追う者と追われる者



彼は触れるだけのキスをした。ほんの一瞬の出来事。それでも、私のものと違うそれを、彼の唇の温かさを、感じるには十分な時間だった。彼が離れていくのを感じて瞼を開ければ、彼のまっすぐな視線を受けることになった。ああ、これはまずいと、とは思ったけれど、この体制では明らかに不利だった。彼の胸ぐっと両手で押しても、まったくびくともしなかった。

「退いてください」
「いやです」
「あの、」
「やだよ」
「…あの!」

このあたりでやめにしなければいけない。明日は朝早いのにもう丑三つ時で、このままだとまともに寝ることができそうにもなかった。私のことなど構いもせずにもう一度、キスをしようと近づいてきていた。彼の右手はいつの間にかTシャツの中に忍び込んでいた。

「…カカシさん!」

彼の名前を呼ぶと彼が身体を離したので、彼の胸を押していた腕を下ろす。

「…なあに?」
「私、明日バイトって言いましたよね?」
「聞いたよ」
「だったら、」
「だからってデキない、なんて、そんなこと知らないよ」

のんびりとそう言った彼は、私が何かするよりも先に後頭部に手を回し強引なキスをした。今度は触れるだけでは済まなかった。噛みつくようなキス。角度を変えて、繰り返し。彼の熱い舌が私の口内に入った。逃げようにも、頭は掴まれているし、彼の右手は腰に回っていてなす術がなかった。やっと、彼の唇が離れて、さぞ満足げな顔を拝めるのだろうなと思ったのだけれど、意外にも彼は眉間にしわを寄せていた。

「甘い」
「え?」
「お前の口、すごい甘い」

ああ、と納得。「さっき、マフィン食べたんです」と告白すれば、心底嫌そうな顔をされた。今日に限らず、自分はビールを飲んだ口でキスをしてくるくせに、勝手だ。

相変わらず彼の下にはいたけれど、ふいに拘束の手から解放された。彼は私にまたがったままローテーブルに置いたビールの缶を掴み、口直しだと言わんばかりに飲んだ。下から見ていると、彼ののど仏が動くのがよく見えた。紛れもない男ののど。頭をそらし、最後の一口まで飲みきった彼は私の視線に気づいたのか、こちらを見ておかしそうに目を細めた。

なんだと思うよりも先に、三度近づいた彼は私に口づけをした。ふわりとビールの香りが鼻を掠めたと思うと、彼の舌が私の唇を舐めた。仕方なしに口を開けば、なかに入ってきたのは彼の熱いそれと、私の苦手な味の液体。驚きで声を上がったけれど、塞がれた唇からはくぐもった音しか出なかった。唇の隙間からビールが零れて、私の顎を伝った。執拗なキスと口内のビール。乱れた呼吸と上げた声のせいで開いたのどにビールが流れた。零れなかったビールがすべて私ののどの奥に消えてから、彼は、やっと唇を離した。

「おいしかった?」

私に覆いかぶさって鼻と鼻が触れそうな距離で問う彼。馬鹿な質問。何か言いたいのに、彼によって上げられた呼吸と身体の熱を下げるのでいっぱいで、今度は私が眉を潜めた。彼は、のどを鳴らして笑った。「飲んでくれるって思わなかった。まあ、ちょっと零してるけどね?」そう言って、彼はビールが伝った私の口の端を舐めた。そのまま顎を、のどを、鎖骨を彼の熱い舌がなぞった。

ぞくりとした。彼特有の白銀の髪に手を置いた。けれど、もう遅い。彼の手がTシャツのなかに入り、私の肌を直接撫でた。私は彼の頭を止めることもできないまま、彼の髪が私の指に触れるのを感じた。良く知っている、彼の舌を感じ、そして、あとはもう。その熱に身を任せた。