どうしてあの日、手を取った。



「…俺、ちょっと便所」

そう言って、座敷の席から立ち上がったアスマさんは暖簾をくぐって出て行った。その足取りが少し怪しくて、そして彼と二人きりになることがどうしてか落ち着かなくて、アスマさんの背中を追ってそのまま暖簾を見つめてしまう。しかし、いつまでも凝視することもできないので、逃げるように目の前のグラスを手に取って飲む。それで時間を潰せれば良かったのだかれど、すぐに空になってしまう。仕方なくグラスを置いて、先ほどから頬杖をついてこちらを見ている彼をちらりと見る。

「なんか頼もうか。何がいい?ジュリちゃん」
「…えっと、もう」
「一応、今日はジュリちゃんの内定祝いらしいからね。なんか飲みなよ」
「いえ、」
「ジュリちゃん強いでしょ、酒。どうせ俺たちのおごりだから」
「じゃあ、同じので」

そう答えれば、彼は店員を呼んで私のと自分のと、それからアスマさんの分と思われるお酒を頼んだ。アスマさんはもう十分なんじゃないかと思って、オーダーしている彼を無言で見てしまう。店員が去って、私に向き合うと、笑った。

「大丈夫だよ。あいつまだまだ飲めるよ」
「そうですか」
「それに、あいつ禁煙してるでしょ?口さみしいと思うから、今日くらいね」

何となく、居心地が悪い。それはほぼ初対面だからとか、相手が男の人だからとか、そういうことではないくて。

「いま、バイトしてないんだっけ」
「たまに、やってます」

突然話題が変わって、答えが遅くなった。脈略の関係ない、どうでもいい話。浅い会話で助けようとしてくれたのかもしれない。けれど、実際には答えにくい質問で、でも同時に大学でよく聞かれるから答えやすい質問でもあった。

「たまに?」
「派遣のアルバイトなんで、不定期なんです」
「へえ、どんなことすんの」
「…どんな。あの、色々です。日によって内容とか違うので」
「楽しい?」
「ええ、まあ」

全部、嘘で。でも、言いなれた嘘で。すらすらと答えられる。アルバイトなんてよく聞かれる質問で、適当に答えるのも慣れているのに、どうしてか居心地の悪さが変わらない。

「就活中はどうしてたの?」
「ほとんど、お休みしてました」
「そうなんだ、でもそれまでは週四とか五とかでしてたんじゃない?」
「いえ、そんなには」

どうしてそんなことを聞くんだと思っていると、彼はそれを知ってか知らずか「時計とかバッグとか良いの持ってるから、てっきり頑張ってんのかと思って感心してたんだよね」と続けた。それを受けて、いやに細かい所を見てるなと思ってしまう。それが顔に出ない様にして、小さく笑って「貰い物ですよ」と言えば、「良い彼氏だね」彼も笑った。

「こいつ、彼氏いないから」

そこで戻って来たアスマさんが言った。「少なくとも、俺が聞いてる限りは」とわざとらしくすねた口調は、アスマさんには珍しく、酔っているんだなと思った。その後ろを続くように、店員がオーダーした飲み物を持ってやって来た。自分の分のお酒もあることに気が付いたアスマさんは、隣のカカシさんの肩を叩いて抗議しながらも、結局躊躇なく口を付けていた。それから、アスマさんは、席を立つ前にしていた奥さんの話をまた始めた。



真夜中。終電ぎりぎりのアスマさんが改札をくぐるのをまず見送って、それから地下鉄へと向かう。彼とは線が違うと分かって安心した。あとせいぜい五分の辛抱だなんて思って彼と歩く。

「これから、どうしようか」

彼の質問の意図が分からなくて、足が止まる。数歩して私が止まったことに気が付いた彼は、振り返って私を見た。

「だから、これからどうしようか」

どういう意味か分からなくて、彼をただただ見てしまう。もう遅くて、アスマさんもいない。そもそも彼に、忠告されている。

「これからって―――?」
「俺んち、おいでよ」
「えっと、」
「アスマになら、黙ってれば気づかれないよ」

違う、それだけじゃない。初めて会った時、彼は私にはっきりと言った。

「私には…、興味がないんじゃないんですか」
「制服着てた時はね、でも今はもう違うでしょう?」

当然だというように、すらすらと言って試す様に、彼は笑いかけてきた。それに笑い返す余裕もなく、私は逃げるように視線を自分の手元に落とす。すぐに答えられない。彼といると、居心地が悪いのに、どうしてはっきり断れないのだろう。すると彼は、私に手を差し出した。

「おいで」

だた一言、そう言った。差し出した手は私に向けられているのに、放たれている言葉は私を誘っているのに。私に向けられた視線は、それとは違っていた。そこで気がつく。この視線が私の心を落ち着かせないのだと。彼の視線をよく知っているから。私の目と、よく似ていたから。だから、私は彼の手を取った。