あなたは何も知らなくていい



「―――っ、」

彼の動きを止めたのは、部屋の灯りではなくて、それに照らされた私の身体だと分かった。彼は、音にならない息を吐いた。洋服なしでは到底隠せっこないのに、両腕を前に持ってくる。首についた線状の痣を、手首の擦り傷を、身体のあちこちにある赤青紫緑黄色を、彼は見てしまった。ありありと私の身体にある、愛の痕。愛されたいから、受け入れたその証拠。


でも、違った。受け入れても、そこに愛はなかった。他に生き場のなかった感情。抑えようのない欲望。それを受け入れても、愛はなかった。その代わりに得たのは、痛みと苦さ、それからお金。私は、そんな風に自分の身体を使ってきた。足を入れたぬかるみは底なしで。いつの間にか、深みにはまって首まですっぽり浸かっていて。もう這い上がれないほど重く身体を包んでいて。身体の内側染み込んだ汚れは一生そこにいるようで。私は、十分すぎるほど落ちていた。

「っ」

次の瞬間、カカシさんは私の腕を引くと自分のほうに寄せて私を抱きしめた。先ほどまでとは違う、優しい手つきで、まるで私がガラスで出来ているかのように、私のむき出しの背中に彼の腕が回った。

「…ごめんね」

どうして、謝るの。悪いのは、私のに。汚れてるのは、私なのに。どんな顔をさせてしまったのか、彼の顔を見上げようにも、彼は優しいと同時に身動きできないほどにはしっかり私を抱きしめていて。口を開こうと息を吸うと、彼に「しーっ」と先に止められてしまった。

「何も、話さなくていいから」

そう言われて、無意識のうちに安堵の息が漏れた。彼は私を宥めるように背中を撫でて「俺の話聞いて、」と言って続けた。

「俺ね、お前に怒ってた。割れたマグカップ綺麗にして、歯ブラシも、着替えも全部なくなってて。終いには合鍵ポストに入っててさ。ああ、お前戻ってくるつもりないんだなって、さすがに理解したよ。でも、きっと心の中では、いつかなんでもない顔して戻ってくるかななんて期待して、鍵戻されたんだから当たり前だけど、帰って来るたんび部屋空っぽなのにがっかりして。お前は色々考えるから、今日のこと全部俺が分かっててやったって思ってるかもしれないけど、お前んとこの学祭行ったのは、たまたまだよ。お前の大学とは知ってたけど、まさか会えるなんて思ってなかった。会えたらいいななんて、思ってたけどね。そうしたら、お前、本当になんでもない顔して、いるんだもの。普通に大学生してて、良い先輩しててさ。俺ともなんでもない顔してて。考えてみればそれが一番お前らしいのに、微塵にも態度崩さないお前に腹立ってさ、それで俺分かったんだよ。俺、お前のことずっと待ってたんだって。お前のその顔見たら、どうしようもなくてさ。逃したくなくなったんだよね」

顔が見れないから、彼の感情が計れない。でも、ほんの少し彼の声は上ずってるように聞こえた。

「だからね、何も話さないでいいから。俺は何も聞かないから、いなくならないで」

こんな、縋るような言葉、彼らしくなくて。ああ、今日はずっと彼らしくない彼ばかりだと、心のどこかで引っかかるのに。彼の言葉が、心からじゃなくても。

「…俺はここにいるから、消えたりしないで」

そう言う彼が嘘吐きだったとしても。構わないくらいに、私は彼の温かさに甘えたかった。だって彼の傍はこんなにも、居心地がいい。気が付くと私は、彼の胸にしがみついて、声を出して泣いていた。だって、彼はこんな私を受け入れてくれる。彼の腕の中で、私は、愛されてると感じるから。