頑丈な壁



夢を見ていた気がする。けれど、それを思い出すほど覚醒していない。ぼんやりとまどろんで、夢現の頭で、久々に味わう深い眠りとそこから意識が戻る時に感じる疲労感を楽しむ。抱きしめられていると分かったのは、もう少し時間が経ってからだった。瞼を開けるまでになって初めて、彼の腕の中にいると知った。身じろぎを小さくすれば、彼は腕を緩めた。

「おはよ」

しっかりとした声からして、彼は随分前から起きていたらしかった。横向きに重なり合うように寝ていて、彼の声が後ろからそっと耳元に吹き込まれた。

彼のむき出しの身体の熱を薄いTシャツ越しに感じる。昨日、私たちはセックスをしなかった。

私は彼の肩に額を押し付けて、声が枯れるまで泣いて。言葉に出来ない感情を意味のない音に変えて、ひたすら涙を流した。その間、彼はただ優しく私の背中をさすってくれていた。いい加減身体の水分を使い果たしてしまったあと、彼は私をそっと浴室へと導いた。私のほかの服をまるでガラス細工を包む紙をほどくように、一枚ずつ丁寧にはいだ。シャワーのしたに私を立たせると自分の服も髪も濡れるのを気にもしないで、丁寧に身体を洗ってくれた。彼は、私にこびりついた汚れが何かなんて、知りもしないのに。丁寧に。

これまでと同じように、彼はなにも聞かなくて、私も何も聞かなくて言わなくて。身体ばかり重ねて熱を分け合って、上辺を取り繕って言葉で遊んで、曖昧で脆い関係を築いた。唇が重なるほど近づいても、声が聞こえないほど遠くにいた。でも、それは私達がそういう風にしか、互いと接さなかったから。初めて会ったときに、私達の間にあった壁。会うたびに私達はそれがあることを確かめて、確かめながらよりはっきりと上にも積み上げて。いつだって、それは私達を隔てていた。そうしたのは、私達を繋ぐものなんてない、ただの男女だと、したかったから。

「アスマさん、」
「…なに、起きて一言めがアスマなの」

私達をただの男女にしてくれない存在が頭に浮かんで口から零れると、ベッドから出た彼に見下された。軽口のように言うけれど、その表情は口調ほど明るくはない。彼だって、わかってる。私達はずっと、お互いの事を語らずにきた。それはきっと、私達を繋ぐ線を私達の間に浮かびあがらせないようにするため。アスマさんという、私達の点を結んだ線。そして今、もうこれまで通りにはいかない。現に、アスマさんが私のなかの彼を、実像のある存在にしてしまった。そして、私の存在をどんなものか言及した。彼は「良い人」で、私が関わるべき相手じゃなかった。

私が、彼との関係を曖昧にしたのは、そうだとどこかで感じていたからなのかもしれない。自分の汚れを知りつつ、手を差し伸べた彼に甘え、自分勝手な選択をしてると思いながら、彼のぬくもりを求めた。彼は、優しいから。彼は「良い人」だから。今まで、彼は私を向かい入れてくれていた。

「すいません…」
「いーんだけどね」

小さく笑った彼は、コーヒー入れるから起きなよ、と続けて寝室から出て行った。

後からリビングに行くと、「はい」と差し出されたコーヒーは、今まで見た事のないものだった。一方彼の手にあるのは、彼がコーヒーを飲むときに決まって使っていたもので。私達のなかで常だった二つのカップのうち、一つが別の物になったのは私達がこれまでと同じではないことを示しているようだった。マグを壊したのも、この関係から逃げたのも、私で。その事実を再度認識して心が冷たくなったのはほんの一瞬。今、私の手の中にあるのは、彼が持つマグと同じ形の色違いで。もしかしたら、これはこの家のどこかにあったのかもしれないし、わざわざ買ったのかもしれない。真相を知るほどの勇気は持ってないけれど。

「ありがとう、ございます」
「うん」
「カカシさん」
「なーに」
「ありがとうございます」
「…コーヒーに感謝しすぎでしょ」

リビングに移ろうとするカカシさんを呼べば、眉を下げて困ったように、少しおかしそうに笑いながら振り返った。

まるで、何もわかっていないかのように。私との時間が何も変わっていないかのように。私が言いたいのは、この勘違いしたくなるそれに入ったコーヒーなんかじゃないと知っているのに。もっと、ぜんぶ、彼がしてくれたこと全部への言葉だって、彼はわかってるくせに、誤魔化して。

「それでも、ありがとうございます」

何に対してなのか、それは彼に伝わってる。きちんと言葉にしないのは、出来ないからで。曖昧を保つことでしか繋がろうとしてこなかった私たちのやり方。接点を作ろうとせず、共有を避けてきた私たちのやり方。そうやって築いた壁を壊すには、私は勇気がなくて。それでも、受け取ってほしい。

「…俺に感謝なんてしなくていいよ」

ほら、受け取らない。今まで通りじゃないけれど、私たちは未だ壁を作って。そういう関係。曖昧で希薄な関係。彼はまた、それを続ける気だった。



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