必要性の有無



遅番のバイトが終わってマンションに向かった。9月は大学生にとってはまだまだ夏休みだけれど、世間は違うらしい。平日の今日、サラリーマンやノマドワーカーで店内はにぎわっていた。来年の今頃は私もそのうちの一人だなんて想像できない。

マンションのエレベーターに乗り、目当ての部屋に向かった。鞄から鍵を取り出し回して、ドアを開けて部屋に滑り込む。部屋は真っ暗で、空気はむっとしていた。手探りで電気をつけて、リビングのエアコンのスイッチを入れる。寝室から着替えを持って、バスルームでシャワーを浴びる。ボディーソープで身体を洗えば、男物の清涼感のある香りが広がった。

パイル素材のショートパンツと、私には大きい紺色のTシャツを着てリビングに戻る。部屋はエアコンで適度に冷やされていて、快適。冷蔵庫からミネラルウォーター出してコップに注ぐ。テレビをつければ、深夜独特の番組ばかり。チャンネルを何度か変えて音楽番組に決める。フローロングの床に直に座って、後ろのソファーに寄りかかる。水を一口飲んだところで、バイト先でもらった抹茶のマフィンを思い出した。夕食の代わりに、それを一口かじる。すごく甘い。

玄関で音がして、リビングの入り口に目をやると、久しぶりに見る姿があった。

「…帰ってきたんですか」

大学が夏休みに入ってからほとんど毎日この家にいるのに、この人に会ったのは数える程度だったから純粋に驚いた。

「まあ、ここは俺の家だからね」

そりゃあ帰ってくるでしょ、と彼は笑った。たしかに、ごもっとも。何も返すことがないので黙っていると、スーツを脱ぎながら、もうくたくた、と嘘くさそうに言って、彼は寝室に消えた。

テレビに目を戻せば、最近人気のある現役女子大生シンガーを紹介していた。へえ、私と同い年なんだ。歌のスタンバイのために画面から彼女が消えて、そのあいだに紹介VTRが流れる。リアルな恋愛や友情を豊かな歌声で奏でる彼女。彼女自身が作詞・作曲を手掛けた曲は同世代の女性から絶大なる支持を受けています―――。

「若い子ってみんなこの子の歌好きだよね」

いつの間にかリビングに戻っていた彼は「俺も今日、休憩時間にこの歌手の話さんざん聞かされたよ。休憩してんのに話しかけられたら、休憩にならないのにね」と漏らす。私はそんな彼の正確な年齢を知らなかった。若く思える見た目とは裏腹に、今みたいなおじさんのようなセリフが彼の年齢を不詳にしている。

「お前も、この歌手のこと好きなの?」
「さあ、よく分からないです」

正直に答えれば、「お前らしいね」と言われた。バスルームに向かう彼の背中を彼女の音楽を聞きながら見つめる。「私らしい」ってなんだろう。彼は私のことは大して知らないはずなのに、時々彼は私のことを知っているようなふうなことを言う。それはとても心地よくて安心もするし、同時に酷く気分が悪く不安にもなる。

一方で私は彼のことをほとんど何も知らない。いまいくつで、どんな仕事をしているのかも。推測はしても、確かめることをしたことがなかった。彼のことを知ることが重要だとは思っていない。それに、もしも尋ねたところで彼が正直に答えてくれるとは思えなかった。彼が私を「お前」と呼んで、私は「あの、」と声を掛けるような曖昧で希薄な関係。脆いけれど、きっと何も変わらない、私たちが、いまのままずっと変わらない限りは。だから、私は何も聞かない。彼を知ることは大した問題じゃない。