結局のところ



「おはようございます」
「おはよ、今日も稼ぐわよ!」

バイト先の裏口から入れば、店長のアンコさんがいた。朝から元気。数ヶ月前からこのカフェで働いているけれど、アンコさんが元気じゃないときを見たことがなかった。もっといえば、彼女と知り合ってからも一度もない。

バックルームに荷物を置いて、手を洗う。エプロンを着けて、よし、ほとんど寝ていないせいでぼんやりしている自分に気合いを入れる。

キッチンへ入れば、すでにアンコさんが届いていた野菜やパンを片付けていた。私も手伝い、開店作業を進めていく。

「…ちょっと、あんたそれなに」

キッチンの作業台で今日のコーヒーとお茶の種類やらフードの話をいると、アンコさんが私の胸元を指さした。視線を下ろせば、話を聞くために少し前にかがんでいたために服の隙間から胸元がちらり。なかに着たキャミソールからはみ出た赤い痕がいくつが見えていた。急いで抑えるも遅く、アンコさんの視線が鋭くなっていた。

「なんでもないです」
「なんでもなくない!あんた、もしかして―――」
「違います」
「じゃあなに?男?彼氏?」

見られてしまったし、相手がアンコさんとなればごまかし切れないのは明らかだった。

「男の人です、…でも彼氏じゃありません」
「どういうことよ、それ。ちょっと、やっぱり」
「だから、違いますって」
「じゃあ、なんなのよそれ」
「なんでもないんです」

心配げなアンコさんに申し訳ないとは思ったけれど、相手が、年上で、雇い主で、昔からの知り合いでも答えられなかった。それに、私もこれがなんなのか説明できない。中途半端に話せばアンコさんにもっと心配をかけると分かっていたし、かけるつもりはなかった。

それから、ふたりで黙々とオープンの準備をした。まだまだ暑いので、アイスのドリンクを多めにストックして、朝食代わりになるヨーグルトやペストリーを多めにショーケースに並べる。開店する少し前にもうひとりバイトの子が出勤して、アンコさんとのピリピリした空気がなくなって少し安堵する。



オープンしたばかりでお客さんがいない店内は静かで、アンコさんはバックに下がっていた。

「どうしたんですかー?なーんか、いつもと違いますね」

お客さんがいないことをいいことに、バイトの子が話しかけてくる。

「そんなことないよ」
「えー!そんなことありますよ。悩み事ですか?」

年下の人なっこい彼女は、知りたがりでお人好しで可愛い子。

「うーん、どうだろ」

答えになってない答えを誤魔化すようにへらりと笑った。すると彼女は華やかに笑顔を作り、「わかった!」と声を上げた。

「彼氏さんだ!そうですね?!」

この短時間で同じ質問をされるなんて、おかしな日だ。アンコさんにいったのと同じよういっても、彼女は信じないという顔をした。

「おはようございます、いらっしゃいませ」

彼女が何か言い出す前に、タイミングよくお客さんが来店した。不服そうな彼女はしぶしぶといった様子でキッチンに下がっていった。いってらっしゃいと、持ち込まれたタンブラーに入れたコーヒーと彼女がキッチンで作ったサンドウィッチの紙袋を手渡す。

まだ賑わい出さないお店の入り口を見てお客さんを待ちながら、アンコさんと彼女のいったことを考える。あの人とは、アンコさんが想像するような関係でも、彼女のいうような「彼氏」でもなかった。

彼のことを考えて、そういえば、帰ってきたときから彼の様子はいつもと違っていたな、と思い返す。饒舌で、強引で、執拗で、おまけにこの痕に、見送りの言葉。私の知ってる彼じゃない、「彼らしくない」彼。

そこで、ああと腑に落ちる。つまるところ、私は本当に彼のことをろくに知らなかった。たびたびこの結論に至る。知らないし、知らなくていいと思っているのに、考えた末にこう答えが出ると、ひとり心が落ち着かなくなる。落ち着かなくなるほどに、彼と他人であることを実感した。