悪いがアンコさんは、人に気づかれないように気を配ったり、こっそり根回しをするのができない人間だった。きっと私が逃げた今朝の話の続きでもするつもりなんだろう、と簡単に想像がついた。





「お先に失礼します」
「じゃあ、あんたたちバンバン稼いでね!」

働いている人たちに挨拶をして、裏口から外に出る。ポストイットを見てどうしようかと考えを巡らす隙もなく、アンコさんに捕まってしまい、いまこうしてふたりお店を後にしている。裏の野路から表の通りに出ると、まだまだ夏の名残で夕方でもずいぶんと明るかった。道を歩くと、二人分の長い影ができた。道路では車が行きかい、反対側では制服姿の高校生がちらほら歩いている。にぎやか。

「夕方だってのに、明るいわね」
「9月なんて、まだまだ夏みたいなものですからね」
「こんな明るい時間にあんたと歩くなんて変な気分よ」

横に並ぶアンコさんのまなざしの力が少し弱かった。その視線は歩く道の先でも、私でもなく、どこか見えない何かを、昔の記憶を見ているようだった。アンコさんが見ているものが想像できて、何も言えず黙った。

「………もう!しんみりしないでしょ!」
「先にしんみりしたのは、アンコさんです」
「うるさいわねっ、もう今日は私のおごり!朝までパーッと飲むわよ!」
「私、明日もオープンなんですけど」
「ったく」

うんざりしたようなアンコさんは携帯を取り出すと、電話をかけ始めた。2、3度違うところに電話をしてから、私を見てにんまりと笑った。

「代わり見つけたから。あんたと私で朝までコースよ」

駅に着き、混雑する人の間を縫うようにしてふたり下り線のホームに降りた。電車に乗り込み、アンコさんといつも行く居酒屋のある駅に向かった。




平日の夕方であるためか、お店は空いていた。窓際の席に案内された。窓から見える空は夕焼けに少し青みがかりはじめていた。アンコさんは手早く注文をし、すぐに来たお酒のグラスを持って、形だけの乾杯をする。

「あんた、まーだビール飲めないの?」
「味が、どうしてもだめです」

アンコさんがのどを鳴らして飲むそれを見ながら答えた。アンコさんはビールを飲みながら、するどい目線を私の一口飲んで止まった右手に注いだ。肩をすくめてから、持っていたカクテルのグラスに口を付ける。アンコさんが選んだそれは、甘かった。アンコさんに倣い、飲み干す。そのタイミングでサラダとつまみの類が運ばれてきた。アンコさんは、自分と私の分の追加のお酒を頼んだ。

「それで、あんたにそんなことするなんて、どんな下衆野郎なの」

そう切り出したアンコさんにやっぱりなと思った。

「どんなって…。さっきも言いましたけど、ほんとなんでもないんです。あの人の気まぐれみたいなものです」
「なにそれ、あんた囲われてでもいるの?」
「だから、違いますって」
「もうちょっと分かるように話しなさいよ」
「話すようなことすらないんですよ、お互い相手のことなんてよく知らないし」
「はあ?じゃあ、あんた自分じゃ知らない間にその男の愛人になってるかもしれないじゃない」
「それはないですよ」

アンコさんを安心させるために笑ってみせる。窓の外を見ればビルの間に見える空は夜の色だった。